日本の嫌韓は論理的にならざるを得ない
対外的な事件の重大性を殊更に矮小化しようとする印象操作は、韓国人の関係した醜聞における韓国メディアの常套手段ですが、今回靖国神社で韓国人が行なった犯罪は、明らかにテロであり、それ以外のなにものでもありません。
「挑発」の意味を辞書で引けば、「[名](スル)相手を刺激して、事件や紛争などを引き起こすように、また、好奇心や欲情などをかきたてるようにしむけること」とあります。靖国神社で行なわれた明らかなテロを「挑発」と呼ぶのは、「単に刺激しただけ(でそんなに悪いことをしたわけじゃない)」と印象付ける以外のどのような意図があるのか、鮮于鉦は説明出来るのでしょうか。
事実コラムの中でも鮮宇鉦は「テロを容認することはできない」と書いています。彼自身、今回の犯罪がテロであることを否定出来ないのに、韓国人の行なった犯罪を殊更に矮小化して、日本で行なわれた韓国領事館に対する汚物投擲とイコールで結んでいます。
そもそもその汚物投擲についても、日本人が行なったかどうかは定かではありません。汚物が人糞であるかどうかは私は確認していませんが、排泄物であることは確かなようです。しかし日本人が汚物を抗議や報復に用いる例はかなり珍しいのではないでしょうか。少なくとも私は俄にその例を思いつきません。
対する韓国人が汚物、ことに排泄物に執着すること甚だしいのは、韓国ウォッチャーであれば誰もが知っていることです。彼らがキムチに執着すると同時に、これを抗議や報復に用いることがしばしばあるように、韓国人は排泄物に異常なまでに執着し、且つ抗議や報復にそれを用いることが非常にしばしばあります。
私は日本で行なわれる犯罪が全て韓国人によるものだと主張するつもりはありません。日本人にも、韓国人並に凶悪な人物はいるでしょう。血統や国籍が日本なのに、頭の中は朝鮮人という人もしばしば見かけます。
ですが、横浜の韓国領事館に汚物入りの箱が投擲された件については、日本人よりも韓国人によるものである可能性の方が濃いと考えざるを得ません。排泄物を抗議や報復に用いるという発想と、それを実行に移すという行為が、果てしなく「日本人らしくない」し「韓国人らし過ぎる」からです。つまり鮮于鉦の言う「便所挑発に人糞報復」は、どちらも韓国人の仕業である可能性があります。その可能性を一切考慮せず、「人糞報復」を日本人によるものと全くの疑いなく考える辺り、相変わらず韓国人は「日本絶対悪」という結論から一歩も動こうとしていないことがよくわかります。
韓国人は「何故日本は絶対悪なのか」ということを一切考えません。それは彼らにとって真理であり、疑うことが許されない教義でもあるからです。ですから彼らの反日は揺るぐことがありません。
対する日本の嫌韓は常に揺れ動き、また揺さぶられています。
日本においては、「嫌う」ということが否定的に考えられているからでしょう。日本において「嫌う」ことは、「拒絶」を意味します。ある対象について「嫌い」ということを自ら認めまた公言すれば、良くても「無視」、一般的には「断絶」となります。
四方を海に囲まれた日本において「嫌う」ことは、最も酷な行為になるのでしょう。それは自分か相手のどちらかが、断崖絶壁まで追いやられ海に追い落とされなければならないというイメージを伴ったのかもしれません。日本人の考える対人関係において「嫌う」ということは、人間関係における死刑宣告に等しいとまで言えばやや言い過ぎでしょうか。何にせよ日本人は、違和感を覚える相手であっても、まずはどうにかして「嫌い」にならずに済ませることは出来ないのかと考えるのが習い性になっていると言えるでしょう。
そのためか「嫌韓」と言えば「感情的だ」とか「人種差別的だ」と非難されることが頻繁にあります。言う方は気楽なものです。そう言っておけば無条件で「良い人」という立場を得られるし、何の苦労も要りません。ですが言われる方は大変です。「何故嫌いなのか」を明確に説明しなければ、向けられた非難を肯定することになるのです。
そもそも言われる方にしても、「嫌う」ということに対する否定的意識は大いにあります。最早理屈ではなく、本能に近いレベルでその意識は日本人に徹底的に刷り込まれています。ですから多少嫌だと思っても「嫌い」とはなかなか言えないものです。言って非難されるならまだ理由を説明する機会も得られますが、非難もされず白い目を向けられ、黙って「酷い人」という烙印を押されるおそれの方が断然高いのです。
また非難されればされたで、たとえきちんと嫌う理由を説明したとしても、相手はあらゆる理由を総動員して(よく用いられるのが、「一人を見て全体を判断しないでください」の類例で、「韓国人にも良い人はいる」というヤツですね)「嫌うことはないじゃない」と言うでしょう。それでも嫌いなのだと言えるほどの確固とした理由と信念がなければ、嫌韓を主張し標榜することは出来ません。
嫌韓は、長らくそういう人たちからの「攻撃」に耐え続けてきました。中には、それにうんざりして韓国ウォッチから離脱した人も少なくないでしょう。嫌いならば見なければ良いのだと言われれば、確かにその通りだからです。韓国に関する一切に目を閉じ耳を塞ぎ、韓国を存在ごと忘れ去ってしまうことが出来れば、どれほど清々しいでしょうか。
しかしそれは韓国自身が許しません。日本人が韓国の存在を忘れかけたことは過去に何度もあります。その度に韓国は、存在を誇示するかの如く難癖をつけてきたのです。韓国の主観で言えば、それは「日本の妄言」とか「挑発」が原因になるのでしょうけれど、日本としては単に「普通の国」として「普通のこと」をしようとしただけなのに、韓国がしゃしゃり出てくるのです。
嫌わずにいようとして、日本人はあえて韓国の存在を忘れようとしているのに、日本に嫌われるためとしか思えないやり方で、韓国は存在を誇示してきます。結局日本人は「確固たる理由と信念」をガッチリ構築して、揺るぎなく韓国を嫌うしかなくなってくるのです。
斯くして日本の嫌韓はどんどん論理的になっていき、韓国の反日はいつまで経っても情緒的なものから抜け出せません。そう考えると、日韓関係は既に不可逆的な状態、いわゆるポイント・オブ・ノーリターンにまで来ているのかもしれないと考えるのは、私の希望的観測が過ぎるでしょうか。