偏狭なのはどちら?
さて現在の日本には、日本人は愛国心を持ってはならないという強烈な心理的束縛があります。多くの日本人が、他国人が愛国心を持つことを悪いこととは思わないどころか賞賛すべきことと考えるようですが、日本人が日本に愛国心を持つとなると、途端に眉をひそめます。
それは多分にWGIPの成果でしょう。子供の頃に刷り込まれた意識は、大人になってもなかなか変えられるものではありません。子供の頃、真面目に学校の授業を受けていた人ほど、その束縛は強いのではないでしょうか。
私は、全く自慢にはなりませんが、学校の授業をあまり真面目に受けてきませんでした。そのせいで他人より刷り込みの度合いが弱いのか、日本人が愛国心を持つことにもあまり抵抗を感じません。
それに弊ブログは、一応嫌韓にカテゴリされるブログです。私自身も、嫌韓であることを自ら名乗っています。親韓が反日の同義語となるように、嫌韓は親日の同義語となり得るでしょう。外国人なら親日で良いのですが、日本人の親日は即ち愛国にほかなりません。
ですから私は、弊ブログの読者には日本人の愛国心を肯定する人が絶対多数だと決め付けていました。それが私の思い違いであったことは、数年前の記事から明らかになりました。嫌韓であっても、日本を愛していると堂々言える日本人は、意外に少ないのです。
それを煽っているのが、親中・親韓であるが故に反日である日本のマスコミでしょう。彼らは日本人が愛国心を持たぬよう、日本人の愛国心に嫌悪と拒絶を催すよう、常に印象操作に努めています。
京都新聞の「ヘイトスピーチ 対策に英知を集めよう」という社説の最後の段落で「偏狭なナショナリズム」という一節を見た時、ふと思ったのは「何故「ナショナリズム」という言葉に、「偏狭」という言葉を冠したのか」ということでした。
「偏狭」とは、辞書によると
1 自分だけの狭い考えにとらわれること。度量の小さいこと。また、そのさま。狭量。「―な考え方」「―な性格」 2 土地などがせまいこと。また、そのさま。狭小。「―な領土」」 |
この「偏狭」の対義語は、1の意味からならば「寛容」あるいは「寛大」ですが、2の意味で言えば「広範」も対義語と言えるでしょう。「偏狭なナショナリズム」に対する「偏狭でないナショナリズム」というものがあるとすれば、「寛容なナショナリズム」「寛大なナショナリズム」あるいは「広範なナショナリズム」があるということなのでしょうか。
しかしいずれも全くピンときません。そもそも「ナショナリズム」という言葉自体が、「Nation=国家」を基にしたものである以上、当然その範囲は限定されます。範囲を限定しなければ、「Nation」は存在し得ないからです。「グローバルなナショナリズム」とか「ボーダレスなナショナリズム」という言葉が成立しないように、ナショナリズムはそもそも多少なりとも偏狭という性格を持つのではないでしょうか。
その言葉にわざわざ「偏狭」という熟語を冠するのは、言ってみれば「馬から落馬する」「頭痛が痛い」「被害を被る」「落雷が落ちた」と同じ類です。私のような素人作文家や野良ブロガーがやるならご愛嬌ですが、プロの新聞記者がやれば資質を問われてもしかたがありません。
もっとも執筆者がプロの新聞記者であるが故に、あえて狙ってその言葉を用いた可能性の方が、当然に高いでしょう。即ち、単に「ナショナリズム」と書いただけでは、執筆者の持つ「ナショナリズム」に対する嫌悪感や不快感、拒否感が十分に伝わらないと考えた可能性は大です。
つまり、あえて「偏狭」という言葉を「ナショナリズム」という言葉に冠することで、「(日本人が持つ)ナショナリズムは否定されるべき概念なのです」と強調したのかもしれません。
しかし客観的に見て、そういう反日メディアの思想そのものが極めて「偏狭」なものであるのは皮肉です。日本を否定するために、日本人が愛国心を持たないようにするために、愛国心を持つ日本人を糾弾するために、彼らは常に極めて「偏狭」な思考や主張を行なっていると言わざるを得ません。
韓国人にとっての「世界」は、往々にして「韓国」であることが多いのですが、日本の反日マスコミにとっての「世界」も、韓国人ほどではないにせよ、かなり「偏狭」ではないでしょうか。
日本の反日マスコミがまずやるべきは、「偏狭なナショナリズムを抑える流れを作」ることではなく、自らの「偏狭な反日思想」を改める流れを作ることじゃないのかと思った次第です。