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平成26年年末ご挨拶

今年もいよいよ押し迫り、まもなく新しい年になります。この一年、弊ブログをご愛顧いただき、まことにありがとうございました。良い年だったかそうじゃなかったかは人それぞれでしょうけれど、日本としては概ね悪くない年だったのではないでしょうか。

特に日本の、韓国に対する姿勢は本当に良くなりました。このまま後戻りせず、前に進んでもらいたいものです。

2014年の韓国関連といえば、やはりセウォル号とナッツリターンが筆頭でしょう。どちらも、韓国らしさを遺憾なく発揮した事件でした。特にセウォル号関連は、韓国らしさを煮詰めて結晶にしたかのごとくでした。

以前にも申し上げましたが、似たような事故は、韓国では報じられていなかっただけで普通に頻繁に起きていたものだったと思います。ただ、あそこまで韓国らしさの全てを余すところなく詰め込んだ事故がなかっただけのことでしょう。

これはナッツリターンにしても同様で、この事件の最大の問題は、韓国では上位者が下位者に対して、傲慢とか尊大では済まされない態度を取るのが至って普通に行なわれているということを、国際的に暴露してしまったことでしょう。

いずれも、韓国がどういう国であり、韓国人がどういう人々であるかを、言葉で説明する以上にわかりやすく示してくれた事件だったと思います。

日本はほとんど無関係(事故船舶が日本製の中古だったことぐらいしか関係がなかった)にも関わらず、朝日新聞がセウォル号事故を「2014年の十大ニュース」にランクインさせたそうですから、ホントにあの新聞は、「心において」韓国の新聞なのだなあと再確認出来たのは、思わぬ収穫でした。

ともあれ、日本が普通の国となるには、韓国という重石と言うか足手まといと言うか、障壁を排除することが重要だということは、今年一年で証明されたのではないかと思います。

日本が韓国を排除すれば、日本の何もかもが上手くいくというほど、世界は簡単ではありません。が、日本が韓国を可能な限り排除することで、わずかでも日本の悪化を食い止めることが出来るのは確かです。

だからと言って、韓国を忘れてしまっては元の木阿弥です。韓国には「関わるな、しかし忘れるな」の精神で接することが重要です。

それから懸案の書籍化について、今のところはただオファーを待っているだけの状態ですが、来年はこちらから動けることがないかも模索してしてみようかなと思っています。電子書籍とかも考えたんですが、やっぱり紙媒体にこだわりたい。ネットを見れない人にこそ、伝えたいのです。そういう意味では読めれば良い、別に立派な装丁なんて要らないので、同人スタイルの出版も有りかななんて思っております。ただコミケとかはちょっと行けないので、販路が問題ですが(´・ω・`)

もちろん、引き続き出版関係者の方からのオファーも絶賛お待ちしております(`・ω・´)。

ネタは枯渇して久しく、更新も遅れがちではありますが、それでも必要としてくださる声がある限り、弊ブログは続けていきたいと思っております。

それでは新しい年が、日本と皆様にとってより良い一年になりますように、また来年も弊ブログに変わらぬご指導ご鞭撻ご声援を賜りますようにと願って、平成26年の年末ご挨拶とさせていただきます。


平成26年(西暦2014年)12月31日
筆者敬白
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責任転嫁も「韓国人のような真似」

いよいよ今年もどん詰まり。皆様方には良い年の瀬をお過ごしでしょうか。

さて韓国についていろいろ知るうちに陥りやすいのが、「日本の悪いところや望ましくないものは全て韓国(朝鮮)由来」と考えてしまうということでしょう。しかもそれが必ずしも間違いではないことがしばしばありますから、悩ましいものがあります。

韓国(あるいは朝鮮)人の醜悪さというのは、実は人間が普遍的に持っているものであることが多いと、私は考えています。

仏教ではそれを煩悩と呼んでいます。「煩わしい悩み」と書くように、「それ」は心地よい感情ではありませんし、「それ」に振り回されれば、良くない結果に至ることが少なくありません。しかし「煩悩」そのものは、必要なものです。「煩悩」がなければ、文化も文明も発達しなかったでしょう。それ以前に、「煩悩」があるからこそ、人は生きていけると言い切っても良いでしょう。

問題は「煩悩」そのものではなく、それを制御しない(あるいは出来ない)ことなのです。

「煩悩」の根源は、「欲」だと思います。「欲」は、別に人間様の専売特許ではありません。動物はもちろんのこと、時には植物にもあるのではないかと思うことがあります。しかし動物や植物には、尋ねてみたことはありませんが、「煩悩」は多分ないでしょう。「煩悩」は人間の専売特許と言えます。

韓国人はこの「煩悩」そのものを「人間らしさ」と嘯いて、それを制御しません。それが「韓国人らしさ」を形成していると言っても、過言ではありますまい。しかし本来の「人間らしさ」とは、「煩悩」を制御することだと私は考えています。

「煩悩」を制御しない、あるいは出来ない人というのは、韓国人以外にもしばしば存在します。例えば、子供がそうです。韓国人を見ていると、小児的な印象を抱くことが多いのはその為かもしれません。

困ったことに、大人にもそういう人はいます。しかも案外珍しくありません。もちろん日本人の中にも、結構います。

その人を見て、「韓国人のような真似をしている人だ」と思ったり指摘するのは妥当です。しかし何の根拠もなく「あれは韓国人だ(≒日本人ではない)」と決め付けるのは、妥当とは言えません。それは「日本人絶対無謬」という意識に、容易に結びつきます。「何の根拠もなく、不快を感じる相手を韓国人と決め付けること」そのものが、「韓国人のような真似」でしかないのに。

日本人の「日本絶対無謬」は、韓国人の「韓国絶対善」の裏返しにしかなりません。日本の良いもの、優れたものをことごとく韓国起源にしてしまうのと、日本の悪いとこや望ましくないものをことごとく韓国由来にしてしまうことの、どこが違うと言えるでしょうか。

コメントで、お笑い芸人の乱暴な物言いを「朝鮮の声闘由来ではないか」というご質問を下さった方がいらっしゃいます。

「本来、上方の言葉は、まるで歌うかのように流れる柔らかい響きを持ち、相手を思う心遣いに溢れた言葉です。商人の町です、自然にそうなったと。」と仰っておられますが、一言で大阪弁と言ってもさまざまです。

私の住まう枚方は、最も大阪寄りの東海道の宿場で、京都にも程近く、平安の時代には皇族の所領地も多数あった由緒ある地域ですが、当地の名物に「くらわんか舟」というものがありました。

これはかつて淀川を上り下りする船を相手に酒食を売る舟が枚方にあったのですが、売り子が地元の言葉で「餅食らわんか、酒食らわんか、銭がないからよう食らわんか」と乱暴に呼ばわったのが由来とされているように、この近辺の言葉は荒かったようです。

私が住む枚方は北河内と呼ばれ、河内弁に属します(尤も現在では、この地域は地方からの転入者が非常に多かったため、かなり標準語に近いのですが)。淀川を挟んで、枚方の向かいに当たる摂津地方では、摂津弁が用いられるそうです。堺の方へ行けば、泉州弁というのがあるそうです。「上方は商人言葉」というのは、いわゆる船場言葉のことでしょう。また、吉本芸人が用いる大阪弁は、ある意味「吉本弁」と言っても良いかもしれません。

この「吉本弁」に朝鮮の声闘の影響があるのではということですが、日本の芸能における物言いは、朝鮮の声闘とは異なり、感情のままにほとばしるものでもなければ、勝ち負けを定めるために行なわれるものでもありません。

基本的には、(用いている当人にその意識がなくとも)様式として計算され成立しているものです。これは上方芸能に限りません。

江戸の落語にしても、「大工調べ」や「たがや」ではそれはもうべらべらべらべらと悪口雑言が出てきます。上方漫才を朝鮮の声闘由来ではないかと言うのは、「大工調べ」や「たがや」を「韓国の悪口雑言が由来ではないか」と言うようなものでしょう。

日本の悪いところや望ましくないものを認めたくない気持ちは、わからないでもありません。しかしそれを韓国のせいにすることこそが、「韓国人のような真似」です。そのことを、私たちは心するべきではないかと思った次第です。



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韓国人の言う「職人精神」は褒め言葉ではない?

