続「韓国人がノーベル賞を取れない理由」
私が通っているのは、いわゆる「スーパー銭湯」ではなく、番台があり入り口で男湯女湯が左右に振り分けられている昔ながらの銭湯です。最近のスーパー銭湯と比べると施設としては狭くて貧弱ですが、古びた佇まいも風情と趣きがあってなかなかいいものです。
今日その銭湯で、湯あがりに髪の毛を乾かしていると、脱衣場に設置してあるテレビが速報のチャイムを鳴らしました。またどこかで地震でも起きたのかと思ってテレビの画面を凝視すると、なんと日本人研究者がノーベル物理学賞を受賞したとの由。つい前日、医学生理学賞を日本人が受賞したとばかりということもあったためでしょう。男湯でも女湯でも歓声があがりました。
私が子供の頃、日本の教育は画一的な詰め込み式で、こんな教育では天才は育たないと嘆く大人がいましたが、何の何の。どんな環境であっても、育つ大樹はあるものだなあと思いました。
こんな時に韓国の反応を気にするようでは、「フォースの韓国面に堕ちている」と言われてもしかたないのですが、こんなブログを書いている身であれば、「韓国の反応なんか気にならない」と言う方が嘘になってしまうでしょう。
もっとも韓国の反応なんか見る前からわかりきっています。
「チョッパリがバカスカ受賞しているのに、何故ウリナラはノーベル賞が取れないニダ」という嘆き節が一番多いのは言うまでもありませんが、「日本のノーベル賞は猛烈なロビー活動や買収工作の成果に決まってるニダ」といった自己投影やら、「やっぱり日本人は優秀だ。それに引き換えチョーセンジンときたら」といった自己卑下がねじれて自分だけは日本人になったつもりになっているのやら、「ノーベル賞なんか最早時代遅れで価値がない」といった「酸っぱいブドウ型」なんかが主流だろうと思って帰宅後ネットにつないでみたら、だいたいその通りでした。
ずいぶん前に、「韓国がノーベル賞を取れない理由」という記事を書きました。その記事では、韓国人の行動原理にその理由を求めていました。しかし、最近それだけではないのかもしれないと思うようになりました。
客観的に見れば、韓国人の教育や知識レベルは彼らが自負するほど高くはありませんが、国際標準で言えば低いとも言えません。ですから、彼らが過去のノーベル賞受賞者同様、ただただ知的好奇心に衝き動かされる形で愚直に学術研究に勤しめば、あるいはノーベル賞を獲得する可能性もゼロではないでしょう。
韓国人も、そうしなければノーベル賞受賞は難しいということに薄っすら気づいていなくもないようなのです。それなのに彼らはそうすることが出来ません。
それはひとつには、彼らの社会環境というのもあるでしょう。彼らの社会は歴史的に失敗を許しません。失敗は敗北であり、敗北は全ての終わり、即ち「死」と同義です。
だからと言って彼らが失敗しないわけではありません。どころか彼らは非常にしばしば、明らかに失敗するとわかっている道を進んで、案の定失敗します。失敗が彼らにとって「死」と同義なのであれば、失敗した彼らは素直に死ぬかと言えば、そんなことは全くありません。彼らは、自らの失敗を簡単には認めないのです。
たとえどんなに明確な失敗であっても、彼らはそれを素直に認めるということがありません。彼らの中では、失敗を認めない限り失敗していないことになるからです。しかし失敗はそれを認めなければ、教訓化することが出来ません。
従って彼らは、自分たちが進んでいる道が失敗への道だと気付いても、引き返すことはもちろん、方向転換することも難しいのです。これが彼らの学術研究に対する姿勢が間違っていることに気付いていても、それを是正することが全く出来ない理由ではないでしょうか。
次に彼らは「偉い人」が成果を独り占めすることを当然と考えていることが、もうひとつの理由かもしれません。下っ端の内は、どうせ一所懸命研究したって「偉い人」に成果を独り占めされるのだと思えば真剣にやる気がなくなるでしょうし、偉くなれば自分は何もしなくても、面倒なことは全部下っ端にやらせれば良いと思うので、これまた真剣に、地道に研究するということはないでしょう。
せめて韓国人に「互いを思いやる」という意識があれば、そういう社会環境も改められることがあるかもしれませんが、韓国人にあるのは「自分を思いやれ」という意識だけですので、韓国の社会環境が改められることは、少なくとも自律的にはないでしょう。
彼らの行動原理が改められても、彼らの社会環境が改められない限り、彼らが学術研究に対する姿勢を変えるということはあり得ません。
しかしお前は最初に「どんな環境であっても、育つ大樹はあるものだなあ」と書いたじゃないかと仰る方がいらっしゃるかもしれません。どんな環境であっても育つ大樹があるなら、韓国社会という環境でも育つ大樹があるはずだと。
確かに、それが大樹の種子であれば、どんな環境でもひとつぐらいは奇跡的に育つ個体が出てくることはあるはずです。しかしそれは種子が大樹のものであればの話であって、それが大樹の種子でないものなら、育っても大樹にはならないでしょう。
そう考えると、「韓国人学者がノーベル賞の受賞レースのスタートラインに立つことが出来る日」が「来世紀中までには来るかもしれない」という過去の私の考えは、ずいぶん甘いものだったのかもしれないと思う今年のノーベル賞シーズンでした。