平成26年年末ご挨拶
特に日本の、韓国に対する姿勢は本当に良くなりました。このまま後戻りせず、前に進んでもらいたいものです。
2014年の韓国関連といえば、やはりセウォル号とナッツリターンが筆頭でしょう。どちらも、韓国らしさを遺憾なく発揮した事件でした。特にセウォル号関連は、韓国らしさを煮詰めて結晶にしたかのごとくでした。
以前にも申し上げましたが、似たような事故は、韓国では報じられていなかっただけで普通に頻繁に起きていたものだったと思います。ただ、あそこまで韓国らしさの全てを余すところなく詰め込んだ事故がなかっただけのことでしょう。
これはナッツリターンにしても同様で、この事件の最大の問題は、韓国では上位者が下位者に対して、傲慢とか尊大では済まされない態度を取るのが至って普通に行なわれているということを、国際的に暴露してしまったことでしょう。
いずれも、韓国がどういう国であり、韓国人がどういう人々であるかを、言葉で説明する以上にわかりやすく示してくれた事件だったと思います。
日本はほとんど無関係(事故船舶が日本製の中古だったことぐらいしか関係がなかった)にも関わらず、朝日新聞がセウォル号事故を「2014年の十大ニュース」にランクインさせたそうですから、ホントにあの新聞は、「心において」韓国の新聞なのだなあと再確認出来たのは、思わぬ収穫でした。
ともあれ、日本が普通の国となるには、韓国という重石と言うか足手まといと言うか、障壁を排除することが重要だということは、今年一年で証明されたのではないかと思います。
日本が韓国を排除すれば、日本の何もかもが上手くいくというほど、世界は簡単ではありません。が、日本が韓国を可能な限り排除することで、わずかでも日本の悪化を食い止めることが出来るのは確かです。
だからと言って、韓国を忘れてしまっては元の木阿弥です。韓国には「関わるな、しかし忘れるな」の精神で接することが重要です。
それから懸案の書籍化について、今のところはただオファーを待っているだけの状態ですが、来年はこちらから動けることがないかも模索してしてみようかなと思っています。電子書籍とかも考えたんですが、やっぱり紙媒体にこだわりたい。ネットを見れない人にこそ、伝えたいのです。そういう意味では読めれば良い、別に立派な装丁なんて要らないので、同人スタイルの出版も有りかななんて思っております。ただコミケとかはちょっと行けないので、販路が問題ですが(´・ω・`)
もちろん、引き続き出版関係者の方からのオファーも絶賛お待ちしております(`・ω・´)。
ネタは枯渇して久しく、更新も遅れがちではありますが、それでも必要としてくださる声がある限り、弊ブログは続けていきたいと思っております。
それでは新しい年が、日本と皆様にとってより良い一年になりますように、また来年も弊ブログに変わらぬご指導ご鞭撻ご声援を賜りますようにと願って、平成26年の年末ご挨拶とさせていただきます。
責任転嫁も「韓国人のような真似」
さて韓国についていろいろ知るうちに陥りやすいのが、「日本の悪いところや望ましくないものは全て韓国(朝鮮)由来」と考えてしまうということでしょう。しかもそれが必ずしも間違いではないことがしばしばありますから、悩ましいものがあります。
韓国(あるいは朝鮮)人の醜悪さというのは、実は人間が普遍的に持っているものであることが多いと、私は考えています。
仏教ではそれを煩悩と呼んでいます。「煩わしい悩み」と書くように、「それ」は心地よい感情ではありませんし、「それ」に振り回されれば、良くない結果に至ることが少なくありません。しかし「煩悩」そのものは、必要なものです。「煩悩」がなければ、文化も文明も発達しなかったでしょう。それ以前に、「煩悩」があるからこそ、人は生きていけると言い切っても良いでしょう。
問題は「煩悩」そのものではなく、それを制御しない(あるいは出来ない)ことなのです。