今年もすっかり押し迫り、商店街やスーパーなどでは「迎春」の文字が入ったディスプレイが目立ちます。

私が子供の頃は、「迎春」とか「新春」などという文字は本当に年が明けてからか、せいぜい大晦日の夕方からしか見られず、クリスマス終了直後から新年を思わせるディスプレイをするようになったのは、少なくとも私が住んでる地域では21世紀に入ってからではないかと思います。十年一昔などと言いますが、本当に時代は十年やそこらで結構変わるものです。

ところで、前回記事の韓国人の「ある」「ない」思考について、これを日本語の「アリ」「ないわー」的にお考えの方がいらっしゃるようですが、ならば「日本はない」という書籍タイトルは、「日本、ないわー」であり、「日本はある」は「日本、ありだよな」というニュアンスが成立するとお考えということでしょうか。個人的には、その方が「ないわー」です。

以前から弊ブログで何度も申し上げているとおり、日本語と朝鮮語で同じ意味とされている語彙があっても、それが全く同じ意味であるとは限りません。日本語に訳された朝鮮語を日本語と同じ意味で理解すれば、微妙な齟齬が生じる恐れがあります。

もちろん、だからといって彼らの言うことを朝鮮語そのままで理解することは、日本語を母語とする者であれば朝鮮語に相当熟達しても困難なことですから、誤解の余地がどれほどあっても翻訳は必要です。その上で、可能な限り誤解の余地を埋め、埋め切れない時はせめて「これは日本語と全く同じ意味ではない」ということを意識しておく必要があると私は考えています。

そもそも日本語における「アリ」「ないわー」は、意図的に主語を脱落させた口語表現であって、文語で用いることはほとんどありません。文語で用いれば、普通の「ある」「ない」と同じく、「で、これにかかる主語は何?」という疑問を読者に抱かせるでしょう。実例を示せば、三段落目末尾に書いた【個人的には、その方が「ないわー」です】という文の、「その方が」という主語を省いて、【個人的には、「ないわー」です】と書くようなものです。

さて、韓国。

韓国についていつも思うことに、「見えない部分」に対する関心の無さがあります。例えば建物の基礎や、塗装の下地などの、「見えない部分」に、彼らは極めて無関心です。それはこれらが前回記事に書いた「ある」「ない」で言うところの、「ない」の部分だからでしょうか。

そのためか、彼らは職人に敬意を払うということがありません。かつて、初の純韓国製ロケットという謳い文句で語られた(騙られた?w)羅老号の打ち上げ生中継を見ていたことがありますが、ものの見事に「偉いさん」しか出てきませんでした。

その頃、日本ではH2Aロケットを危なげなく打ち上げていたのですが、その生中継を見ていると、「見えない部分」に携わる人々が真っ先に、また多数紹介され、あるいはインタビューされていたのが非常に対照的でした。

日本では、昔から職人に対しては敬意を持つのが自然で普通でした。今でも、一流の技能を持つ職人は当たり前に尊敬を集めますし、一流とまではいかずとも、見えない部分の作業を真面目に誠実にこなす人の存在の重要性を、多くの日本人が理解しています(実際、その部分の作業を外国人労働者に頼らなければならなくなった昨今、日本製と言っても品質に疑問符が付くものが増えたように感じられます)。

日本が世界大戦に敗れ、台湾に中華民国・南京国民党軍が進駐した際、蛇口をひねるだけで水が出るのを見た国民党軍兵士が、蛇口があれば水が出るのだと思って荒物屋で蛇口を買って壁にねじ込んだが、水が出なかったために荒物屋の店主に怒鳴り込んだという有名な逸話がありますが、韓国人の感覚はまさにこの国民党軍兵士と同じなのでしょう。

韓国人にとって、水道とは水が出る蛇口こそが何よりも重要なのであって、目に見えない水道管など、それが必要という理屈は理解出来ても、感覚として理解出来ないのではないでしょうか(ちなみに、韓国では飲用水は専用の水サーバーを使っているところが多いようです。多分、蛇口から出てくる水がどこから来ているのかが「目に見える」から安心なのでしょうw)。ましてや、「見えない水道管」を設置したり維持する作業員に思いを至らせることなど、おそらく絶無と言い切っても過言ではないかもしれません。

その感覚は韓国社会にあまねく広がっており、韓国人が韓国の道路が波打ってるのを嘆くことはあっても、道路工事をする人を無視することは絶対にやめられませんし、日本料理が世界的にもてはやされることを羨んで、韓国料理の国際的ブランド化を国を挙げて目指しても、韓国人が料理人を心から尊敬することはありません(実際、朝鮮日報の鮮于鉦が東京特派員だった頃、ミシュランガイドで星を獲得した寿司屋を取材した記事を読んだことがありますが、何とも職人に対する敬意を感じられないレポートで驚いた記憶があります)。

それに対する職人の方も、韓国社会に向かって胸を張るということが出来ません。韓国社会が向ける蔑みの視線に背中を丸め、俯き、「恨(ハン)」を募らせながら作業をするのです。そんな意識で作業して「いいもの」など、出来るはずがありません。

韓国ではこのように職人を蔑む方と蔑まれる職人とが、その状態で安定してしまっているので、これを覆すのは並大抵なことでは不可能でしょう。

日本人の「ものづくり」を見た韓国人が、「これぞ職人精神だね!」とコメントしているのを翻訳掲示板まとめブログなどで見かけることがありますが、私はそれを見るたびに、「きっとこれは賞賛五割侮蔑五割ぐらいなんだろうな」と思ったりします。

見えない部分や基礎を蔑ろにする習性が韓国人の性根からなくならない限り、韓国が本当の意味での文明国になることはないでしょう。

もっとも、韓国人にとって彼らの「性根」は「見えない」もの、即ち「ない」ものであり、認識出来ないものです。認識出来ないものを正すことなど出来ません。

彼らが見えない部分や基礎の重要性を理解するためには、彼らが自分自身の見えない部分を直視することが出来るようになる必要があります。つまり二段階の発展あるいは発達が必要なのであり、そういう意味で彼らが真の意味での文明人になるには、やはり彼らが種として進化する時間が必要になるのかもしれません。



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韓国人は「ある」か「ない」かで考える

日本人にとってのクリスマスは、どうやら12月24日までらしく、近所のスーパーでは24日の夕方から一斉にクリスマス用品のコーナーを片付け、慌ただしく正月用品のコーナーに模様替えをしておりました。いよいよ今年も大詰めです。

さて、日本人にとって韓国人のわかりづらさは大変なもので、まず「わかりづらい」ということからしてわかりづらいのです。

韓国人についての知識を持たない日本人は、韓国人の外見に日本人と似ている部分が多いために、中身も日本人に近いのだろうという無意識の先入観を持つ日本人が一般的でしょう。

更に厄介なのは、彼らが擬態する生き物ということです。黙って立っているだけでも誤解しやすいというのに、彼らは一度口を開けば意識的にも無意識的にも、日本人の誤解を助長するようなことをべらべらしゃべります。

彼らの口から出る全ての言葉が、一切の例外なく嘘やでまかせだけで出来ていればまだわかりやすいのですが、困ったことに連中は事実と嘘を常に必ず綯い交ぜにします。

事実は、事実のみで事実として成立します。例え言ってることの9割が事実であっても、そこに1割の嘘を混ざれば、それは9割の事実と1割の嘘の話ではなく、全てが嘘の話になります。しかし韓国人は平然と、「9割が事実であれば嘘が1割混ざっていても、それは全て事実である」と主張しますし、日本人は非常にしばしばこういう主張に容易に転がされてしまうのです。

もっとも1割の嘘を混ぜたとしても、話す内容の9割が事実であれば、韓国人にしては極めて正直、あるいは誠実な方と言えるでしょう。韓国人の場合、9割の嘘に1割の事実を混ぜても、「話の中に1割でも事実がある以上、9割が嘘でもそれは事実と言って良いニダ」と本気で言うのです。

こうして日本人は、韓国人の外見と口先に騙されます。外見というのはなかなか厄介なもので、韓国人が内面と同じような外見であれば、いくら日本人が呑気なお人好しであってもまず最初から近寄ろうとしないでしょうし、もし不意に近くに現れれば、悲鳴をあげて逃げ出すはずです。

ところが、外見が人間に似ているだけで人間は油断してしまうものです。更に呑気でお人好しな日本人は、外見が日本人に似ているなら、中身も日本人に似ているのだろうと思い込んで接するので、韓国人からすれば面白いように騙せてしまうのでしょう。

弊ブログでは、再三ならず「日本人と韓国人は真逆と言って良いほど異なる」ということを主張しており、「何が違うのか」をくどくどしく述べております。

しかし最近、それはあんまり意味が無いことなのかもしれないなと思い始めました。韓国人は全てを「有る」か「無い」で考えているということを知れば、それで十分ではないかと。

前々回記事、「ウリのウは「有」、ナムのナは「無」と書く?」を書いた後で思ったことですが、韓国人は「有る」「無い」だけで表現することがよくあります。

かつて韓国でベストセラーになった「イルボヌンオプタ(邦題:悲しい日本人)」は、直訳すれば「日本はない」です。

ですが、突然「日本はない」と言われても、日本人の私には何が「無い」のかさっぱりわかりません。

純粋に「日本はない」というセンテンスだけで理解するならば、「日本」そのものがない、と理解するのが自然です。しかし、日本は歴然とあるわけです。ですから、「日本はない」というセンテンスは、「日本(のホニャララ)はない」という意味だと理解するのが、日本語的な解釈になるでしょう。

