韓国人が仕掛ける同調圧力
文才ぶった言い回しだな^ ^ 毎回 稚拙で自己愛に満ち溢れた文章で^ ^ ファシストめ! 大人を信じて死んで逝った子供達の気持ちはアンタの様な輩には一生わからんだろうな… 反韓も良いケドアンタも人間だろ? 人としてどうなんよ!韓国人でも人だよ! 2014/05/18-10:32 | URL | Peng #-[ Edit] |
このコメントを拝読して最初に思ったことは、「なるほど、韓国人はこうやって他人に同調圧力を掛けるのだなあ」ということです。
と言えば、コメントした方は「私は韓国人ではない」と仰るかもしれません。しかし以前から繰り返し申し上げている通り、私は「実際の国籍や血統に関わらず、韓国人のような真似をする者は韓国人とみなす」ことにしております。
当該コメントは、現在の韓国社会の悲嘆に無条件同調しない私を強く非難するものであり、まことに「韓国人のような真似」と言うに相応しいものです。「毎回稚拙で自己愛に満ち溢れた文章で」と仰る以上は、当然これまでの弊ブログにおける主張も十分にご承知の上でのコメントなのでしょうから、もし韓国人でないとしても、韓国人とみなされることにはご承服いただけるものと確信しております。
ところで当該コメントで仰るとおり、セウォル号沈没事故で「大人を信じて死んでいった高校生たち」の気持ちは、私には多分一生わかりません。そもそも、セウォル号沈没事故で亡くなった高校生たちが、本当に「大人を信じて死んでいった」のかということからして、私には確信が持てません。
私には、今回の沈没事故で亡くなった高校生を始めとする被害者たちが、私が知り得た大量の韓国人と全く同じように、今目の前で展開されている「信じたくない現実」から目を背け、自分にとって(その瞬間だけは)都合が良い嘘や甘言に乗っかっただけにしか思えないのです。
その結果「最悪の事態」になったわけですが、ではもしあの時、沈みつつあるセウォル号の船内で誰かが「この船はもうすぐ沈むに違いない。このまま船室に居続ければ、閉じ込められて出られなくなるかもしれない。せめて船室の外に出ておいた方が良い」と叫んでいたら、どうなったでしょうか。彼らは「信じたくない現実」を直視したでしょうか。
私は、もしそう叫んだ韓国人がいたとしても、きっと他の韓国人たちから、「なんて縁起の悪いことを言うのだ」とか、「海に落ちて溺れたらどうするのだ」と責められて、黙らされただろうと思います。
ここに現れる危機に対する鈍感さと言うか、意図的とも思える目の逸らし方は、文禄・慶長の役の直前にあった朝鮮通信使の報告を彷彿とさせます。
1591年(天正19年)3月、朝鮮に帰国した朝鮮通信使は秀吉のことを報告したが、報告内容は2つに分かれていた。西人派(正使の黄允吉)は戦争が近いことを警告したが、東人派(副使の金誠一)は「日本の侵略はあったとしても先の話」と否定。結局、政権派閥だった東人派が戦争の警告を無視し、対日本の戦争準備はほとんど行われなかった。 (Wikipedia【文禄・慶長の役】より) |
文禄・慶長の役の直前の朝鮮で楽観論が通ったのは、彼らが楽観的であったからというだけの理由ではなく、朝鮮の内政的な派閥間の確執や対立が背景にあったわけですが、それを勘定に入れるとしても、国の運営に携わる者が最も優先すべきは国民の安全と国家の護持であり、内政的な派閥間の確執や対立ではありません。にも関わらず彼らは派閥抗争を優先し国家の危機に対する備えを疎かにし、結果として国を大きく損ないました。
こう言えば、お叱りのコメントをされた方は「セウォル号事故と政治や歴史は関係ない」とまた仰るかもしれません。しかし、私が考察しているのは、最初から韓国の政治や歴史、経済、更には反日と言った事象そのものではないのです。
韓国社会に現れるそれぞれの事象を個別に考察をしているのでは、彼らのマジェマジェに振り回されるだけです。それらを構築し、現実化させているものは何かを直視することこそが、韓国考察では最も肝要と私は考えています。ではそれらを構築し、現実化させているのは何でしょうか。それは彼らの習性や性質、思考や行動様式、即ち、韓国人そのものではないでしょうか。
