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日本の滅私奉公、韓国の滅公奉私

11月も半ばを過ぎると、いよいよ寒くなって参りましたが、皆様ご健勝にお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。報道によると衆議院の解散が決まって、来月選挙だそうです。正直面倒くさい(´・ω・`)。いや行きますけどね。

それから日本の国民的映画スター、高倉健さんがお亡くなりになったそうで、確かにご高齢ではありましたが、驚きました。心より哀悼の意を捧げたいと思います。

高倉健さんの訃報を「"日本のアン・ソンギ"と呼ばれる高倉健死去に韓国ファンも哀悼の意」という見出しで報じたメディアもありましたが、「Ken TAKAKURA」と言えば海外でも高い知名度の映画スターであり、およそ韓国でしか知られていないアン・ソンギとは、全く比較にはならないんじゃないかなあと思わなくもありません(アン・ソンギについては、映画「韓半島」で大統領役を演じたものを見たことがありますが、良い役者さんだと思います)。

さて、常々日本と韓国は違うと述べている弊ブログですが、日韓で最も異なるのはやはり価値観でしょう。一言で価値観と言っても色々ありますが、日韓で最も大きく異なるのは「公と私」についての価値観ではないでしょうか。

日本人は明らかに「公」を「私」よりも優先する価値観を持ちます。対する韓国人にとっては、「私」が「公」より遥かに優先されることは、弊ブログでも過去に述べたことがあります

ディス・イズ・コリア」を著した室谷克実氏は日本の「滅私奉公」に対する韓国の概念を「滅公奉私」と表現されましたが、まことに優れた表現だと思います。

日本人にとって「滅私奉公」は、当然の規範です。日本でも昔と比べれば、「私」が随分優先されるようにはなりましたが、それでも「他人に迷惑を掛けてはならない」という「公」に対する配慮の意識は根強くありますし、個人の事情よりも、その個人が所属する会社や組織の事情が優先される傾向は明らかです。

これは、「公」が「私」を包含するものであり、「公」を守ることがひいては「私」にも利することという意識が、日本人には普遍的にあるからでしょう。

「私」に利するためには、「公」が確かなものである必要があります。いざという時に「私」を守ってくれない「公」では、意味がありません。

誰にとっても「私」が大事なものであることは疑う余地がありません。言うまでもなく日本人であっても、「私」は大切なものです。その大切な「私」をより確実に守り、あるいは利するためには、単独よりも、多くの「私」を集合させた「公」で行なう方がより強力ですし、合理的でもあります。

そのためには、自分の属する「公」がより強大である方が、「私」にとっても当然有益です。「私」に多少の負担がかかったとしても、「公」の勢力を少しでも維持・拡大した方が、大きく長い目で見れば「私」にとっても有益であることは明白です。それを理解しているからこそ、日本人は「滅私奉公」を受け容れ、遵守するのでしょう。

翻って韓国人にとっては、「私」は何よりも優先すべきものです。たとえ自分の所属する「公」が滅ぼうとも、自分という「私」が生き残ることが出来れば、それで良いのです。

そもそも韓国人にとって全ては「私」のために存在するものですから、「公」も当然にそうです。「公」が当然に「私」のために存在する以上、「私」が「公」のために何かしなければならないということもありません。無条件で自分という「私」に益さない「公」など、韓国人にとっては何の存在価値もないものですから、それを蔑ろにすることに何の問題があるでしょうか。

ですから彼らは「公」が順調に機能している時は、「公」に寄りかかりすがりつきもしますが、もし「公」が自分という「私」に益さなくなれば、「私」のために躊躇なく「公」を捨てるのです。

日本人から見れば、そういった韓国人の「滅公奉私」意識(実際には、彼らはほぼ無意識でやってますがw)は極めて唾棄すべきものです。「公」から「私」に与えられる益は貪るだけ貪るくせに、その逆には決して応じないというのは、イメージとしては、日本の自治体に生活保護は要求するが、日本への税金は払わないようなものとでも言えばわかりやすいでしょうか。

日本人から見た韓国人の「滅公奉私」が唾棄すべきものということは、日本人の「滅私奉公」も、あるいは韓国人から見れば嫌悪の対象になるのかもしれません。

韓国言論などでは、日本の「滅私奉公」的規範を見習うべきなどという論調が出ることもないことはないのですが、それはあくまで述べるものが「公」的な立場にある時だけの話であって、実際にそれが自分自身という「私」のことになれば、彼らは途端に「滅公奉私」となって何の疑問も矛盾も感じないのです。

ですから彼らは、常に何かにつけ「ウリ」「ウリ」とさえずるのでしょう。「ウリ」とは、弊ブログでは「自分自身」と定義しておりますが、この「自分自身」は彼らの主観で容易に拡大されますので、ある意味「ウリ」は常に彼らにとっての「公」と言えるかもしれません。

しかしその逆、即ち「公」が常に「ウリ」たり得ることはありません。「ウリ」は必ず「自分自身」から発して、どれほど拡大されようと、必ず「自分自身」に収斂されるからです。日本人のように、「公」が「私」の集合体であり運命共同体であるなどという意識が、彼らの「ウリ」に発生することはありません。「ウリ」はどこまで行っても、「自分自身」なのです。

この価値観の違い故に、日韓は互いに決して相容れ得ず、常に互いの精神衛生を損なうのだと私は確信しております。



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