私は今まで「日本はない」というセンテンスは、「日本のあんなものやこんなものやそんなものは、ない」という意味だと勝手に解釈しておりました。「あんなもの」や「こんなもの」「そんなもの」が具体的に何かは、作中の記述から理解しろということなのだろう、と。

ところが最近、何気なく中央日報を見ていたところ「<東日本大地震>「日本はある」…惨事でも配慮忘れぬ文化に世界が驚いた(2)」という見出しを見かけました。

それは東日本大震災に遭遇した日本人の姿を伝える記事だったわけですが、最後に「災害現場で見た日本の姿。それは「日本はある」だった。 」と締めくくられているのを見た時、無理やり眠らせたはずの疑問が、再び目を覚ましました。

それは、かつて彼らがもてはやした「日本はない」という本の題名は、もしかしたら本当にそういう意味だったのではなかったろうか、という疑問です。

「本当にそういう意味」とは、彼らにとって「日本はない」とは、私が無理に解釈した「日本(のホニャララ)はない」という意味ではなく、全く語彙通りの「日本(という存在)はない」という意味です。

そう言えば彼らは、非常にしばしば「概念がない」「思想がない」と言います。それを聞くたびに、「何の概念がないのか」「どんな思想がないのか」ともどかしい思いをしていたのですが、「何の概念」でもなく、「どんな思想」でもなく、本当に「概念がない」「思想がない」という意味だったのではないかと思い至りました。

ウリとナム」という記事でも書きましたが、彼らの精神世界というか思想世界というのは、「1」か「0」か、即ち「有る」か「無い」かで構築されているのではないでしょうか。侮蔑や罵倒より無視の方が酷いとされるのも、彼らが「1」か「0」で考えるからだと思えば、なるほどと思われます。

彼らが「ある」と認めたものだけが、彼らの精神世界に存在するわけです。彼らが「ない」と考えれば、それは彼らの精神世界から消滅することになるのです。

この理解がどこまで本当に韓国人の精神世界に肉薄しているかまでは、正直なところわかりませんし、わかる必要があるとも思いません。ただこの考え方、即ち「ある」か「ない」かが韓国人の考え方であるということを、私たち日本人は知るべきであろうとは、強く思うのです。

つまり、日本人的な「自分が気に入らない対象であっても、一応の配慮や尊重を忘れない」という態度は、全く韓国人には理解が出来ないのでしょう。韓国人的に「自分が気に入らないもの」は、「あってはならないもの」なのです。ですから韓国人的には「自分が気に入らないもの」は、あろうとなかろうと「ない」と考えるべきなのです。韓国人的に「ある」と解釈されるものは、韓国人にとって「あるべき価値を持つもの」だから「ある」のです。

ということは、日本人が韓国人に対し配慮や尊重を行なう限り、それは韓国人的な理解では「韓国はある」になってしまうでしょう。

もちろんこれは、「だから今後は韓国が何を言ってもやっても無視しようぜ」ということではありません。韓国人の精神世界は「1」か「0」でしかないかもしれませんが、彼らによる日本を陥れるための奸計は既にワールドワイドに展開されており、韓国人の精神世界だけに対応すれば良い話では、全くなくなっているからです。

この辺り、日本人は大変にメンドクサイ戦いを強いられております。しかしだからと言って戦わないわけにはいきません。要はパート分けです。どこに向けてどんな攻撃をするのか。どこをどのように守るのか。それを冷静且つ的確にこなしていく必要があるでしょう。韓国人が好きな味噌も糞も一緒くたにしたマジェマジェ攻撃は、奇襲としては効果があるかもしれませんが、持久戦には向きません。

とりあえずは、韓国人の精神世界が「ある」か「ない」かを基準にしているということを理解することで、日本人側の戦略の方向性も見えてくるのではないかと思う次第です。



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日本は韓国を諦めつつある模様

今日は冬至、一年で最も夜の長い日です。しかも今年は19年に一度の朔旦冬至(冬至の日と新月が重なること)。冬至は一年の、新月は一ヶ月の新しい始まりですので、二重にめでたいとされ、昔の宮中では祝賀の宴が催されたそうです。

さて、そんなめでたい日にも相変わらずの韓国考察をば。

先日、内閣府が行なった外交に関する世論調査で、「韓国に親しみを感じない」と答えた人が66.4%に達したというニュースは、韓国でも結構注目されているようで、中央日報ハンギョレで取り上げられておりました。

このニュースは韓国掲示板翻訳系ブログでも取り上げられていたネタなので、ご存知の方も多いのではないかと思いますが、韓国人にとってはかなり心外な結果であったようです。

日本人は韓国を嫌ってはいけない、という根強い潜在意識は、私が日韓チャットに入り浸っていた数年前からありました。ここ数年は日韓チャットが事実上終了したために、ナマでリアルタイムな韓国人と接する機会は激減しておりますが、当時の韓国人の潜在意識が今も濃厚に健在ということが、これらの記事から鮮明に読み取れます。

日本における嫌韓気運の高まりは、言うまでもなく韓国の反日が原因なわけですが、これまで繰り返し述べてきた通り、韓国人に反日の自覚は極めて希薄です。

もちろん、韓国人に反日意識があると考える韓国人も皆無ではありませんが、そういう韓国人にしても「反日感情とは、歴史や政治問題における日本への反発心である」と考えているようで、その根底にある「日本絶対悪」意識が、本当の韓国人の反日意識の源泉であることには全く気づいていません。

同時に、彼らの日本に対する強い憧憬の念があるのも、そのため彼らの対日感情が極めて複雑で矛盾に満ちたものになっていることも、これまでに何度となく述べてまいりました。

かつて私が日韓チャットで確認した彼らの対日感情は、「ウリが日本を嫌うのは当然だが、日本人がウリやウリナラを嫌うことはあり得ない」というものでした。日韓チャットで一見の韓国人の多くは、日本人が韓国を嫌っていることを知ると、天が落ちてきたかの如く驚いたものです。

しかし日本においてさえ、韓国の真の姿がネットを介して徐々に広まったわけですから、IT先進国を自負する韓国であれば、日本の対韓感情の変化をネットを通して感じていても不思議ではありません。と言うか、現在までの日本人における対韓感情の変化が、ほとんど韓国に伝わっていないことの方が不思議なぐらいです。

その原因は、ひとつには彼らの歪んだ優越意識によるものがあるでしょう。これまでに何度も述べたことですが、彼らの「日本絶対悪」観は、即ち「韓国絶対善」観であり、善は悪に無条件で優越するものという意識が彼らには明確にあります。

日本における嫌韓気運の高まりがどれほど報じられていても、ネットでその直撃を受けても、「それは一部です。一部を見て全体を判断しないでください」精神で否定し、日本政府に抑圧され、声さえあげられないでいる哀れで良心的な日本人が圧倒多数のはずだと信じていたのでしょう。

もうひとつには、「恨(ハン)」が彼らを盲目的にしているということも、確実にあります。

以前、「日韓関係を諦めよう」という記事を書きました。現在の日本は、(私の主観では)極めて緩やかに日韓関係を諦めつつあります。韓国を評する際、かつては盛んに言われていた「基本的な価値観を共有する重要な隣国」というおためごかしも、最近ではとんと聞かなくなりました。

「あきらかにみた」結果、日本と韓国の基本的な価値観は決して共有されておらず、日韓関係が長期間に渡って冷え込んでも日本にとっては全くダメージがないことから、日本にとっての韓国は全く重要ではないという事実が明白になったわけです。その上、「日本絶対悪」観までは気づかずとも、日本を見下し、踏みつけにするのが当然という韓国人の潜在意識に気づいてしまった日本人が、韓国に親しみを感じないのは当たり前です。

韓国人にも「あきらかにみる」という概念があれば、あるいは建設的な日韓関係を模索し得たかもしれません。しかし韓国人にあるのは、「あきらかにみる」とは真逆の「恨(ハン)」の精神なわけです。

絶対悪のはずの日本の方が多くの面で絶対善たる韓国よりも秀でているという現実を、「恨(ハン)」の精神を持つ韓国人は「あきらかにみる」ことが出来ません。そのため、さまざまなフィルターを掛けて、彼らの妄想や理想と現実の谷間を埋めようとします。そうすることによって、日本人の韓国に対する嫌悪感が尚更に加速されるなどということは、全く考えていないのでしょう。

もちろん、韓国が技術的経済的に日本に強く大きく依存しているが故に、日本を諦めるわけにはいかないという事情も、それはそれは大いにあるはずです。

これまでの日本人は、韓国人の「恨(ハン)」の精神に引き摺られ、「あきらかにみる」ことを怠ってきました。しかし今ようやく、日本人のうち三人に二人は、韓国を諦め始めたようです。この割合が更に増えれば、日韓の発展的関係解消が議論の俎上に乗ることも全く夢ではありません。

欲を言えば、韓国側も日韓関係を「あきらかにみて」くれるようになれば、話は迅速かつ円滑に進むと思うのですが、「恨(ハン)」の韓国人にそれを望むのは、あまりにも高望みが過ぎるというものでしょう。



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ウリのウは「有」、ナムのナは「無」と書く?

