楽しんでるように見えるかも知れませんが
韓国社会を震撼させたセウォル号事故以来、韓国内においては重大な事故が続くなあと感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。もっとも実際には、事故が「続いている」のではなく、事故が「報道されている」だけではないかと私は考えております。
つまり韓国では、交通機関や公共施設等における人的被害を伴うような事故は毎日当たり前のように起きており、セウォル号事故以前は単にそれらがほとんど報道されていなかっただけなのではないかということです。
それはおそらく、私の気のせいではないでしょう。韓国における交通事故の多さは有名ですし、今月頭にも書いたように韓国における鉄道事故は珍しいものではありません。建物の深刻な瑕疵や不具合、手抜き工事の発覚などは、その建物が明らかに倒壊あるいは崩壊でもしない限り、韓国ではニュースとしての価値すらないようです。
韓国内で報道されたニュースであっても、日本で報道されるとは限りません。ましてや韓国内で報道されることもなかったニュースが、日本で報道されることなどあるはずがありません。
大手マスコミが嘯く「報道しない自由」とやらが、どれほど罪作りなことなのか、こういう点からもよくわかります。
さてセウォル号事故が韓国社会に与えた衝撃は大きく、そのため韓国言論は自虐的になったり反省を促してみたり、今後の対策「みたいなもの」を考えたりしているようですが、そういう風潮もいつまで続くものやらと、私は冷めた目で見ています。
と言うのも、彼らは根本的に「自分の過ち」というものを認めません。朝鮮では過去の歴史において、敗者は九族皆殺しにされてきたため、「自ら過ちを認める」=「死」と考えられるようになったためなのか、あるいは「自ら過ちを認める能力を持つ者」は全て殺されて、「絶対に自分の過ちを認めない者」だけが淘汰を勝ち抜いてきたためかは議論の余地があるでしょうが、いずれにしても彼らにとって「過ち」は常に他人のものであって、自分のものではありません。
実際、当のセウォル号事故についても、何だかんだ言いながら彼らが「悪いのは自分ではない」と確信したらしいのは、韓国三大紙のひとつ、中央日報の「まずは「人格教育」から…セウォル号惨事を契機に動き出した大韓民国」という記事からも窺えます。
セウォル号事故について、韓国言論などで盛んに言われているように、「悪いのは韓国社会全体の倫理と道徳の崩壊である」と彼らが本当に考えていたのなら、「学歴や競争ばかり強調した教育から脱却して、責任・正直・配慮・疎通・孝・礼など私たちが重視すべき社会的価値を子供たちに教え、大人たちも学んでいこうという意味」とする「人格教育振興法」案に、「イ・ジュンソク防止法」などという別名を付けるわけがありません(中央日報の記事を読めば明らかですが、「イ・ジュンソク」とは、セウォル号の船長の名前です、念の為)。
この法案の別名からはっきりと読み取れるのは、「セウォル号事故での悪者は船長」という意識だけです。この期に及んでも、彼らは「ウリには絶対的に正しい倫理観・道徳観がある」と確信しているのです。
彼らに「絶対的に正しい倫理観・道徳観」などないとは言いません。あるにはあるでしょう、彼らが装い、飾り立てる上っ面には。しかし「絶対的に正しい倫理観・道徳観」があるとしても、それが上っ面を飾るだけで機能しないのであれば、無いのと同じことです。
こういう韓国人の挙動を見ながらしみじみ思うのは、自分が正しいと確信している人は、何度も同じ間違いを繰り返すということです。
私の周辺にもそういう人が居て、度々同じような失敗を繰り返します。その人は注意をすると、「はい!わかりました!」「了解です!」と返事は良いのです。良いのですが、やはり同じような失敗を繰り返します。
注意の仕方やタイミングが悪かったのかと思って、子供に言い聞かせるように丁寧に、その人の行動の先を読んで注意すると、今度は「馬鹿にしてるんですか?」「私には私のやり方があるんです!」と切れ始めます。
それではと、実際に失敗するタイミングですかさず注意すると、「私に注意するのを楽しんでるでしょう?」と言われました。楽しんでるなんてとんでもない、激しくうんざりしていると答えたのですが、聞いちゃいません。
どないせえちゅーねんと思いつつ、結構根気良く注意を続けたのですが、とうとうその人は「自分が失敗するのは、自分をこういう風に生んだ親が悪い」と言い出しました。
「自分の欠点を親のせいにして良いのは、十八までだよ」と言うと、「何でそんなキツいこと言うんですか?」と、まるで私がその人をいじめているかのようなことを言い出した辺りで私は匙を投げ、出来るだけその人から遠ざかるようにしました。すると今度は「何か私に冷たくありません?私、あなたに何かしましたか?」と突っかかられましたw
「自分は間違っているかもしれない」と考える人は、自分の行動を振り返り、確かめるものです。神様でない身であれば、誰しも間違うものですが、「間違っているかもしれない」と考え、自分の行動を振り返り確かめる人は、自らの間違いに気付き、失敗を未然に防ぐことが可能です。
しかし「自分は正しい」と確信している人は、自分の行動を振り返りませんし、確かめません。仮に自分に悪いところがあるとしても、それは全て他者のせいだと思っているので、必然的に間違いは間違いのまま放置され、取り返しの付かない事故に至る確率が高まることになるのです。
私の周辺にもそういう人がいるように、日本人にもそういう人が皆無というわけではありません。しかし韓国は、そういう人が圧倒的多数なのです。まことに、彼らの反面教師としての優秀性は、飛び抜けていると言って良いでしょう。
ただ、彼らの失敗は常に「それは一部です、一部を見て全体を判断しないでください」などという常套句と共に隠蔽され、あるいは「ウリ」から弾き出した生贄に全ての責任をひっ被せて知らん顔をされることがしばしばあり、慣れない人には俄かに見えづらいということはあります。
昨今、嫌韓気運の高まりと共に、韓国の失敗隠蔽の手口も広まりつつありますが、未だに韓国の失敗隠蔽に意図的に加担する日本人も少なくありません。
そういう彼らの手口に騙されたり誤魔化されたりする日本人が一人でも少なくなることを祈って、弊ブログでは彼らの手口や習性の周知を何度もしつこく繰り返しております。
そうすると、しばしば「韓国人の悪いところを殊更にあげつらって楽しんでるだろ」とか言われたりする訳ですが、正直言うともうすっかりうんざりしているのですw