存在を感知出来なければ存在しないのと同じですから
韓国の子供の日は、おそらく日帝残滓だろうとは思うのですが、何しろ韓国では端午の節句も韓国起源になっているようなので、子供の日についても疑問に思う韓国人はあんまりいないのでしょう。
この子供の日に絡んで、韓国の朴槿惠大統領が自身のフェイスブックに「子供の日にすべての子供たちが元気で明るく育つように願って。祝福の一日となることを…」と記したところ、セウォル号沈没事故でたくさんの高校生が亡くなったり安否不明になっていることで、非難が殺到したそうです。
日帝残滓の子供の日のせいでこんな目に遭ったと逆恨みして、彼女の反日に一層の拍車がかかるんじゃないかと要らぬ心配を、ほんの少しだけしました。
さて、いつまでも同じネタを引きずるのはよろしくないとは思いつつ、セウォル号沈没事故は韓国と韓国人を煮詰めて精錬したかのような様相を呈しているので、韓国について語ろうとすると、どうしても引き合いに出したくなります。
とにかく、出てくる話出てくる話が、何もかも嘘か与太か三文芝居なのです。事故で子供を失って嘆き悲しむ親の気持ちだけは本物かもしれませんが、そこから出てくる理屈さえもがきっちり韓国人だから手がつけられません。
いわく、「大人の言うことを聞いて死んだ子が間違っていたのか」「子供には、大人の言うことを聞くなと教えなければならなかったのか」と。
こういう屁理屈を言わせると、韓国人はまことに天下一品です。何の予備知識もないところに、いきなりこういう屁理屈をぶっつけられると、たいていの日本人がその質問を真に受けて考え込んでしまうでしょう。
韓国社会では、こういう屁理屈の応酬が日常的に行なわれているに違いありません。というか、日韓チャットにいた頃、確かに韓国人からのこういった屁理屈攻撃が日常的にありました。
それに慣れない内は、韓国人の発した屁理屈を大真面目に受け取り、一所懸命考えて返答したりしていましたが、やがて慣れてくるとそういう真面目な対応が限りなく無意味であることに気付きます。
こちらが彼らの質問をどんなに大真面目に受け取って誠実に考え、自分なりの答えを返したとしても、その答えが彼らの望むとおりの答えでなければ、彼らは絶対にそれを正解とはしません。
逆に私たちが韓国人に質問すると、質問された韓国人は私たちの反応を探りながら、実に慎重に答えを返そうとします。
「慎重に答えを返そうとする」なんて言うと、何やら韓国人が誠実な返事をするように聞こえるかもしれませんが、実際のところは違います。
韓国人は質問されると、「自分の頭で考えて出した答え」ではなく、「質問者が予め用意しているはずの、模範的な答え」を言おうとするのです。その「模範的な答え」を当てるために、彼らは慎重に質問者の様子を伺い、答えを探るのです。
ということは逆に、彼らが質問する時は、「相手がどう考えているか」を知ろうとして質問しているのではなく、「自分の考えを察しろ」という意図で質問しているということなのでしょう。そういう意味では、彼らには質問するよりもさせる方が、彼らの考えを知るには良いかもしれません。
今回の被害者の親の「大人の言うことを聞いて死んだ子が間違っていたのか」という質問にしてもそうです。
この質問を発した韓国人は、「大人の言うことを聞いて死んだ子が間違っていた」とは微塵も思っていません。それどころか、間違っているのは「大人の言うことを聞かずに生還した子」だという確信を持っているでしょう。
「大人の言うことを聞くなと教えなければならなかったのか」という質問にしても同じです。「子供は大人の言うことを聞くべき」という、韓国では絶対不変の真理とも言える道徳を前提にして、それを守った聖人か天使のような我が子が何故死ななければならなかったのかという不条理を指摘し断罪する正義の化身の如き立場で、韓国社会を糾弾しているつもりなのでしょう。
ならば、被害者の親は一点非の打ち所のない過失ゼロの完全無欠な「被害者様」なのでしょうか。
子供を失った親に対して何と酷なことを言うと思われるでしょうけれど、非難を恐れずはっきり言えば、私は今回の事故に関しては被害者の親にも一片の責任があったと思っています。
もちろん、その責任がいちいち取り立てて糾弾するほど大きな責任だったとまでは言いません。ですが、自分は被害者の親だから被害者と同じ立場、つまり被害者そのものだから完璧に正しく非の打ち所なく、一切の過失も責任も問われず、ひたすら他人の過失と責任を追及出来る立場なのだと思っているとしたら、それこそが今回の事故の種子を育んだ温床だと思うのです。