韓国を理解する際に欠かせない彼らのウリナム思想について、「韓国の方々はウリやナムを日常会話で使用しているのでしょうか?「お前は俺のウリか?」「あいつは気に食わないからきょうからナムだ」とかみたいに。 社会の中で確認作業とか行っているのでしょうか。それとも雰囲気や感覚的なことなのでしょうか。」というご質問を頂戴いたしました。

既にコメントでお答えになった方がいらっしゃいますが、日本人にとって韓国人のウリナム思想は、わかるようでわかりにくいものです。既にコメントでもお答えいただいているので蛇足になりますが、私からも申し上げておきたいと思います。

まず、既にコメントでお答えいただいたように、彼らは「ウリ」という言葉を大変好んで用います。「国」という意味の朝鮮語「ナラ」に「ウリ」を付けて「我が国=ウリナラ」はつとに有名ですが、他には「言葉」という朝鮮語「マル」に「ウリ」を付けて「韓国語=ウリマル」、「学校」の朝鮮語読み「ハッキョ」に「ウリ」を付けて「我が校=ウリハッキョ」など、とにかく何にでも「ウリ」を付けたがります(蛇足ながら、「国」を意味する朝鮮語「ナラ」が、日本の「奈良」の語源であると主張する人がしばしばいますが、誤りです)。

反面、「ナム」という言葉はほぼ使われることがありません。日韓チャットでも、ほとんど見たことがありません。彼らが「お前はウリだ」と言うことはあっても、「お前はナムだ」と言うことは、まずないと言っても良いでしょう。

これは「ウリ」が彼らの「内側」にあるもので、「ナム」が彼らの「外側」にあるものと考えれば、誤解の余地は大いにありますが、いくらかわかりやすいでしょうか。彼らの意識は常に「内側」に向いており、「外側」に向けられることはほとんどないのです(再び蛇足になりますが、朝鮮のことわざに「ひじは内側に曲がる(팔은 안으로 굽는다=身内贔屓をするのは当たり前)」というのがあります)。

過去にも述べたことがありますが、韓国人にとっての「ウリ」とは、その存在を自己に同一化することと言えます。

「ウリ」は一般的には「我々(の)」と訳されることが多い言葉ですが、私はこれを「自分自身」と訳すべきだと常々申し上げているとおり、日本人が考える「我々(の)」と、韓国人が言う「ウリ」には、微妙な乖離があります。

「ウリ」を「我々(の)」と言うよりは、「うち(の)」と言う方が適切とも言われるように、日本語における「我々」で考えられている集団的で広い範囲の意識ではなく、日本語における「うち(≒内)」のような、意識の範囲が主観的と言うか個人的と考えた方が、間違いなく近いでしょう。

対する「ナム」ですが、これは「ウリ」の対義語と言えば全くその通りなのですが、日本人が「ウリ」を「自分自身」と訳し、「ナム」をその対義語として「自分自身以外」と訳すと、これまた少なからぬ誤解が生じるようです。何故なら、日本人は「自分自身以外」の存在を明確に意識出来ますが、どうも韓国人は「自分自身以外」という存在を、明確には意識出来ないようだからです。

韓国人にとっての「ナム」とは、「存在を認識しない(あるいは「出来ない」)存在」とでも言えば近いでしょうか。

韓国では、無視は罵倒より悪いとされています。「罵倒」は、少なくとも相手の存在を認めなければ出来ませんが、「無視」は相手の存在を認めないことだからでしょう。

かつて、韓国のテレビ番組が韓国人の外国人差別に対する調査を行なった動画がありました(過去記事には当該動画のリンクがありますが、確認したところ当該動画は削除されておりました)。それは韓国人の人種差別意識を調査するために、欧米系と言うか白人系の外国人青年と、東南アジア系の外国人青年が、それぞれソウルの路上で道を尋ねるという動画でした。

白人系の外国人青年に対しては、韓国人は極めて親切でした。路上で地図を見て首を傾げているだけで、韓国人の方から話し掛け、親切に道を教えていました。

ところが、東南アジア系外国人青年に対しては、韓国人は極めて冷淡でした。それは、その東南アジア系外国人青年を意識的に差別しようとしているというよりも、最初からその存在を全く認識しようとしない態度でした。

白人系外国人青年であれば、韓国の路上で地図を開いて佇むだけで韓国人が進んで近寄って行って親切に声を掛け道を教えるのに対し、東南アジア系外国人青年が路上で地図を拡げ、首を傾げていても、進んで話し掛ける韓国人はいません。

東南アジア系外国人青年の方から道を尋ねるために韓国人に近寄って声を掛けても、ほとんどの韓国人は目も合わせようとせず、物を押しのけるように東南アジア系外国人青年を押しのけ、無言で通り過ぎて行くのです。

それは、韓国人にとって東南アジア系の人々が「存在を認識しない(あるいは「したいと思わない」)存在」だからなのでしょう。

ですから、韓国人が「ナム」と考える相手に対し、「お前はナムだ」と言うことは、おそらくありません。少なくとも、日韓チャットでは一度も見たことがありません。「お前はナムだ」と言うこと自体が既に、相手の存在を認識していることになるからです。

韓国人が相手の態度に不満を持った時、「あなたは私を無視するのか?」「私を無視するな!」と非難することがしばしばありますが、それは韓国人にとって「無視されること=「ナム」として扱われること」だからでしょう。

逆に韓国人が気に入らない韓国人に対し、「お前はそれでも韓国人なの?」と言うこともあります。それは日本人にわかりやすいように言えば、「お前は「ウリ」ではないのか?」と言ってるのでしょう。

韓国人にとって、「ウリ」から排除されることは死刑宣告にも等しいことのようで、日韓チャットでこう言われて引き下がらない韓国人はほとんどいませんでした。

そんな感じで、韓国人は社会の中で互いに「ウリ」であることの確認作業は頻繁に行ないます。しかし「ナム」であることの確認作業はほぼ行ないません。「ナム」は確認する必要がないからです。韓国人はその相手を「ウリではない」と考えた時点で、その相手は自動的に「ナム」となり、彼らの意識上抹殺されるのです。

日本が、韓国人にとって決して「ウリ」ではないにも関わらず「ナム」でもないのは、常に日本が彼らの意識の中にあるためかもしれません。



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安倍政権の長期化に期待

強い寒気団が日本上空に訪れているとやらで、今夜から明日にかけては、大きく冷え込むという予報が出ております。読者諸姉諸兄におかれましては、風邪などお召しにならぬようご自愛ください。

さて衆院選は、与党の圧勝という大方の予想通りの結果となりました。予想されていたこととは言え、安倍政権を憎悪する韓国は今回の結果にかなりのショックを受けているようです。

韓国にとって「良い日本」とは、韓国の思い通りに動く日本であり、「良い日本人」とは韓国人の意を汲んで発言し行動する日本人のことです。逆に韓国人にとって「悪い日本」とは韓国の思い通りにならない日本のことであり、「悪い日本人」とは韓国人の意に背く発言をし、韓国人に気を使わない行動をする日本人のことと言えます。

安倍首相が韓国と韓国人に嫌われるのは、まさに安倍首相が「悪い日本」「悪い日本人」を具現する存在だからでしょう。

しかし日本と日本人から見て、「韓国の思い通りに動き、韓国の意を汲む日本人」は、良い日本人と言えるでしょうか。

以前から執拗に申し上げている通り、日本と韓国は何もかもが真逆です。日本にとって良いことは韓国では悪いこと、日本にとって悪いことは韓国にとって良いことと言っても過言ではない部分がたくさんあります。

そういう関係の日韓において、韓国人から見た「良い日本人」というのは、日本人から見れば「悪い日本人」ということになります。その逆に、韓国人から見た「悪い日本人」が即ち日本人から見れば「良い日本人」であるかどうかは必ずしも断言が難しくはありますが、少なくとも韓国人から見た「良い日本人」より遥かにマシとは言い得ます。

韓国にとっての「良い日本人」は、日本よりも韓国を優先します。それがある程度の権力を持つ日本人であれば、日本の国益よりも韓国の国益を優先することになります。実際、韓国から非常に受けの良かった民主党政権時代がそうでした。そういう意味で韓国から激しく憎悪される安倍政権は、「良い」と手放しで評価することは難しくても、民主党政権より遥かにマシなのは確実です。

