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日本人と韓国人がわかりあえない理由

韓国でちょっと大きな地下鉄事故があったという報が流れました。韓国における鉄道事故は決して珍しいものではありませんが、今回は負傷者が多数出たこととセウォル号沈没事故の直後とも言えるこのタイミングなので、日本でも結構大きく取り上げられています。

対馬から盗まれた仏像の返却を訴えた裁判で、ソウルの行政裁判所が訴えを却下したその日に起きた事故ということもあって、ネット上では、冗談半分ながらこれを「対馬から盗まれた仏像の祟りだ」「仏罰だ」と言ってる人をしばしば見かけます。

この「祟り」とか「罰」という概念ですが、韓国人にもあるにはあります。ですが、教養ある韓国人なら、そんなものを気にしたり、ましてや半ば疑いつつであっても半ば信じたりすることはあまりないのが一般的なようです。

これは呉善花氏の著書にあった話ですが、クリスチャンの呉善花氏は、聖書を度々買い換えるそうです。そこで古くなった聖書はどうするのかというと、普通に廃棄するのだそうです。呉善花氏からそう聞いた日本人は、たいていの人が驚いて、「祟りがあるんじゃないですか?」と言うのだそうです。

それを聞いて呉善花氏が逆に驚きます。教養も学識も高い日本人なのに、真顔で「祟り」などと口走るからです。

韓国にも「祟り」や「罰」の概念はあるのですが、教養や学識の高い人がそんなことを気にすることは、ほとんどないのだそうです。逆に言えば、「祟り」や「罰」を信じる人は、教養や学識が低い人ということです(この辺りの感覚は、韓国において日帝統治を批判する人(=反日派)は教養や学識が高い人で、日帝統治を評価する人(=親日派)は教養や学識が低い人とされるのに通じるものがありそうです)。

しかし日本人である私たちは、教養や学識の高低に関わらず、聖書を廃棄すると聞いて「祟りがあるんじゃないですか?」と言う日本人に共感するでしょう。別に聖書に限った話ではなく、長年親しんで使った物や愛着のある物に神や霊魂の存在を感じ、それに畏敬の念を抱くことは、日本人には自然な感覚です。

ましてや自分が信仰していなくても、多くの人の信仰を集めるキリスト教の聖書であれば、日本で言えばお経のようなものです。それを古新聞でも廃棄するかのように捨ててしまうというのは、理屈抜きに何やら畏れ多い感じがします。

この「畏れ多い」という感覚が、どうやら韓国人にはないようです。以前にも幾度か書いたことがありますが、韓国人には畏れるものがありません(独裁者を戴く北朝鮮人には一応あるようですが、「畏れる」よりは「恐れる」の方がより強い気がしますw)。

彼らとて「恐れる」ものはあります。例えば、彼らが「死」を恐れることは、日本人よりも甚だしいかもしれません。特に若い人(=未婚の人)の死は、韓国人にとっては悪夢以外のなにものでもないようです。先月のセウォル号沈没事故が韓国社会に莫大な衝撃を与えたのも、被害者に高校生(=未成年者=未婚者)が多かったためでしょう。

韓国人は「八字(パルチャ)が悪い」とか「八字が荒い」などと言うことがよくあります。「八字」とは、四柱推命から来る言葉で、韓国には四柱推命が生活に深く溶けこんでおり、それが言葉にも現れているのでしょう。

「八字が悪い」とは、日本語で言えば「運が悪い」であり、「八字が荒い」と言えば「波瀾万丈の人生」ということになるようです。ちなみに「八字が悪い」とは、専ら女性に用いられる表現で、男性の場合は艱難辛苦が逆にチャンスになると考え「八字が悪い」とは言わないという説もあります。

いずれにせよ韓国人にとって艱難辛苦はあくまで「運命」であり、力のある人ならそれに立ち向かって打破することが出来ると考えるのが自然なようです。韓国人にとって不幸な事態に陥ることは、「運命」に打ち勝てなかった結果なのです。

彼らが最も恐れる「死」も、「八字」に負けた結果であり、しかも挽回のチャンスがないという点で救いのない絶望に等しいと言えます。ましてや未婚の者の死は当人にとっても悲劇ですが、親にとっても、自分の老後と死後を保障する者を失うことになるわけです。特に「死後の保障」は「死」という絶望の中の一縷の望み、即ち死後の祭祀(これによって、死者は「死後の世界で、永遠に生きている者」として扱われます)の継承であり、少子高齢化著しい現在の韓国において子供の死は、その断絶を意味します。日本人的には「死後も永遠に生き続ける」という感覚は今ひとつ馴染みませんが、韓国人的にはそれを信じない日本人の方が信じられないようです。

そういうこともあってか、日本人と比べると韓国人は「死」を非常に恐れます。

そのくせ彼らは何かを「畏れる」ということがありません。彼らは、他人に向かって神や先祖を敬って見せることはありますが、畏れるということはありません。

ところで「恐れる」と「畏れる」はどう違うのでしょうか。

漢字が違う、というと何やらおちょくっているように聞こえるかもしれませんが、日本語でどちらも「おそれる」と読むということは、「おそれる」という日本語には、「恐」という意味も「畏」という意味も含まれているということです。つまり漢字が違うということは、漢字が持っている意味が違うということなのです。

辞書を引くと、「恐」と「畏」では、「恐」の方がやや幅広い意味を持つようです。「恐怖」や「戦々恐々」などのように、「何かをこわがって心配すること」という意味が第一義になりますが、「恐惶謹言」とか「恐悦至極」などとも使われるように、「恐」の字にも「「畏」の意味が含まれます。

対する「畏」という字は、これは「(能力などの)優れた者をおそれうやまうこと」という意味にほぼ限定されます。つまりあえて「畏れる」と書く場合は、「おそれうやまうこと」という意味に限定したい場合に限ると考えて良いでしょう。もちろん、当記事でもそういう意味で用いております。

話を元に戻して、「畏れるもの」がないということが、どういうことかと言うと、「(能力などの)優れた者をおそれうやまうこと」がないということ、即ち自分が世界で一番優れていると思っているということと言えるでしょう。韓国人は、自分より能力的に優れた者がいても、それはたまたまその人の運が良かった結果、周囲から優れていると評価されているだけであって、能力的にその人が自分より優れているとは考えないようです。

それは人のみならず、神という人を超越した存在に対しても同様です。昨年、韓国の三大紙のひとつであり、三星の機関紙とも揶揄される中央日報の論説委員のコラムで「日本への原爆投下は神の懲罰だった」と書いたことが話題になりましたが、このコラムのオチは「彼(筆者註:安倍総理)の行動は 彼の自由だ。だが、神にも自由がある。丸太の寃魂がまだ解けていなかったと、それで日本に対する懲罰が足りないと判断するのも神の自由だろう。」という一節でした(尚、日本語版は削除されましたが、朝鮮語原文はこちらです)。

日本人ならば、決してこういう文章は書けません。この一節には、このコラムを書いた記者が、自身の願望を神の意思とイコールに考えているということがよくあらわれています。

こういう傾向は、韓国のキリスト教系新興宗教の教祖が、しばしば(私の知る限りでは例外なく)自ら神を名乗ることにもあらわれています。クリスチャンではない私でも、絶対唯一神を戴くキリスト教では、自ら神を名乗ることはこの上もない不敬であり不遜なことだと思うのですが。

畏れるものがあるから日本人は優れているとか、ないから韓国人は進んでいるなどと言う気はありません。ただ思うのは、畏れるものがある日本人と畏れるものがない韓国人とでは、互いを互いを本当に理解し合う日は、永遠に来ないのだろうなということだけです。



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