今回の事故をほぼ最初から観察し続けていると、何よりしみじみ思うのが、本当に彼らは、反省しないということです。
いやいや、そんなことはない、韓国言論はこぞって反省一色な記事ばかりだという人もいるかもしれません。ですがそういう記事にしても、よく読んでみると「他人に反省を促している記事」であって、自分が反省している記事ではないのです。
稀に「自分が恥ずかしい」などと書いている記事もあるにはありますが、これも必ずしも自ら反省しているわけではないと読むべきでしょう。日本人は「恥ずかしい」と思えば「反省する」のが当たり前ですから、韓国人も同じと思ってしまいますが、韓国人にとって「恥」は「かくもの」ではなく「かかされるもの」であるということを思い出してください。
つまり「恥ずかしい」と書いた韓国人記者が、ちゃんと「恥ずかしい」と思った点を自ら反省して、「恥ずかしいところは直そう」と思うかどうかは、はなはだ疑問なのです。
それよりも「恥ずかしいと思わされた」という方向に走っていき、「それは他人が悪いからだ」と考えるようになる方が、韓国人としては自然な反応でしょう。あるいは、「自ら恥ずかしいと思うなら、お前が責任を取れ」と他の韓国人に言われれば、慌てて「自分は悪くない」と言い張るに違いありません(ちなみに、彼らは責任を問われないという確信があれば、割と簡単に謝罪したり反省したりしますが、責任を問われそうな時は、絶対に謝罪も反省もしないことは既に日韓チャットで実験済みです)。
被害者の親にしても、同情する点が多いということは私も認めますが、彼らがそれを振りかざし、完全無欠の「被害者様」として、他人の非を穿つことばかりに懸命になるのであれば、私はあえて彼らにも反省すべき点があったのではないかということを指摘します。
死んだ者は、もうそれ以上何もどうしようもありません。生きている者一人一人が、自分に何か省みる点はなかったかということを真摯に考え、あればそれを反省し、同時に教訓とすることで同じ過ちを二度と繰り返さぬように知恵を出し合い、あるいは考え方を正していくことが、韓国社会全体の成長というものであり、死者に対するせめてもの供養ではないでしょうか。
しかしながら、既にご存知の方も多いと思いますが、韓国では今回のような事故は初めてではありません。二度目でもありません。既に何度も何度も何度も何度も、運輸機関やインフラの管理運用の無責任さが原因の事故を、懲りも飽きもせず繰り返しています。
そのくせ不運も不幸も神の思し召しと、不本意でも粛々と受け入れるならばともかく、その都度その都度、彼らは胸を叩いて我が身に降りかかった不運や不幸を嘆き悲しみ、それぞれの立場の者が他人の過ちを咎め失敗を責め、そうして自分は棚の上に上るのです。
今回が例外ではない、ということは、今回の事故が最後にはならない、ということです。恐らく韓国では、これまでどおり今後も同じような惨事が、何度でも起きるでしょう。
言ってもどうせ無理だということは、わかっています。彼らにその機能は備わっていません。彼らにそれを期待することは、犬に代数を解かせようとするのと同じことだということは、よくわかっています。
ですが、それがたとえ犬であっても、非業の死を遂げるのを目の当たりにすれば胸は痛むし涙は出ます。ましてや中身は何であれ、それが人の皮を被った生き物であれば尚更というものです。
ですから、韓国が好きとか嫌いとかどうでも良いとかは別にして、無理とは知りつつも、韓国人に自ら省みるということを覚えて欲しい、韓国人に同じ過ちは繰り返さないで欲しいと思うのも、嘘偽りのない気持ちです。
しかしそれが現実的に望めない話である以上、韓国での出来事が全く聞こえないようになることを祈る方が現実的だし、日本人の精神衛生にとっても良いのではないでしょうか。
日本人に韓国人という生き物について周知させると散々書き散らかしておいて何言ってやがると思われるかもしれませんが、それは今の日本が、否応もなく韓国と関わらずにいられない状態だからです。
日本と韓国が完全とまでは行かずとも、可能な限り接触や交流を減らし、韓国のことなんか全然知らなくても何の問題もないという環境が日本で成立すれば、韓国人の習性や思考についての考察を披露する弊ブログも存在意義を失うでしょう。
それが現実となって、韓国人が何度も繰り返す惨事に心を痛めずに済むようになる日が一日も早く訪れることを、心から祈る次第です。