日韓の価値観が真逆であっても、せめて韓国人にWin-Winが理解出来れば、あるいは日韓双方に益のある道が模索出来たかもしれません。しかし韓国人はWin-Winが理解出来ません。

韓国人にとって自分が幸せになるためには他人が不幸にならねばならず、もし他人が幸せであれば、どんなに自分が恵まれ満ち足りていても幸福を感じられません。その「他人」が日本であれば尚更なのです。

今、日本を「他人」と表現しましたが、実は日本は韓国人にとって必ずしも「他人」とは言えません。では彼らにとって日本は韓国語で言うところの「ウリ」なのかと言えば、これもそうとは言い難いものがあります。

日本に対する韓国人の感情は、彼らのねじれと混ぜ混ぜ癖によって大変に複雑なものになっております。

韓国人にとっての日本は、「ウリ」から見れば絶対に「ウリ」ではないが、「ウリ」になりたいと熱望している「べきである」存在と言えば、多少は近い表現になるでしょうか。ですから日本が韓国の「ウリ」として振る舞うことはもちろん許せませんが、「ウリ」ではないと韓国に背を向けることも許せないのです。

ですから今日、日本人が韓国に対して見せている態度は、韓国人にとっては全く認められないものです。韓国人はその原因を日本政府、即ち安倍政権にあると理解している節があります。安倍政権が日本国民を煽動あるいは洗脳して、韓国を嫌うように仕向けていると考えている韓国人が、おそらく多数派でしょう。

しかし実際はその逆です。日本国民の嫌韓感情は自然発生的(正確に言えば、韓国自身が原因w)に生じたもので、安倍政権はただそれに応えているだけです。

応えていると言っても、それは嫌韓を満足させるものではありませんし、もちろん韓国との断交もまるで検討していません。安倍政権はただ、日本の国益を優先するようにしているだけなのです。

日本が付き合っている国は、世界で韓国一国というわけではありません。しかし今まで日本は、韓国を「重要な隣国」と持ち上げ、必要以上に目を掛け手を掛け金を掛けてきました。ある意味韓国を特別に優遇してきたのです。今はその特別扱いをやめて、韓国の国柄に応じた扱いにしているだけなのです。

それでも韓国は、非常な打撃を受けたつもりになっており、日本に対して非難と苦情を言い募っていますが、日本がそれに少しでも耳を貸せば元の木阿弥です。

日本と韓国は違う国であることを態度と行動で示し、韓国が泣いても喚いても動じず相手にせず、ひたすら世界に数ある国のひとつとして扱い、今まで韓国に割いていた力を日本を立て直すために使い、粛々とやるべきことをやるのが、今の日本政府が取るべき方針でしょう。

その姿勢において、現在の安倍政権は満点とまでは行かずとも十分合格点にあり、今後も今まで程度には期待して良いと私は評価しております。



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これもまた、韓国の日常茶飯事

いよいよ明日は衆議院選挙です。私の住む地域では、自民、民主、維新、共産からの四候補が立ち、大阪でも屈指の激戦区とされているのだとか。かくいう私は、既に期日前投票を済ませ、心安らかに投票日をやり過ごす予定です。

ところで今回初めて、出口調査というのに遭遇しました。あれは不思議なもので、何でこんな新聞社のバイト丸出しの若造に私の投票内容を教えてやらなあかんねん、嘘書いたろかなどと思いつつ、まるっきり正直に答えてしまうものです。出口調査ってのは、私が思っていた以上に信頼出来る数字が出るものなのかも知れません。

さて、もうすっかりうんざりしている韓国。

このところの韓国は、大韓航空の「ナッツリターン騒動」が喧しいようです。

「ナッツリターン騒動」とは、ニューヨーク発仁川行き大韓航空機に搭乗していた大韓航空の副社長が、機内サービスのナッツを配る客室乗務員の行為に問題があったとして、機内サービスの責任者である事務長を懲罰的に降機させるために、既に滑走路に向かっていた航空機を搭乗口へと戻させたことから、「ナッツリターン」と揶揄を込めて名付けられた事件です。

大韓航空側は一度は「副社長は機内サービスと機内食の責任を担う役員として、問題提起および指摘は当然のこと」と開き直ったようですが、韓国内で起きた猛烈な批判に驚いて、渋々全面謝罪を行なった模様です。

もっとも、これもセウォル号と同じく、「たまたま問題になった」ために注目され話題になっただけの話で、これまでの韓国では日常茶飯にあった話であり、これからの韓国でも日常的にあるだろうことは、容易に想像が付きます。

セウォル号事故では、韓国における交通機関の安全性が極めて低いことや韓国人の無責任さ、危機管理能力の無さなどが如実に現れましたが、今回のナッツリターン騒動では、権力を持った韓国人の傲岸不遜、傍若無人っぷりが浮き彫りになりました。

これに類する話は、報じられていないだけでおそらく韓国では枚挙に暇がありません。今回の事件の当事者である大韓航空副社長も、これまでに似たようなことを韓国内で散々やっていたはずです。今回これが大問題になったのは、騒動の内容のためではなく、騒動が起きた場所が韓国内ではなかったためでしょう。

以前「私が誰だかわかりますか?」という記事を書きましたが、韓国では全く無名で何の地位も権力も持たない人でも、「私を誰だと思ってるんだ。頭が高い、控えおろう」と言って他者を威圧しようとします。もしそれが多少なりとも何らかの権力を持つ人であれば、その威圧は更に強く激しいものになります。

李氏朝鮮時代、朝鮮半島では両班と呼ばれた貴族階級が暴虐非道の限りを尽くしていました。彼らは、頭脳労働以外の労働を激しく軽蔑、忌避しており、かと言って全ての両班に多額の給与を出せる官職の席があるわけでもなく、満足な収入の途がない両班も多かったといいます。

貧しい両班は、金に困ると富裕な庶民から金銭を強請していたようです。当時の記録によると、「(両班が庶民から)強請を為すの方式は驚くべき簡単にして、彼らはその助手を伴い、昼間もしくは夜間に富裕なる商業或いは工業家に侵入し、その主人を捕獲して、顕官の家もしくはその他危険なき場所に引致して、従順にして要求を承認するものは遅滞なく放免し、もし要求せらるる額を払わざる者ある時は、笞杖もしくは絶食の苦を与え、これを払うまではその苦痛を免れざらしむ。多少廉恥心ある両班はこの如き略奪を借用の名義において行うと雖も、之を返済したる例なきにより、一人としてこれに信おく者なし」とあります。

この記述から当時の朝鮮では、権力を持つ者が持たざる者に対しどのような無法を働いても、特に問題になることはなかったということがありありと見て取れます。このマインドが、100年を経た21世紀の今日も、韓国人に濃厚に受け継がれているのです。

日本では、権力を持つ人ほど謙虚であるべきという道徳観があります。実は韓国にも同じ道徳観がないわけではありません(多分日帝残滓w)が、それよりも「権力を持つ者は他者を虐げても良い」という意識の方が、圧倒的に強いのでしょう。

この「権力を持つ者は他者を虐げても良い」という意識は、韓国では「虐げられる者」にもある意識のようで、韓国でその立場にある者の卑屈さ従順さは、日本人には理解しづらいことのひとつです。

在日が、日本では図々しいまでに自らの権利を主張し、少しでもサベツを受けたと思ったらキーキー騒ぐ癖に、何故か韓国に行くとどれほど虐げられても、不当な差別で権利を侵害されても、おとなしく泣き寝入るのはそのためでしょう。

大韓航空と言えば韓国のナショナルフラッグキャリアです。その副社長と言えば、韓国でもトップクラスの地位であり、権力者の一人と言えるでしょう。しかし所詮民間企業の、しかも能力ではなく親族であるだけで得た地位であり権力です。

その程度の権力者が今回のような行為を当然と思い、実際に行なってしまうのですから、現在の韓国における最高権力者がどのような傲岸不遜さを発揮しているかは、おそらく私たちの想像の斜め上を遥かに超えるでしょう。

日本人にも、権力を持つと途端に傲岸不遜になる者がいないわけではありません。しかし権力を持つ者は、その権力を制御するに足る自制心を持たなければなりません。エンジンの出力が高い車ほど、高いブレーキ性能や耐衝撃性を必要とするのと同じと言えます。

自らの持つ権力の強さに思い上がり、その権力を前後の見境なく行使することは「朝鮮人のような真似」であり、他人にとっても自分にとっても危険な行為であり、日本人として恥ずべき行為であるというコンセンサスが日本人の間で育ち、共有されるようになることを心から願う次第です。



