韓国人に「許すこと」は出来るか
韓国人は権威に大変弱いと言うか、権威に擦り寄って同化しようとする習性があります。ローマ法王の訪韓に韓国人が異様に浮かれていたのも、ローマ法王の権威を借って、自分たちが偉くなったような気になっていたからでしょう。
ローマ法王がソウルで行なったミサでは、自称元従軍慰安婦を最前列に配置するなど、ローマ法王の政治利用にも余念がなかったようです。
そのミサにおいてローマ法王は「法を犯した兄弟を完全に許しなさい」と述べられたといいます。その意図は様々に解釈出来るでしょうが、私は言葉の解釈以前に、韓国人に「許す」という行為がそもそも可能なのかなと思いました。
中華文化圏では、恩を忘れないのと同じレベルで、怨恨も忘れてはならないと聞きます。ですから中国人や朝鮮人は、しばしば「(日本の罪を)許すが忘れない」などと言いますが、私は以前からこの「許すが忘れない」という言葉に引っかかりを感じています。
それは、中国人はさておき(さておく理由は、私が中国人にはさほど詳しくないからです)、朝鮮人に関しては、恩はたちまち忘れるくせに、怨恨はどんなに些細なものでも執拗に記憶するからです。時には、ありもしなかった怨みまで覚えていることがあるのですから、怨まれる方はたまったもんじゃありません。
「恩も怨恨もどちらも等しく忘れない」と言うのなら、まだ筋は通っていますが、彼らが忘れないのは「怨恨」だけなのです。
日本では、怨んだ相手を許すことは、即ち怨みを忘れることです。と言っても、本当に忘れられるとは限りません。受けた傷の度合いによっては、相手に対する怨みを、どうしても忘れられない場合だって当然にあるでしょう。
それでも日本では、怨んだ相手を許すと決めた以上、忘れられなくても忘れることにします。そうすることで相手を許すと同時に、自らも怨みという負の感情から解放されることになります。
翻って韓国には、弊ブログをご覧の方ならよくご存知の「恨(ハン)」があります。これは、韓国人に言わせるとずいぶん美化して説明することがありますが、私は一貫して「果てしなく生じる願望に対する果てしない追求に応じ切れない現実世界に対する不満から生じる負の感情」と理解しています。
前述したとおり、彼らは恩はどれほど大きなものでもたちまち忘れますが、怨恨については異常なほど執拗に、時には捏造したり増幅までして記憶します。それは、彼らが自分たちに与えられる如何なる優遇も全て当然と考え、同時に如何なる抑制も不当と考えているからでしょう。
それはつまり、彼らが自らを如何なる存在よりも優遇されて当然の存在であると(何の根拠もなく)確信しているということです。
にも関わらず、現実は彼らの確信を否定します。その結果、彼らは常に被害者を自称します。彼らの主観では、常に何者かによって、不当な損害を被らされていることになるからです。
「不当な損害を与える者」に対し、彼らが「許す」と言うことはあります。それは「許すこと」が被害者の特権だからです。しかし本当に許してしまえば、その時点で「被害者」と「加害者」という関係は消滅してしまいます。そうなれば、「被害者」の特権も消滅します。
ですから彼らは、「だが決して忘れない」と言うのです。「許す」という被害者特権は行使するが、そのことで被害者という上位の立場を手放すつもりはない、ということなのでしょう。この彼らの「被害者」という立場への執着も、「恨」の一種と言えるかもしれません。
彼らは「恨」を「過去の傷や悔しさ、悲しさなどのつらい記憶を土台にして、決して同じことを繰り返さないように、次は必ず成功させてやる、上手く行ってみせると決意する思い」「過去にあったマイナスの出来事への悔いや悲しさを燃料に、大きなエネルギーを爆発させる感情」などと美化しており、超短期的にはそのように機能することもないわけではないのかもしれません。
ですが長い目で見れば、「恨」は間違いなく彼らを縛り苛み傷つけ苦しめています。しかもその苦しみを、彼らは自分のみならず周囲にも拡散させます。彼らは「恨」という毒で互いに傷つけ合い、殺し合っているようなものです。
それが朝鮮半島の中だけで行なわれ、更に朝鮮半島が完全とまでは行かなくとも、概ね閉鎖された空間であるならば、それも彼らの独自文化と考え、生あたたかく見守ってやっても良いのですが、彼らの毒は非常にしばしば日本に向けられ、しかも日本国内で行なわれることすら珍しくありません。
まことに日本人としては不条理で不本意で不愉快な話です。結果として、日本では嫌韓気運が高まることになり、韓国は小さくないダメージを被っています。これもまた、彼らの「恨」が招いた苦しみと言えるでしょう。
今回ローマ法王が韓国人に向けて「法を犯した兄弟を完全に許しなさい」と述べられたのは、韓国人が「許さない人々」であり、「許さないこと」が韓国人自身を苦しめていると考えられたからではないでしょうか。
ローマ法王がミサで「許しなさい」と言っただけで、韓国人が「許すこと」を覚えて実践出来るようになるとは、それこそ全ての韓国人が「霊的に生まれ変わり」でもしなければあり得ないということは、ローマ法王もおそらくよくご存知でしょうけれど。