セウォル号沈没事故に関しては、韓国人は自分につながる問題点から必死で目を逸らし、嘆き悲しむのでなければ犯人探し(より正確に言えば生贄探し)をするばかりです。誰もが揃って「自分は悪くない」ということを周囲に認めさせるために、被害者に哀悼するふりをしています。稀に「自分は悪かった」と言う者がいても、それは「反省している自分」を演出し、以ってそれを評価してもらおうとしているだけです。「自分が悪かったと認めるならば、お前がこの事故の責任を取れ」と言えば、その韓国人はたちまち逃げ腰になるでしょう。
物言えぬ死者は神聖不可侵の偶像として祭り上げられ、それを盾にすれば、どんな暴論も我儘も大手を振ってまかり通り、それに疑問を示したり従わなかったりすれば袋叩きに遭います。事故時の被害者の行動が適切であったかどうかということから事故の原因追及やその教訓化についての議論までもが、被害者に対する冒涜だと誰かが叫べば、彼らはたちまち思考停止して偶像化された「可哀想な被害者」側に擦り寄り保身を図るのです。
そうすることが、韓国人にとっての「人として」当然の反応であり行動なのでしょう。しかしこれも弊ブログでこれまでに何度も述べてきたことですが、日本人の考える「人間らしさ」と、韓国人の考える「人間らしさ」はまるで正反対と言っても良いぐらい異なります。私は日本人なので、韓国人の考える「人間らしさ」に同調することは出来ません。
全ての日本人にとってそうだとまでは言いませんが、現在の私にとっての韓国人の存在価値はただひとつ、「反面教師」だけです。それさえ禁忌とされるのであれば、もはや韓国人の存在は百では足りぬほどの害ばかりで、一利もありません。
全ての日本人が、韓国人の存在価値を反面教師だけと考え、それが徹底されるようになれば、以前も申し上げた通り弊ブログは存在意義を失うでしょう。ですが私にとっては極めて理解に苦しむことではありますが、日本人の中には、韓国人に「反面教師」以外の存在価値を見出す方も少なくないようなのです。
そういう日本人は、韓国人と同調し易く、韓国人から見れば同一化しやすい日本人です。有り体に言えば、韓国人の「カモ」です。
セウォル号沈没事故では多数の罪もない高校生が亡くなったのだから、韓国人と全く同じようにひたすら死者を哀悼する以外は思考停止しろと言われることは、韓国人に同調しろと言われることと同じであり、ひいては韓国人の「カモ」になれと言われているのと同義です。弊ブログとしては断じてお断り申し上げるしかありません。
韓国人が、事故や事件で亡くなった人物を神聖不可侵の偶像とし、それを盾に自らの我意や欲求を通そうとするのは、今回のセウォル号沈没事故が初めてではありませんし、おそらく最後でもないでしょう。
日本人的感覚としては、死者当人の意思を無視するだけではなく、それを自らの我意や欲望とすり替えて通そうとすることこそが、死者に対する冒涜に感じられますが、韓国人的感覚ではそうすることで死者を生きている自分と同一化し、同一化した自分が死者の思いを代弁することが、物言えぬ死者の無念を晴らすことになると考えているのかもしれません。
それに韓国人が納得し、満足しているならば、韓国はそれを続ければ良いと思います。しかしそれを日本に持ち込まれることや、ましてやそれを日本人に押し付けられることには、全力で反対しますし抵抗します。それが弊ブログであり、そのことに不快や嫌悪、反発を覚える方は、弊ブログをご覧にならない方が精神衛生上よろしいかと存じます。
最後に一つだけ申し上げておきたいことがあります。弊ブログでは過去に何度か「私は反韓ではない」と述べており、それを説明する記事も書いております。今回お叱りのコメントを下さった方は、その後のコメントで「このブログのファンでしたが」と仰っておられましたが、にも関わらず私を躊躇なく「反韓」と決めつけられたことには、大いに遺憾を感じると同時に、これまで弊ブログの何を読んでおられたのかと、強く疑問に感じた次第です。