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韓国人は共感しない

先だって、コメントで韓国人の共感性の無さについてのご質問がありました。言われてみれば確かに、日韓チャットでは彼らの共感力というものを感じませんでした。

日韓チャットの韓国人は、誰かが話をしていると、とにかくそれを邪魔しようとしたものです。それは、何か自分が話したいことがあるからなのかと思ってしゃべらせても、話題らしい話題を持っていません。

それではと、別の人が話題を提供して、再び話が盛り上がり始めると、また韓国人が邪魔をします。

韓国人的には、意図的に邪魔をしているつもりではないのかもしれませんが、その時行なわれている話のテーマをほぼ理解せず、話の中に出てくる単語にいちいちひっかかり、あるいは話に出てきた単語から何かを連想し、それについて自分が思うところを何が何でも人に聞かせようとするのですが、他人にわかるように話すということを全く考えないので、結果的に邪魔をしているのと同じことになります。

共感力がないのに、罵倒されるとすぐさま火病るのは何故かというご質問も同時に戴いておりますが、あれは罵倒に共感しているのではなく、単に罵倒語に反応しているだけです。ですから、罵倒語ではない言葉を罵倒語と誤解して火病ることも非常にしばしばあります。

例えば、「朝鮮」という言葉を用いると、かなり高い確率で彼らは火病ります。それを知った上で意図的に彼らに対する嫌がらせとして「朝鮮」という言葉を用いることも皆無ではありませんが、日本語においては「朝鮮」という単語を用いる方がより正確な表現になるために用いることの方が多いのに、彼らはいちいち「朝鮮」という言葉に反応します。

彼らは「より正確な表現を行ないたい」という私たちの意思に「共感」することは、全くありません。ただひたすら、「ウリは「朝鮮」という言葉を侮蔑と感じるから、使うな」という彼らの主張を、私たちに押し付け、飲み込ませようとするばかりです。

そこで私たちは、「何故「朝鮮」という言葉を侮蔑と感じるのか」の説明を求めます。彼らが嫌がるからというだけの理由で、侮蔑語でも罵倒語でもない一般名詞の使用を制限されるというのは、言論の自由の侵害ですから、その理由を求めるのは当然の権利です。

彼らがその理由を満足に説明出来た例がないのは、これまでにも何度か述べてきたとおりです。とにかく彼らは、「ウリが嫌なんだから使うなったら使うな」の一点張りで、共感を得るための努力は全くしないのです。

そう言えば、韓国人は室内楽があまり得意ではないという話をどこかで見かけたことがあります。ひとりひとりに単独で演奏させれば、韓国人も決して下手ではないのですが、合奏となると途端に上手くいかないのだそうです。それは何故かというと、韓国人は他人に合わせることを恥だと思っているからなのだとか。
 
言われてみれば確かに、韓国人にはそういう傾向が顕著に見られます。

「共感」に限らず、「共」という字が付くものは誰かと「共に」行なうことです。「共に」というのは、自分ひとりでやるのではなく、もちろん、誰かに押し付けたり寄りかかったりするものでもありません。「共に」行なうためには、自分が何をしなければならないかということだけではなく、相手が何をしているのかもよく見、よく聞き、よく理解する必要があります。

合奏などは特にそうで、自分ひとりだけが気持ち良く奏でれば良いというものでは全くなく、「共に」演奏している人の音を聴き、それに合わせなければ成立しません。

しかし韓国人には、そういう習慣がありません。韓国人にとって他人の言うことをよく聞くことは、自らその人の下に立つことであって、恥であり敗北なのでしょう。

ですから彼らは、何としても自分の言うことを他人に聞かせようとします。そうすることで自分が上に立ち、面目を得、勝利出来ると考えているのでしょう。

韓国人の掲示板には、「共感」「非共感」というボタンが付いていることが多いようですが、その割に韓国人のコメントに「あなたの話に共感します」という類のものはあまり多くありません。代わりに、彼らが誰かのコメントに同意する時は、「リアル」という言葉をよく見かけます。「確かにそれが現実だ」とでもいう意味なのでしょう。「現実を認めること」も彼らはあまり得意ではありませんが、「誰かに共感すること」よりは抵抗が少ないのかもしれません。

しかし「共感」は、人間にとってはかなり重要な能力です。力が弱く、鋭い爪や牙があるわけでもなく、足も遅く、空を飛べるわけでもない人間がここまで繁栄したのは、ただに知能が発達したからというだけではありません。他の動物と比較すると、人間は言語によってコミュニティ全体の共感を高いレベルで形成しやすかったということが、人類の進化と発展に大きく寄与したのではないでしょうか。

どんなに優れた知能を持つ人でも、一人では出来ることに限界があります。しかし、人間としては並の知能であっても、多くの人々と共感し合い、共同で作業すれば、出来ることは限りなく広がります。

実際、韓国人はしばしば「日本人は一人だとミミズだが、集団だと龍になる」と言います。それは、日本人一人一人はそれほど大した能力がありそうには見えないのに、集団になると俄然能力を発揮し、大きな成果を達成するからです。

対する韓国人は、「一人一人は虎だが、集団になると猫になる」のだそうです。彼らは、自分たちの優秀性を信じて疑いません。しかし「現実」は、彼らが優れているとは言い難いことを見せ付けます。彼らは妄想と現実の乖離を合理化するために、「自分はスゴイけど、他の奴らがダメだから韓国はダメなのだ」と理解しているのでしょう。

それは韓国の教育のためか、それとも韓国人が種として持つ性質なのかはわかりませんが、いずれにしても韓国人には共感する能力がないか、あっても極めて乏しいのは確かです。

韓国人に「共感」する能力がなくても、それで韓国社会が回っているのであれば、外国人が口を出すことではありません。しかし日本にその影響が及ぶとすれば話は別です。

先日、IOCでオリンピックの分散開催が認められたという報があり、それを受けて東京五輪及び平昌五輪の日韓共同開催を模索する声が一部で上がっておりますが、「共感」する能力のない連中と、大きな国際イベントを「共催」すればどうなるかは、既に2002年に実験しました。結果は、周知の通りです。

日本が2002年と同じ愚を犯さないことを、心から祈りたいと思います。



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韓国式宇宙開発

ニュースサイトをウロチョロしてたら、「北朝鮮の風景2014=乗馬クラブや病院など、平壌の最新映像」と題する動画がありました。北朝鮮関連の映像は、概ねヤラセということは分かり切っています。わかった上でネタ動画として楽しむのが、北朝鮮のプロパガンダ映像閲覧時のお作法でしょう。

という訳で、ニラニラしながら見てたのですが、2分16秒過ぎから20秒余りの「平壌郊外の乗馬施設、ミリム乗馬クラブ」という映像に激しく吹きました。

乗馬クラブ紹介のシーン冒頭で誇らしく映し出される騎馬像は、乗馬でもなければ馬術でもありません。明らかに、競馬のそれです。乗馬及び馬術と競馬の何が違うかと言えば、何より騎座が違います。乗馬及び馬術の騎座は、鞍に騎手の座骨をはめ込み、脚を馬体に添わせるように乗ります。騎手の重心は頭の天辺から、座骨、脚にかけて一直線が基本です。しかし競馬では、騎手は鐙を短くして鞍から腰を浮かし重心を馬の首の方に預けた、いわゆる「モンキー乗り」という騎乗法になります。

これは、騎手と馬の接触部を可能な限り少なくして、高速で走る馬の邪魔をしないための騎乗法なのです。馬術でこの騎乗法を用いることは、ないと言い切っても良いぐらいありません。何故なら競馬の騎乗法は、速度を出すために騎手と馬の意思疎通をかなり犠牲にしているのですが、乗馬及び馬術においては、騎手と馬との意思疎通が速度よりずっと重要なのです。

乗馬クラブで競馬の騎馬像をモニュメントにしている例を、私は一例も知りません。はっきり言って今回が初です。この映像に出てくるのが、本当に乗馬クラブであるならば、ですがw

その後に映し出される乗馬クラブ内の風景も、およそ私が知る限り、乗馬クラブとしてはあり得ないシーンの連続でした。まず、騎乗者が騎乗時にヘルメットもプロテクターも付けていないというのは、乗馬クラブとしてはかなり珍しいと思います。

屋外での騎乗シーンは、馬場というよりは走路に見えなくもありません。歩様も、馬術ではほぼ用いない襲歩(最も速度が出る歩様)です。乗馬クラブではなく、競馬のトレーニングセンターと言われた方が違和感がありません。ですが鞍も鐙の長さも騎座も手綱の持ち方も競馬用ではないので、トレセンと考えるのも無理があります。

