人は生まれ方は選べないが、生き方は選べる
たまたま与えられた「自分」に何ら不満がないという幸福な人も世の中にはいるのかもしれません。しかし大抵の人は、たまたま与えられた「自分」に、多少なりとも不満を持っているのではないでしょうか。自分の性別に違和感を抱いている人もいますし、自分の容貌に劣等感を持っている人もいます。体格や知能、運動能力、それから人種や民族もそうです。
日本人であっても、自ら望んで、あるいは自ら選んで、日本人として生まれてきたという人はいません。ですから、自分がたまたま日本人に生まれたということに満足している人もいれば、不満に思っている人もいるでしょう。
それは朝鮮人も同様です。彼らも自ら望んで、あるいは自ら選んで朝鮮人として生まれてきたわけではないでしょう。私から見ると、朝鮮人はそのほとんどが朝鮮人として生まれたことに不満を感じているように見えますが、それは私が嫌韓だからであって、自分が朝鮮人であることに十分満足してる朝鮮人も、それなりにいるのかもしれません。
いずれにせよ、私は韓国人が嫌いですが、だからと言って彼らが朝鮮人として生まれたことそのものを責めるつもりは全くありません。私が韓国人を嫌う理由のひとつには、彼らが自ら選んで朝鮮人のような生き方をしているにも関わらず、そのことに自覚も責任も感じていないということがあります。
生まれてしまえば、生き方もある程度は決まってしまうものです。南極に生まれた人と、ケニアに生まれた人が同じ生き方をすることは出来ません。
同様に、日本における日本人としての生き方が即ち朝鮮半島における朝鮮人としての適切な生き方とは全く思いませんし、その反対も然りです。日本において、日本人には日本人としての生き方があるように、朝鮮半島においては、朝鮮人にも朝鮮人としての生き方というものがあるのでしょう。
日本人から見て、朝鮮半島における朝鮮人の生き方が嫌悪や不快を催すものであったとしても、あるいはそれが互いに互いを傷つけ合う残酷で悲惨な生き方であったとしても、彼らが彼らの場所で生きるためにその生き方が必要ということであれば、それは日本に居る日本人がとやかく言うことではありませんし、言うべきでもありません。
ですが、彼らが彼らの生き方を彼らの場所ではなく、日本で行使しようというのであれば話は別です。日本は日本人の国であり、日本人としての生き方を求められる国です。その日本で朝鮮人の生き方をただ押し通すだけでも軋轢は当然に生じますし、それを日本人にも許容せよと強要するのであれば、それに対し日本人が抗議したり非難するのは、日本人の当然の権利です。
日本人は、ジンケンとかサベツとかビョードーとかタブンカキョーセーという呪文を唱えられると、何でも相手の言うことを聞かねばならないと思い込む病気に罹っている人が少なくありません。これまでそういう病気に罹っている日本人を、朝鮮人は悪用してきました。しかし今、多くの日本人はその異常さに気付き始めています。
日本人としての生き方と、朝鮮人としての生き方に少なからぬ差異がある以上、両親のどちらか、あるいは祖父母の内の誰か、もしくは数親等内の直系尊属に朝鮮人がいるという日本人は、自分の身体に流れる双方の血の葛藤に悩まされるかもしれません。そういう日本人の中には、生まれながらに日本国籍を持ち、血量的にも日本人の割合が半分以上であるにも関わらず、不思議と半分以下のはずの朝鮮人の血の方に強くこだわろうとする人がいます。
朝鮮人の血を持って生まれたことは、その人が選んだことではありませんから、その人の責任ではありません。あえて責任の所在を問うのであれば、それは親や先祖の責任です。ですが、自分の中に流れる朝鮮人の血にこだわる生き方をするのはその人が選んだことであり、その人自身の責任です。
その人が朝鮮人の血にこだわって、朝鮮半島で朝鮮人として生きるつもりなのであれば、朝鮮人の生き方を選ぶことは誰からも非難されることではないと思います。しかしその人が、日本で日本人として生きるつもりなのであれば、日本人としての生き方を選ぶのが当然です。
極端な話、血統的に全く日本人でない人であっても、その人が日本人としての自覚を持ち、日本人としての生き方を選んで実行するのであれば、私はその人を日本人と考えることに何の問題もないと考えています(ex.小泉八雲)。そもそも「血統的に純粋な日本人」などというものが存在するのかという素朴な疑問が私にあるのは、以前にも述べたとおりです。
同様に、血統的に純粋な日本人(笑)であっても、朝鮮人のような生き方を自ら選び行なうのであれば、私はその人を朝鮮人とみなすべきだと確信していますし、そういう人が日本で朝鮮人としての生き方を押し通し、周囲にも許容させようとするならば、抗議や非難の対象となるのは当然だと思っています。
人間以外の動物は、生まれてしまえば生き方を選ぶことは出来ません。犬なら犬として、猫なら猫として、牛や馬、鳥も魚も虫も、そう生まれてしまえば、そう生きるしかありません。
しかし人間だけは、自ら生き方を選ぶことが出来ます。たまたま日本人に生まれたからと言って、絶対に日本人として生きなければならないということはありません。日本に生まれた人には、日本が嫌なら日本を出て、望む国でその国の人になる自由と権利があります。もっと言えば、人間にこだわる必要もありません。人としての生き方を捨てて、人でなしの生き方を選ぶことも可能です。
どんな生き方を選ぶのもその人の自由であり権利です。それらは、少なくとも日本人として生まれた人には十分に保証されています。同時にその責任を負う義務も発生します。自由と権利、責任と義務を十分に自覚した上で、日本人として生きるか、日本ではない国の人として生きるか、あるいは朝鮮人として生きるか、実際の国籍や血統に関わらず、全ての日本人が真摯に考えるべき命題ではないかと思う今日この頃です。