「煩悩」の根源は、「欲」だと思います。「欲」は、別に人間様の専売特許ではありません。動物はもちろんのこと、時には植物にもあるのではないかと思うことがあります。しかし動物や植物には、尋ねてみたことはありませんが、「煩悩」は多分ないでしょう。「煩悩」は人間の専売特許と言えます。
韓国人はこの「煩悩」そのものを「人間らしさ」と嘯いて、それを制御しません。それが「韓国人らしさ」を形成していると言っても、過言ではありますまい。しかし本来の「人間らしさ」とは、「煩悩」を制御することだと私は考えています。
「煩悩」を制御しない、あるいは出来ない人というのは、韓国人以外にもしばしば存在します。例えば、子供がそうです。韓国人を見ていると、小児的な印象を抱くことが多いのはその為かもしれません。
困ったことに、大人にもそういう人はいます。しかも案外珍しくありません。もちろん日本人の中にも、結構います。
その人を見て、「韓国人のような真似をしている人だ」と思ったり指摘するのは妥当です。しかし何の根拠もなく「あれは韓国人だ(≒日本人ではない)」と決め付けるのは、妥当とは言えません。それは「日本人絶対無謬」という意識に、容易に結びつきます。「何の根拠もなく、不快を感じる相手を韓国人と決め付けること」そのものが、「韓国人のような真似」でしかないのに。
日本人の「日本絶対無謬」は、韓国人の「韓国絶対善」の裏返しにしかなりません。日本の良いもの、優れたものをことごとく韓国起源にしてしまうのと、日本の悪いとこや望ましくないものをことごとく韓国由来にしてしまうことの、どこが違うと言えるでしょうか。
コメントで、お笑い芸人の乱暴な物言いを「朝鮮の声闘由来ではないか」というご質問を下さった方がいらっしゃいます。
「本来、上方の言葉は、まるで歌うかのように流れる柔らかい響きを持ち、相手を思う心遣いに溢れた言葉です。商人の町です、自然にそうなったと。」と仰っておられますが、一言で大阪弁と言ってもさまざまです。
私の住まう枚方は、最も大阪寄りの東海道の宿場で、京都にも程近く、平安の時代には皇族の所領地も多数あった由緒ある地域ですが、当地の名物に「くらわんか舟」というものがありました。
これはかつて淀川を上り下りする船を相手に酒食を売る舟が枚方にあったのですが、売り子が地元の言葉で「餅食らわんか、酒食らわんか、銭がないからよう食らわんか」と乱暴に呼ばわったのが由来とされているように、この近辺の言葉は荒かったようです。
私が住む枚方は北河内と呼ばれ、河内弁に属します(尤も現在では、この地域は地方からの転入者が非常に多かったため、かなり標準語に近いのですが)。淀川を挟んで、枚方の向かいに当たる摂津地方では、摂津弁が用いられるそうです。堺の方へ行けば、泉州弁というのがあるそうです。「上方は商人言葉」というのは、いわゆる船場言葉のことでしょう。また、吉本芸人が用いる大阪弁は、ある意味「吉本弁」と言っても良いかもしれません。
この「吉本弁」に朝鮮の声闘の影響があるのではということですが、日本の芸能における物言いは、朝鮮の声闘とは異なり、感情のままにほとばしるものでもなければ、勝ち負けを定めるために行なわれるものでもありません。
基本的には、(用いている当人にその意識がなくとも)様式として計算され成立しているものです。これは上方芸能に限りません。
江戸の落語にしても、「大工調べ」や「たがや」ではそれはもうべらべらべらべらと悪口雑言が出てきます。上方漫才を朝鮮の声闘由来ではないかと言うのは、「大工調べ」や「たがや」を「韓国の悪口雑言が由来ではないか」と言うようなものでしょう。
日本の悪いところや望ましくないものを認めたくない気持ちは、わからないでもありません。しかしそれを韓国のせいにすることこそが、「韓国人のような真似」です。そのことを、私たちは心するべきではないかと思った次第です。