覆い馬場(=屋根付きの馬場)ではさすがに襲歩ではなく駈歩をしているところを映していますが、映っている全ての馬で屈撓が全く出来ていません。それは騎乗者が初心者なら致し方ないことなのですが、逆に騎乗者が初心者であるなら、最低でも騎乗時にヘルメットは絶対に着用しているはずなのです。馬に乗れば、落馬は必ず経験するものです。特に初心者のうちは落ちやすく、落馬した時、馬に頭を踏まれたり蹴られたりしたら、ヘルメット無しだと即死しても不思議はありません。ですが騎乗者が初心者にしては、自由気ままに乗り回しているのも妙です。

力では、人は馬に絶対勝てません。何しろ相手は一馬力です。馬術の上級者になれば、力ではなく技術で馬を制御出来るようになるわけですが、初心者にはその技術がありません。よって騎乗者が初心者の場合、地上で指導員が調馬索という長い手綱を騎乗者が持つ手綱とは別に付けて騎乗者をフォローするのが一般的ですし、騎乗者が初心者ならば少なくともヘルメットは絶対着用必須です。

つまり北朝鮮の乗馬クラブでは、乗馬姿勢を見る限り上級者に全く見えない人たちが、上級者でも普通はあまりしないような乗り方をしているのです。何と言うか、乗馬や馬術をよく知らない人が、乗馬や馬術をよく知らない人に向けて、乗馬や馬術を宣伝する映像を作ったら、こういう映像が出来上がるのだろうなという映像でした。

乗馬はもともとお貴族さまの嗜みですから、乗馬クラブと言えば、日本でもかなりハイソなイメージがあります。私も昔通っていたことがありますが、人にそう言うと「すごい!金持ちなんですね!」としょっちゅう言われます。「自分の持ち馬でやってる人は確かに金持ちですけど、私みたいに貸し馬でやってるのは、金持ちとはお世辞でも言えませんねえ」と何度苦笑いしたことでしょうか。実際、乗馬をやってるというよりは馬丁をやってるという方が近かったと思いますw

おそらく北朝鮮でも「乗馬=ハイソ」というイメージがあって、「ウリ共和国はこんなにハイソで優雅」ということを強調するための乗馬クラブ映像なのだろうなと思いました。

ただ北朝鮮で、使役用ではなくお遊び用の馬に食わせる穀物があるなら、人民に食わせたれよとは思わぬでもありません。それともあの馬たちには、乾草などの粗飼料類しか食わせてないのでしょうか。あと、馬がほとんど芦毛というのも気になりました、っていうか、あれホントに北朝鮮にある乗馬クラブの映像なんでしょうかね?w などと放っとくといつまでも馬談義をやりかねない筆者で申し訳ありません<(_ "_)>

馬談義と北朝鮮は置いといて韓国ですが、数日前に韓国の来年度予算に、月探査事業の予算が反映されていないという報道がありました。

韓国は、ロシアに作ってもらった羅老号の打ち上げに二度失敗し、三度目でようやく成功させました。成功させたと言っても、ロシアにおんぶに抱っこでどうにかこうにかなのですから、韓国のロケット開発はまだまだこれからのはずです。

ところが韓国は羅老号打ち上げに成功するや否や、「次は月探査機だ」と言い出しましたから、彼らの素っ頓狂には慣れてるつもりの私もずいぶん驚き呆れました。補助輪なしの自転車に昨日やっと乗れるようになった子供が、来年ツール・ド・フランスに出ると言うようなものです。

一体彼らは何を根拠にそんなことが出来ると思っているのかと不思議だったのですが、今回のゼロ予算報道を受けて、過去の関連記事を流し読みしていると、中央日報の「月に太極旗を立てなければならない理由」という記事に突き当たりました。

記事をざっくり要約すれば、月探査ロケットを開発、成功させることで世界に韓国の科学技術力を誇示し、韓国型ロケット(笑)の性能を検証し、商用ロケット市場における韓国の存在感をアピールしたいし、しなければならないし、出来る、と言っているのだと思います。

しかしそのやり方というのが、これまた彼ららしい素っ頓狂さでした。該当箇所を以下に引用します。

結果的に韓国のロケット開発戦略は、世の中にないものを新しく開発する過去の方式ではなく、先進産業国入りした韓国の技術を積極的に活用し、今後の世界宇宙産業拡大に対応した新しい成長動力の土台にしようというものだ。すなわち、費用・時間を抑えるために隣接技術を取り込まなければならず、可能なら先進国との国際協力も引き出さなければならない。

宇宙空間という未知の世界に挑むにあたり、世界の誰もが手探りであるかないかもわからない答えを求めて模索を続けているというのに、韓国人はそれを既存技術や隣接技術で間に合わせ、それで足りなければ他国の技術を引き出せば良いというのです。

これが日韓チャットの生意気な韓国バカ子供の妄想垂れ流しなら、生意気なバカ子供の夢物語と一笑に付せば良いのですが、困ったことにこの記事は韓国航空宇宙研究院長の記名記事なのです。

ホントに彼らに関しては、上の水が濁ってるから、下の水も濁っているということを、毎度毎度痛感させられます。



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韓国人は危険不感症

一昨日、ベーリング海で韓国漁船の沈没事故があり、韓国では薄れかけていたセウォル号事故の記憶を呼び覚まされたのか、結構大きく報じていました。

韓国では、安全対策というものが伝統的に大変軽んじられています。それはひとつには、彼らの民族的性格、即ち「ケンチャナヨ(大丈夫だよ)」「パリパリ(早く早く)」「ヒムドゥロヨ(しんどい)」精神が大いに関係していることが挙げられます。

「ケンチャナヨ(大丈夫だよ)」「パリパリ(早く早く)」は、これまでにも何度か説明してきましたし、韓国関連では非常に頻繁に出てくる言葉なので、弊ブログをご覧の方は既によくご存知のことでしょう。

「ヒムドゥロヨ(しんどい)」というのは、おそらく弊ブログでは初出です。この言葉は、日韓チャットで覚えたものではなく、室谷克実氏の呆韓論だったか悪韓論だったか失念しましたが、そのどちらかに載っていた言葉です。

それは確か、韓国に戻った在日韓国人が韓国で料理屋を開き、韓国人従業員に調理の下ごしらえや手順を守ることの大切さを徹底して教えるのですが、韓国人従業員はちょっと目を離すとすぐに、「ケンチャナヨ」「ヒムドゥロヨ」と言って手を抜くという話でした。

これは飲食店に限った話ではなく、韓国における全ての業種に共通することでしょう。目に見えない箇所を丁寧にすることを、彼らは非常に厭います。その結果、韓国ではあらゆる安全が蔑ろにされていると言っても過言ではありません。

例えば韓国の鉄道では、今年の7月にも列車の正面衝突事故という大きな事故が起きたように、安全な運行が確約されていると思ったら大きな間違いです。ソウルの地下鉄全駅にホームドアが導入されたから、韓国は安心・安全国家などとほざいた親韓日本人もいましたが、「ケンチャナヨ」「パリパリ」「ヒムドゥロヨ」精神でその「安心・安全」のためのはずのホームドアの運用を誤ったために起きた人身事故も、韓国では少なくないのです。

韓国で道を歩けば、路面が波打ってるのが誰の目にも明らかですし、酷い時は陥没して路面に穴が開いていることさえあります。道路がそうだということは、線路や滑走路もそうだと思って良いでしょう。垂直・水平が正しく出されていない建物も決して珍しくありません。そもそもそれをおかしいと思う韓国人が、極めて少数なのです。

そんな韓国ですから、セウォル号事故は起きるべくして起きた事故でした。もっと言えば、おそらく程度の差こそあれ、類似の事故は報道されていなかっただけでそれまでにも頻繁に起きていたのではないでしょうか。何故なら、セウォル号以後も韓国で「ケンチャナヨ」「パリパリ」「ヒムドゥロヨ」が原因と思われる事故が幾度も起きているのですから。

セウォル号事故が、不幸な偶然があり得ない確率で重なって起きた極めて稀な事故であるならば、その直後からあれほど何度も運輸関連で事故が起きるものではありません。今回の漁船沈没事故も、韓国言論自身が「韓国型事故」と言ってしまうぐらいなのです。

更に「ケンチャナヨ」「パリパリ」「ヒムドゥロヨ」に加えて、韓国人が習性的に危険に極めて鈍感ということもあります。とにかく彼らは危険予測が激甘なのです。自分の身に危険が降りかかるということを、実際に危険が降りかかるまで信じないと言えば、ニュアンスは伝わるでしょうか。

韓国人は我が身に実際に危険が降りかかってからは人一倍大騒ぎするのですが、その直前までは、明らかに危ない状況でも全く危険を感じないようなのです。それはセウォル号事故の際の乗客にも顕著でしたが、それ以前から、例えば延坪島砲撃事件の直後、日韓チャットの韓国人に北朝鮮による武力侵攻に備えるべきと忠告すると鼻で笑われたものですし、毎年毎年台風の進路を希望的観測で予測しては、律儀に痛い目に遭うのです

