何故韓国人は自ら生き難い社会にしてしまうのか
さて今回はご質問ではないと思うのですが、恐らく韓国をある程度知った日本人なら誰もが感じることをコメントされていた方がいらっしゃったので、これをお題にさせて戴こうと思います。
日本人から見ると、韓国人というのは自ら生き難い社会にしてしまうように見えます。傍から見ていると、何も難しいことはない、もう少しこうすればずっと楽になるのに、ああすればずっと簡単なのにと酷くもどかしい思いをします。
それを最も具体的に示して見せてしまったのが、あのセウォル号事故でした。
あの時私は、事故をリアルタイムで見ながら、船は沈むにしてもほとんどの人は助かるだろうと思っていました。船の沈没速度は極めて緩やかでしたし、季節も、泳ぐにはいささか早過ぎましたが、落水即死と言うほどの厳寒期でもありません。事故の速報の映像を見れば既に救助隊が現場に到着しており、複数の救命ボートが沈没船の周囲に待機しているのです。まさか数百名もの死者・行方不明者を出す事故になるなどとは、全く思いもしませんでした。
ところが現実には、彼らは被害者も救助者も共にやるべきことをやらず、ただ淡々と船が沈むのを待っていました。日韓チャットで韓国人にしょっちゅう「何故お前らはそうなんだ」ともどかしい思いをさせられまくっていた私ですが、この時ほど歯痒い思いをしたことはありません。
事故当時の記事にも書きましたが、いくら韓国人が嫌いでも、彼らが苦しみながら死んでゆくところをほくそ笑み、あるいは嘲笑しながら見ていられるほど私の神経は太くありません。あの時、彼らには為す術が全くなかったというならともかく、救助の時間も方法も、その能力もあったはずです。少なくとも、彼らが万策を尽くしたとは断じて言えない状態でした。
韓国人の作る社会とは、まさにあれなのです。他人に何かしてもらうことについては十全以上に期待しますが、他人に何かしてあげられることはないかという発想が極めて貧弱で、誰もが自分に都合の良いことだけを考え、他者を慮らず、勝手気ままに振る舞い、その結果誰もが生き難い思いをする社会を構築してしまうのです。
日本人は、「他人に迷惑を掛けないこと」を第一に考えます。これが韓国人には耐え難いほど窮屈に見えるようですが、日本人とて「他人に迷惑を掛けないこと」を常に考えるのは、それなりに息苦しいものがあります。
しかし、「他人に迷惑を掛けないこと」を社会の構成員が徹底すれば、逆に「他人に迷惑を掛けられること」が劇的に少なくなるわけです。「他人に迷惑を掛けられないこと」が徹底されれば、誰もが比較的楽に生活出来るようになります。
この最もわかりやすい例が「行列」でしょう。長い列に並ぶのが好きという人もたまにいるようですが、普通は嫌なものです。列に並んで待ってる時間に何か別のことが出来るならばまだしも、ただ漫然と並ぶだけなら、時間の長さがいつもの倍や三倍に感じられるでしょう。
だからと言って行列を作らなければどうなるでしょうか。もしかすると、首尾良く他人を出し抜いて早く目的が達せられるかもしれません。しかし同じように早く目的を達したいと思う人々と熾烈な競争をする羽目になる恐れの方が、圧倒的に大きくなります。
行列を作らなければ、どちらが先かの言い争いも起きるでしょうし、言い争いにまで至らなくとも、何だあいつ、俺より後に来たくせに俺の前に割り込みやがってとか、何睨んでんだあのバカ、お前がグズグズしてるから俺に先を越されるんだよざまぁみろとか、そんなどす黒い感情を腹の中に溜め込むことにもなります。あるいはそれが爆発して言い争いでは収まらず、拳で語り合ってしまうこともあるでしょう。
そうなるぐらいなら、行列を作って大人しく待つ方がムダもトラブルもあらかじめ回避出来、時間の面でも結果的には効率的なのです。
行列に限らず普通の、少なくとも先進国と呼ばれる社会においては、社会を構成するひとりひとりが他人のことを少しずつ考えることが当然のルールになっており、それによって巡り巡って自分自身の負担が軽くなるのです。
ところが韓国人にはそれが全く理解出来ません。彼らは、自分のことしか考えられません。それを最もわかりやすく示唆しているのが、彼らのノーベル賞に対する認識です。
彼らがノーベル賞を欲すること甚だしいものがあるのは韓国ウォッチャーならずとも広く知られつつある事実です。毎年のように「何故ウリはノーベル賞を取れないニダ」と大騒ぎする彼らに対し、揶揄や皮肉と共に、それなりに真摯な忠告や提言もあります。その忠告や提言では、【ノーベル賞とは「人類のために最大たる貢献をした人々」に対する賞である】ということも、何度も何度も言及されているはずなのです。
ところが彼らがノーベル賞を取るために考える方策は常に「自分たちのため」なのです。私は韓国人ではないので、絶対とは言い切れませんが、長年彼らをウォッチしてきた経験から言わせて戴くならば、彼らにとって「人類」とは「自分たち」だけであり、「人類のために最大たる貢献をした人々」というのを彼らは「自分たちのために最大たる貢献をした人々」と考え、理解しているのだと思います。
かつて「日本とはWin-Winの関係が絶対に築けない韓国」という記事を書きましたが、実は日本に限らず、韓国は他国とWin-Winの関係を築けません。韓国最大の同盟国であるアメリカでさえ韓国に愛想を尽かしつつある現実を見れば、韓国が他国とWin-Winの関係を築けない国であるということは疑う余地がありません。
弊ブログでは時々抹香臭いことを申し上げますが、仏教用語に「自利利他」という言葉があります。「自利」即ち「自分の利益」と「他利」即ち「他人の利益」とは同じものという考え方です。「情けは人の為ならず 巡り巡って己が為」と言えばいくらかわかりやすいでしょうか。自分の利だけを考えるのではなく、他人の利も考えることこそが、結局自分の利でもあるという考え方です。誰もが少しずつ自分の意に染まないことや嫌なことを辛抱したり譲歩することで、誰もがそこそこ快適に過ごせる社会を構築・維持することは、この自利利他の具現のひとつと言えるでしょう。
韓国人の「ウリ」「ナム」思想においては、この考え方がどうしても出来ません。どんなに周囲が教えても諭しても、彼らが「ウリ」「ナム」思想を維持し続ける限り、彼らは「自分自身(=ウリ)」の利しか考えられません。彼らにとって「ナム」とは存在しないものだからです。存在しないものの利を考えることは出来ません。
韓国人を見ていると、わかっていても「どうしてこいつらはこうなんだ」と慨嘆せずには居られないことがよくあります。【自利利他】の考えを持っている人ほど、「どうにかしてやれんものか」と苦悩するでしょう。
しかしそれを解決する方法はありません。少なくとも、日本人には無理です。ですから、韓国や韓国人については、「どうしてこいつらはこうなんだ」と思うことがあっても、「それでもこいつらはこうなんだ」ということを徹底的に悟ることだけが、韓国に対する最も正しい対応であると私は確信しております。