韓国人は共感しない
日韓チャットの韓国人は、誰かが話をしていると、とにかくそれを邪魔しようとしたものです。それは、何か自分が話したいことがあるからなのかと思ってしゃべらせても、話題らしい話題を持っていません。
それではと、別の人が話題を提供して、再び話が盛り上がり始めると、また韓国人が邪魔をします。
韓国人的には、意図的に邪魔をしているつもりではないのかもしれませんが、その時行なわれている話のテーマをほぼ理解せず、話の中に出てくる単語にいちいちひっかかり、あるいは話に出てきた単語から何かを連想し、それについて自分が思うところを何が何でも人に聞かせようとするのですが、他人にわかるように話すということを全く考えないので、結果的に邪魔をしているのと同じことになります。
共感力がないのに、罵倒されるとすぐさま火病るのは何故かというご質問も同時に戴いておりますが、あれは罵倒に共感しているのではなく、単に罵倒語に反応しているだけです。ですから、罵倒語ではない言葉を罵倒語と誤解して火病ることも非常にしばしばあります。
例えば、「朝鮮」という言葉を用いると、かなり高い確率で彼らは火病ります。それを知った上で意図的に彼らに対する嫌がらせとして「朝鮮」という言葉を用いることも皆無ではありませんが、日本語においては「朝鮮」という単語を用いる方がより正確な表現になるために用いることの方が多いのに、彼らはいちいち「朝鮮」という言葉に反応します。
彼らは「より正確な表現を行ないたい」という私たちの意思に「共感」することは、全くありません。ただひたすら、「ウリは「朝鮮」という言葉を侮蔑と感じるから、使うな」という彼らの主張を、私たちに押し付け、飲み込ませようとするばかりです。
そこで私たちは、「何故「朝鮮」という言葉を侮蔑と感じるのか」の説明を求めます。彼らが嫌がるからというだけの理由で、侮蔑語でも罵倒語でもない一般名詞の使用を制限されるというのは、言論の自由の侵害ですから、その理由を求めるのは当然の権利です。
彼らがその理由を満足に説明出来た例がないのは、これまでにも何度か述べてきたとおりです。とにかく彼らは、「ウリが嫌なんだから使うなったら使うな」の一点張りで、共感を得るための努力は全くしないのです。
そう言えば、韓国人は室内楽があまり得意ではないという話をどこかで見かけたことがあります。ひとりひとりに単独で演奏させれば、韓国人も決して下手ではないのですが、合奏となると途端に上手くいかないのだそうです。それは何故かというと、韓国人は他人に合わせることを恥だと思っているからなのだとか。
言われてみれば確かに、韓国人にはそういう傾向が顕著に見られます。
「共感」に限らず、「共」という字が付くものは誰かと「共に」行なうことです。「共に」というのは、自分ひとりでやるのではなく、もちろん、誰かに押し付けたり寄りかかったりするものでもありません。「共に」行なうためには、自分が何をしなければならないかということだけではなく、相手が何をしているのかもよく見、よく聞き、よく理解する必要があります。
合奏などは特にそうで、自分ひとりだけが気持ち良く奏でれば良いというものでは全くなく、「共に」演奏している人の音を聴き、それに合わせなければ成立しません。
しかし韓国人には、そういう習慣がありません。韓国人にとって他人の言うことをよく聞くことは、自らその人の下に立つことであって、恥であり敗北なのでしょう。
ですから彼らは、何としても自分の言うことを他人に聞かせようとします。そうすることで自分が上に立ち、面目を得、勝利出来ると考えているのでしょう。
韓国人の掲示板には、「共感」「非共感」というボタンが付いていることが多いようですが、その割に韓国人のコメントに「あなたの話に共感します」という類のものはあまり多くありません。代わりに、彼らが誰かのコメントに同意する時は、「リアル」という言葉をよく見かけます。「確かにそれが現実だ」とでもいう意味なのでしょう。「現実を認めること」も彼らはあまり得意ではありませんが、「誰かに共感すること」よりは抵抗が少ないのかもしれません。
しかし「共感」は、人間にとってはかなり重要な能力です。力が弱く、鋭い爪や牙があるわけでもなく、足も遅く、空を飛べるわけでもない人間がここまで繁栄したのは、ただに知能が発達したからというだけではありません。他の動物と比較すると、人間は言語によってコミュニティ全体の共感を高いレベルで形成しやすかったということが、人類の進化と発展に大きく寄与したのではないでしょうか。
どんなに優れた知能を持つ人でも、一人では出来ることに限界があります。しかし、人間としては並の知能であっても、多くの人々と共感し合い、共同で作業すれば、出来ることは限りなく広がります。
実際、韓国人はしばしば「日本人は一人だとミミズだが、集団だと龍になる」と言います。それは、日本人一人一人はそれほど大した能力がありそうには見えないのに、集団になると俄然能力を発揮し、大きな成果を達成するからです。
対する韓国人は、「一人一人は虎だが、集団になると猫になる」のだそうです。彼らは、自分たちの優秀性を信じて疑いません。しかし「現実」は、彼らが優れているとは言い難いことを見せ付けます。彼らは妄想と現実の乖離を合理化するために、「自分はスゴイけど、他の奴らがダメだから韓国はダメなのだ」と理解しているのでしょう。
それは韓国の教育のためか、それとも韓国人が種として持つ性質なのかはわかりませんが、いずれにしても韓国人には共感する能力がないか、あっても極めて乏しいのは確かです。
韓国人に「共感」する能力がなくても、それで韓国社会が回っているのであれば、外国人が口を出すことではありません。しかし日本にその影響が及ぶとすれば話は別です。
先日、IOCでオリンピックの分散開催が認められたという報があり、それを受けて東京五輪及び平昌五輪の日韓共同開催を模索する声が一部で上がっておりますが、「共感」する能力のない連中と、大きな国際イベントを「共催」すればどうなるかは、既に2002年に実験しました。結果は、周知の通りです。
日本が2002年と同じ愚を犯さないことを、心から祈りたいと思います。