そう言えば故盧武鉉が大統領に当選するきっかけになったと言われる在韓米軍装甲車事故も、装甲車に轢かれるその瞬間まで、被害者には危機感が全くなかったのではないかと思われるような状況でした。

今回の韓国漁船沈没事故は、セウォル号と類似点が多いということで比較的大きく報じられ、やはりセウォル号事故同様、責任を負わせるための生贄探しが行なわれるでしょう。

しかしどれほど責任の所在を突きとめ、生贄を重罪に処したところで、韓国人に「ケンチャナヨ」「パリパリ」「ヒムドゥロヨ」精神がある限り、また彼らが危険不感症を抱え続ける限り、今後も同様の事故は普通に当たり前に起き続けるでしょう。

それを哀れとは思いますが、彼らが自ら治そうとしない限り治るものではありませんし、それを外国人がとやかく言うことでもありませんし、言っても聞く連中じゃありません。そんなことよりも、尻に火が着いて初めて大騒ぎを始めた彼らに縋りつかれるのだけは、くれぐれも御免被りたいものです。

そのためには、今度の選挙で韓国に厳しい政治家に多く当選してもらって、今よりも更に大きく日韓の距離を広げておかねばならないなと思った次第です。



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「信用」の意味

今日から12月ということで、今年も残すところ後1ヶ月となりました。

昔の日本では、食料品の支払いはツケ払いが一般的でした。ツケの支払いは月末、特に大晦日にはその年の全ての支払いを清算するのが慣習になっていたようで、落語などでは大晦日は売り掛け金の回収に丁稚どんや番頭さんが町を駆けずり回り、長屋の熊さん八つあんが如何にそれをやり過ごすかが面白おかしく描写されております。大晦日の掛取りをやり過ごせば、溜まったツケが全てチャラになるという話も聞いたことがあります。

このツケ払い、今日ではクレジットカードがこれに該当するでしょう。私が日韓チャットにいた頃、韓国人からしばしば聞かされた自慢話のひとつに、「韓国ではクレジットカードが普及している」ということがありました。

これは、かつて韓国でベストセラーとなった「イルボヌンオプタ(邦題:悲しい日本人)」にも書かれていたと思いますが、韓国はタクシーでもコンビニエンスストアでもクレジットカードで支払いが出来るのに、日本に行ったら出来なくて不便だった、日本はやはり未開だ、遅れてると嬉しそうに言われたものです。

もっとも私の住む地域では、2002年頃には既に主なコンビニやタクシーでクレジットカードが利用出来るようになっていたように思います。私が住んでいるのはいわゆる地方都市なので、韓国人が好んで訪れる大阪市内や首都圏であれば、クレジット決済を導入していた店は珍しくなかったはずです。ですのでおそらく日韓チャットの韓国人どもが言っていたのは、誰かから聞いた話を自分の体験談の如く話すいつものパターンだったのでしょう。

ところでこのクレジットカード、韓国では「信用カード」と言うのだそうです。「credit」が「信用」という意味だからでしょう。

それは良いとして、先日中央日報で以下の記事を見て、唖然としました。
【取材日記】韓国のカード机上行政…消費者だけが混乱
2014年11月27日16時30分
[(c)中央日報/中央日報日本語版]


 誤報を出した。来月30日からクレジットカードで50万ウォン(約5万円)を超過する金額を決済する場合、身分証を提示しなければいけないと報じた(中央日報11月25日付18面)。しかし今後も現在と同じように、金額に関係なくクレジットカードを使用する際、身分証を提示しなくてもよい。金融委員会が2日ぶりに白紙に戻したからだ。政府の規制緩和方針に逆行し、消費者に不便が生じるという世論に阻まれた。

 今回の騒ぎの発端は、来月予定された与信金融協会のクレジットカード個人会員標準約款の改正だ。与信協会は約款を改めながら、上位規定の金融委員会監督規定条項をそのまま写した。2002年に作られた監督規定(24条の6)では、50万ウォン超過取引の場合、カード加盟店が顧客の身分証を確認することになっている。ところがこの規定はすでに死文化して久しい。現実では、どの食堂・商店に行っても身分証の提示を要求されない。

 それでも与信協会は何も考えずクレジットカード標準約款にすでに死文化した規定を入れた。カード使用者の反発は予想された。「夫のカードを使っているが、デパートに行くたびに夫を連れていけということか」「子どもが私のカードを使っているが、カードと身分証を一緒に渡さなければいけないのか」「最近は50万ウォン以上の決済はいくらでもある」など、現実的でないとの不満があふれた。それでも金融当局は2日前まで「他人の身分証を出すのも不法であるだけに、本人名義の家族カードを作るべき」という原則的な答弁をした。非難世論が強まると、26日になってようやく金融委は「50万ウォン超過取引の場合に身分証を確認するという内容の監督規定は事実上死文化しているだけに、これを廃止する」とし「署名・暗証番号など他の方法で確認する」と退いた。

 監督規定の改正は規制改革委員会や立法予告などを経て1カ月以上の時間がかかる。標準約款を改正しようとしたところ、12年前の古い上位規定を改正することになる滑稽な格好となった。今年、金融業界では、消費者の便益に関する多様なイシューが水面上に浮上した。カード会社の顧客情報流出など大型事故だけでなく、「チョン・ソンイ・コート」に代表される簡便決済など、潜在していた問題が出てきた。そのたびに金融委・金融監督院とカード業界の間の疎通問題が膨らんだ。金融当局は「規制緩和」と「消費者(情報)保護」という2つの価値の間で世論によって動かされた。金融機関は当局の顔色を見ながら弁解ばかりした。お互い責任転嫁をする間、消費者は後まわしにされた。

 最初から消費者の立場でどの価値が優先かを考えて長期的な計画を立てていれば、結果は今とは全く違っていただろう。そうしていれば、今回のようにあきれるような誤報を出すこともなかったのではないだろうか。

パク・ユミ経済部門記者

記事の2段落目までは良かったのですが、3段落目に入ったところで、我が目を疑いました。

【(5万ウォン以上のカード決済時には、本人の身分証提示が必要になるという規約改正に)「夫のカードを使っているが、デパートに行くたびに夫を連れていけということか」「子どもが私のカードを使っているが、カードと身分証を一緒に渡さなければいけないのか」「最近は50万ウォン以上の決済はいくらでもある」など、現実的でないとの不満があふれた。】というのを、消費者の当然の権利の如くに記しているのです。

日本でも、前世紀末頃までは奥さんがご主人名義のクレジットカードを使って支払いすることを黙認していた時期がありました。が、当然支払いに関するトラブルが頻発し、裁判沙汰にまで発展した事案があったと記憶します。それもあって現在では配偶者だろうが親子だろうが、本人名義以外のクレジットカードを使おうとしてそれがバレれば、店から丁重に断られるはずです(バレなければ利用出来てしまうことはありますが、明白なカード利用規約違反です)。

夫名義のカードを妻が当然のように使っていた時期であっても、それを指摘されて利用を断られると、普通の人は格好だけでも恐縮したものですし、稀に「夫に使用許可を得てる」と開き直る方もいらっしゃらなくはありませんでしたが、中央日報の記事のように猛烈に反発した人は、少なくとも私が接したお客様の中には、一人もいらっしゃいませんでした。

韓国人は自国を「クレジットカード先進国」などと誇り、以て日本を「コンビニでクレジットカード決済も出来ない後進国」などと揶揄します。にも関わらず、彼らは「クレジットカード」というものがどういう性質のものなのかを、きちんと理解していないとしか考えられません。

もちろん、これには彼らの「ウリ」という意識が強く働いているということが、大部分を占めるでしょう。彼らにとって、家族は当然「ウリ」ですから、自分の名義でなくても、家族の名義であれば、「ウリ」としてそのクレジットカードを使うことに何の疑問も感じないというのは、大いにあるはずです。

しかも、それはクレジットカードの利用者だけはなく、クレジットカード決済を行なう店側はもちろんのこと、金融機関から政府、更には民衆を教導し政府を批判する立場であることを自負しているはずの言論に至るまで、韓国では誰一人全く疑問に思わないということが、この記事で明らかに示されているのです。

彼らがクレジットカードを「クレジットカード」と呼び、「クレジット」を「打ち出の小槌」という意味ぐらいに誤解しているのであれば、まだ弁護の余地はなくもありません。

しかし彼らは、クレジットカードを「信用カード」と呼んでいるのです。利用率及び保有率が世界一と言われるほど彼らが愛用する「信用カード」が何故「信用カード」と呼ばれているのかを、彼らは知らないのでしょうか。

あるいは、「約束」の意味が日韓で異なるように、韓国人にとっての「信用」という言葉もまた、日本語における「信用」とは大きく意味が異なるものなのかもしれません。



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