ウリのウは「有」、ナムのナは「無」と書く?
既にコメントでお答えになった方がいらっしゃいますが、日本人にとって韓国人のウリナム思想は、わかるようでわかりにくいものです。既にコメントでもお答えいただいているので蛇足になりますが、私からも申し上げておきたいと思います。
まず、既にコメントでお答えいただいたように、彼らは「ウリ」という言葉を大変好んで用います。「国」という意味の朝鮮語「ナラ」に「ウリ」を付けて「我が国=ウリナラ」はつとに有名ですが、他には「言葉」という朝鮮語「マル」に「ウリ」を付けて「韓国語=ウリマル」、「学校」の朝鮮語読み「ハッキョ」に「ウリ」を付けて「我が校=ウリハッキョ」など、とにかく何にでも「ウリ」を付けたがります(蛇足ながら、「国」を意味する朝鮮語「ナラ」が、日本の「奈良」の語源であると主張する人がしばしばいますが、誤りです)。
反面、「ナム」という言葉はほぼ使われることがありません。日韓チャットでも、ほとんど見たことがありません。彼らが「お前はウリだ」と言うことはあっても、「お前はナムだ」と言うことは、まずないと言っても良いでしょう。
これは「ウリ」が彼らの「内側」にあるもので、「ナム」が彼らの「外側」にあるものと考えれば、誤解の余地は大いにありますが、いくらかわかりやすいでしょうか。彼らの意識は常に「内側」に向いており、「外側」に向けられることはほとんどないのです(再び蛇足になりますが、朝鮮のことわざに「ひじは内側に曲がる(팔은 안으로 굽는다=身内贔屓をするのは当たり前)」というのがあります)。
過去にも述べたことがありますが、韓国人にとっての「ウリ」とは、その存在を自己に同一化することと言えます。
「ウリ」は一般的には「我々(の)」と訳されることが多い言葉ですが、私はこれを「自分自身」と訳すべきだと常々申し上げているとおり、日本人が考える「我々(の)」と、韓国人が言う「ウリ」には、微妙な乖離があります。
「ウリ」を「我々(の)」と言うよりは、「うち(の)」と言う方が適切とも言われるように、日本語における「我々」で考えられている集団的で広い範囲の意識ではなく、日本語における「うち(≒内)」のような、意識の範囲が主観的と言うか個人的と考えた方が、間違いなく近いでしょう。
対する「ナム」ですが、これは「ウリ」の対義語と言えば全くその通りなのですが、日本人が「ウリ」を「自分自身」と訳し、「ナム」をその対義語として「自分自身以外」と訳すと、これまた少なからぬ誤解が生じるようです。何故なら、日本人は「自分自身以外」の存在を明確に意識出来ますが、どうも韓国人は「自分自身以外」という存在を、明確には意識出来ないようだからです。
韓国人にとっての「ナム」とは、「存在を認識しない(あるいは「出来ない」)存在」とでも言えば近いでしょうか。
韓国では、無視は罵倒より悪いとされています。「罵倒」は、少なくとも相手の存在を認めなければ出来ませんが、「無視」は相手の存在を認めないことだからでしょう。
かつて、韓国のテレビ番組が韓国人の外国人差別に対する調査を行なった動画がありました(過去記事には当該動画のリンクがありますが、確認したところ当該動画は削除されておりました)。それは韓国人の人種差別意識を調査するために、欧米系と言うか白人系の外国人青年と、東南アジア系の外国人青年が、それぞれソウルの路上で道を尋ねるという動画でした。
白人系の外国人青年に対しては、韓国人は極めて親切でした。路上で地図を見て首を傾げているだけで、韓国人の方から話し掛け、親切に道を教えていました。
ところが、東南アジア系外国人青年に対しては、韓国人は極めて冷淡でした。それは、その東南アジア系外国人青年を意識的に差別しようとしているというよりも、最初からその存在を全く認識しようとしない態度でした。
白人系外国人青年であれば、韓国の路上で地図を開いて佇むだけで韓国人が進んで近寄って行って親切に声を掛け道を教えるのに対し、東南アジア系外国人青年が路上で地図を拡げ、首を傾げていても、進んで話し掛ける韓国人はいません。
東南アジア系外国人青年の方から道を尋ねるために韓国人に近寄って声を掛けても、ほとんどの韓国人は目も合わせようとせず、物を押しのけるように東南アジア系外国人青年を押しのけ、無言で通り過ぎて行くのです。
それは、韓国人にとって東南アジア系の人々が「存在を認識しない(あるいは「したいと思わない」)存在」だからなのでしょう。
ですから、韓国人が「ナム」と考える相手に対し、「お前はナムだ」と言うことは、おそらくありません。少なくとも、日韓チャットでは一度も見たことがありません。「お前はナムだ」と言うこと自体が既に、相手の存在を認識していることになるからです。
韓国人が相手の態度に不満を持った時、「あなたは私を無視するのか?」「私を無視するな!」と非難することがしばしばありますが、それは韓国人にとって「無視されること=「ナム」として扱われること」だからでしょう。
逆に韓国人が気に入らない韓国人に対し、「お前はそれでも韓国人なの?」と言うこともあります。それは日本人にわかりやすいように言えば、「お前は「ウリ」ではないのか?」と言ってるのでしょう。
韓国人にとって、「ウリ」から排除されることは死刑宣告にも等しいことのようで、日韓チャットでこう言われて引き下がらない韓国人はほとんどいませんでした。
そんな感じで、韓国人は社会の中で互いに「ウリ」であることの確認作業は頻繁に行ないます。しかし「ナム」であることの確認作業はほぼ行ないません。「ナム」は確認する必要がないからです。韓国人はその相手を「ウリではない」と考えた時点で、その相手は自動的に「ナム」となり、彼らの意識上抹殺されるのです。
日本が、韓国人にとって決して「ウリ」ではないにも関わらず「ナム」でもないのは、常に日本が彼らの意識の中にあるためかもしれません。