「ウリ」だけの世界は孤独?
さて韓国や韓国人について考える時、彼らの「ウリ」「ナム」思想は大変に重要な要素のひとつですが、同時に日本人にとっては大変にわかりづらい思想でもあります。
しかし今は忘れているだけで、実は誰もが持っていた意識かもしれません。少なくとも私は持ってたことがあると思いますw
自分と他人の区別がつかず、他人は自分の延長線上にあり、自分の望みを他人が叶えるのは当然という時代が、誰にもあったはずです。それは乳児期から幼少期です。
その時の「他人」とは当然赤の他人ではなく、親や兄弟や近所の人など、自分の半径5mから、かなり広く考え得たとしても50m以内にいる人です。殊に「母親」という存在は、かなり長い期間「自分自身」と一体不可分な存在として認識されます。これは人類普遍と言うか、哺乳動物には普遍の意識ではないかと思います。
やや余談気味になりますが、韓国にはマザコン男性が極めて多い(韓国では「ママボーイ」と言うそうです)のも、「母子」の一体不可分的関係に韓国のウリ意識がプラスされるためかもしれません。
「自分自身」と一体不可分の存在として認識されている母親は、新生児期から乳児期までは泣き喚くだけで自分の気持ちを察し(少なくとも察しようと努力し)、全ての望みを叶え(るための努力をし)てくれます。それは新生児から乳児期の「全ての望み」が単純で原始的な欲求ばかりだからですが、成長に伴って行動範囲は広がり、行動範囲の広がりと共に人間関係も広くまた複雑になっていきます。
そうなってくると母親の方も「全ての望み」を叶えることは現実的に不可能になってきますし、子供の将来のために自立を促す必要にも迫られます。加えて日本においては、子供が物心つき始める頃には、「他人に迷惑を掛けてはいけない」ということを教え始めます。
日本においては「自分」とは異なる存在である「他人」がいて、「自分」が尊重されたいと思うように「他人」も尊重されたいと思っているということを、「他人に迷惑を掛けてはいけない」ということで覚えることになります。
思うに韓国人の場合、この辺りの精神的成長が普通の人類とは異なるようです。「他人に迷惑を掛けてはいけない」という意識は日本人に特有のもので、人類普遍とは言えないかもしれませんが、精神的成長に伴う「自分」と「他人」は異なる存在であるという意識というか「気づき」は、日本人特有ではないでしょう。
この「「自分」と「他人」は異なる存在」という意識が、韓国人にはすっぽり欠けているように思われるのです。全ての部分でそうだとまでは言いませんが、「自己」と「他者」に対する意識と理解という点においては、韓国人は人類で言えば乳幼児レベルで精神の発達が終わっているのではないかと考えれば、かなり理解しやすいのではないでしょうか(明確に覚えているいないはあるでしょうが、誰にも乳幼児期の体験はあるはずです)。
乳幼児期という、「自己」という意識も明確になく、同時に「他者」の存在もよくわかっていなかった頃、私たちは孤独に苛まれていたでしょうか。むしろ「自己」と「他者」が違う存在だということを多面的に理解し始める思春期の方が、より強く孤独を感じたのではないでしょうか。
「孤独」というのは、「大勢の中でたったひとり」であることを理解して初めて感じるものです。最初から「自分」しかいなければ、「孤独」を感じることはありません。
事実韓国人は、決して孤独を恐れないわけではありません。むしろ「大勢の中」で孤立することについては、もしかすると日本人よりも強い恐怖を感じる方かもしれません。ですから「世界の中で孤立すること」を韓国人は酷く恐れます。
だからこそ彼らは「ウリ」になろうとし、また「他者」を「ウリ」に巻き込むか「ナム」のまま弾き出そうとします。彼らにとって「ウリ」は「自分自身」ですが、同時に「世界」でもあるのです。それが、「楽しい時間だったり、空間だったりしているの」かどうかは、韓国人ならぬ身の私には何とも申し上げかねますが、少なくとも「ウリ」となることで彼らが孤独を感じるどころか、むしろ孤独から免れ(ようとし)ているのは間違いないと断言出来ます。
なお韓国人にとって【「ナム」とは、単なる部外者とか、異質な他者ではなく、「存在しないもの」という件ですが、それはつまり、路傍の石ころや、紙くず同様の無生物か、生き物ではあっても、虫けらや、雑草同然】というのはニュアンスとしてだいたい合ってると言えますが、【コミュニケイト不能な低級な存在】と考えているかどうかは不明です。彼らにとって「ナム」とは「最初からコミュニケートする価値すら認めない存在」というのが近いからです。それが「存在を認めない存在」という意味です。
以上、今回のご質問のお答えとさせていただきます。