「罰(バチ)」が怖い?
この件については、「朝日新聞の誤報」というよりは「朝日新聞による意図的な捏造」という方が正しいのではないかと思うのですが、朝日新聞はどうやら完全に居直るつもりのようです。
朝日新聞のシンパ(韓国系言論を含む)は一所懸命擁護に励んでいるようですが、一度損なわれた信用はそう簡単には回復しません。しかも朝日新聞は今回が初犯ではないのです。
朝日新聞には、これまでに幾度も日本を貶め、毀損してきた前科があります。彼らの信用は、今回突然崩れたのではなく、彼らが今までこつこつと積み上げてきた日本毀損の前科によってついに崩れたのです。
今回のことをきっかけに、これまで朝日新聞が時代を味方に好き放題やってきたツケが、今後一斉に回ってくる可能性は大いにあります。その莫大なツケを返すのに、朝日新聞はどれくらいの負担と年月を要するでしょうか。いっそ潔く自己破産、即ち廃刊する方が良いのではないでしょうか。
そうすることで彼らのしたことがチャラになるとは全く思いませんが、せめて自ら腹を切って見せることで、これまで自分たちがしてきたことの責任を認める意思を示すぐらいのことは出来るでしょう。逆に言えば、それすら出来ないのなら、朝日新聞に自浄や更生など望むべくもないということです。今後の朝日新聞の行動を注視したいと思います。
さて、前回の記事のコメントに、「つまり月見櫓さんは罰が当たらないなら韓国人の絶滅を願いたい。まあそれが普通ですよね。わかります。でも願ってこっちに罰が当たると困るし怖いので願えませんよね」というコメントを頂戴したのですが、何か違和感を覚えました。
私は、「罰(バチ)が当たると困るし怖い」ので、韓国人の絶滅を願わないのでしょうか。
思うに、「罰(バチ)が当たらないなら韓国人の絶滅を願いたい」ということはありません。韓国人が絶滅するという確約があり、その対価が私一人に罰(バチ)が当たる程度で済むならば、むしろ積極的に願っても良いぐらいですw
では何故私は、「そんなこと(=韓国人の絶滅)を願えば罰(バチ)が当たる」と言ったのでしょうか。
それは多分その願いが、自分の手を汚すことなく自分の望みが十全に叶うことを願うという、あまりにも図々しい、身の程知らずな願いだからではないでしょうか。
「罰(バチ)」には、悪事だけではなく、身の程知らずや怠惰を戒める意味もあるように思います。「罰(バチ)」は、仏教で言うところの「因果応報」に似ています。「因果応報」とは読んで字の如く、「原因と結果に応じた報い」のことです。「罰(バチ)」もまた、何もないところにいきなり降りかかるものではありません。自らの行ないに因って生じる結果です。
良い行ないをすれば良い結果が返り、悪い行ないには悪い結果が返るものです。もちろん、世に不条理は付き物ですから、悪いことや身の程知らずなことをしてる奴が良い思いをして、良いことをしている人や謙虚な人が貧乏くじを引かされることは珍しくありません。ですがそれでも、調子に乗って悪いことや身の程知らずなことをし続ける者は、いつか必ず自らの行ないに応じたしっぺ返しを食らうものです。それは、現在の朝日新聞を見ればご理解いただけるでしょう。
つまり、「罰(バチ)が当たる」というのは、罰(バチ)を恐れて悪いことをするなという戒めではなく、「罰(バチ)が当たるようなことは最初からしてはいけない」という戒めではないでしょうか。
罰(バチ)が当たるから、罰(バチ)が恐ろしいから、悪いことや身の程知らずなことをしない、というのであれば、罰(バチ)が当たらなければ、罰(バチ)が恐ろしくなければ、どんな悪いことも身の程知らずなこともして構わないということになってしまいます。
「罰(バチ)なんて非科学的な迷信だ」と嘯く韓国人のようになって罰(バチ)の存在を否定するようになれば、ズルもインチキも身の程知らずも嘘も怠惰も悪事も、韓国人のように何の抵抗もなくやるようになってしまうかもしれません。
「罰」を「バツ」と読んだ場合を考えても、やはり同じです。「罰(バツ)があるから、犯罪を働かない」というのでは、やはり逆さまでしょう。それなら「罰(バツ)がなければ、犯罪を働いても良い」ということになってしまいます。
「罰(バツ)」があろうとなかろうと、犯罪は働くべきではないのと同様、「罰(バチ)」があろうとなかろうと、悪いことや身の程知らずなことはするべきではないのです。少なくとも私は、「罰(バチ)」についてはそう考えています。