加藤達也産経新聞前ソウル支局長無罪判決に思う
判決については当然と思う反面、意外とも思います。「法」に則って考えれば当然ですが、普段の韓国であれば、執行猶予付き有罪判決で「事実上の無罪」という形にして有耶無耶にするのが妥当な線だったと思うからです。
つまり今回の判決は、今の韓国が「普段の韓国」ではないという証左になったとも言えます。「普段の韓国」であれば、何を犠牲にしてでも死守したであろう「韓国人のメンツ」をかなぐり捨てなければならない状態だということを暴露したも同然です。
もちろんそれは、特に判決を出さねばならなかった裁判所としては、断腸の思いであったに違いありません。かつての靖国放火犯の事例にしても、また盗難仏像の返還についても、韓国の裁判所は「韓国人のメンツ」を死守しました。韓国では、法より情が優先されるということを、これら過去の事例は如実に示したものでした。
ならば今回は情より法を優先した判決であったのでしょうか。答えは当然否です。今回も、韓国の裁判所は情を優先したと考えるべきでしょう。
それは判決を読み上げる際に、被告である加藤達也産経新聞前ソウル支局長を3時間も立たせっ放しにするという幼稚な嫌がらせをしたことからも、またその判決内容において「【私人朴槿惠】に対する名誉の毀損はあったが、大統領という【公人朴槿恵】に対する「名誉棄損罪」の成立要素は満たされていない」と、如何にも悔しさが滲み出ている表現を用いたことからも窺い知れます。
韓国人の「情」としては、加藤達也産経新聞前ソウル支局長の「有罪」は揺るぎないものでした。ですがそれらに対する「情」よりも、韓国の生命線である日韓関係の改善を求める「情」に、韓国の裁判所は屈したのでしょう。
要するに、今回の判決も決して「法」に基づいた冷静な判断などではなく、「情」に基づいたドロドログチョグチョの判断の結果であったと私は理解します。またある意味これは、韓国が極めて恣意的に法を弄している事実を証明した結果とも言えるでしょう。
韓国においては、常に必ず韓国人の「情」が「法」に優先されると決まっているのであれば、韓国人の「情」が即ち「法」であると考えることが出来ます。即ち韓国人の「情」に則って考えれば、ある程度の「法則性」が見出せるはずです。
ところが今回の判決で韓国の裁判所は、「ウリ(自分)」に都合が良ければ韓国人の「情」を、都合が悪くなれば「法」を自在に使い分けることを示してみせたのです。その都合の良し悪しは、生粋の韓国人でも俄には判断出来ますまい。何故ならそれには、彼らの対人関係の上下強弱に対する意識が強く関わってくるからです。
例えばもし今回の判決が日本の政権が韓国に極めて甘々な時に、あるいは中韓関係の極めて良好な時期に行なわれていればどうだったでしょうか。間違いなく躊躇いなく自信を持って、韓国の裁判所は有罪判決を出したでしょう。それは加藤達也産経新聞前ソウル支局長が起訴以前から8ヶ月に渡って出国禁止措置にされたことからもわかります。少なくとも起訴した時点で韓国は「韓国人のメンツ」にかけて、加藤達也産経新聞前ソウル支局長を絶対に有罪にしてやるという強い意思を持っていたのです。
今回は現在の日本の政権が韓国に厳しく(少なくとも韓国が期待する程甘くなくw)、中韓関係が韓国が期待していたほど薔薇色ではないことに気付き、且つ韓国経済が警戒水位に達していることを隠し切れなくなってきた時期であるというのが大きく作用したことは疑う余地がありません。
韓国裁判所は、切実に有罪判決を下したかったことだろうと思います。本来であれば11月26日に出されるはずであった判決が、12月17日に延期されたのも、判決についての議論が紛糾したからではないかと私は勘繰っています。韓国人のメンツにかけて(たとえ事実上無罪に等しい執行猶予判決であっても)有罪にすべきという意見と、現在の日韓関係を考慮して無罪にすべきという意見が拮抗していたのではないでしょうか。
今回の裁判は結果的に現在の日韓関係を考慮した形にはなりましたが、それは韓国裁判所の理性的な判断によるものなどではなく、まさに臍を噛むにも等しい屈辱に満ちたものであったはずだということは先にも述べたとおりです。それほどまでに、日韓関係の改善(による日本の援助)を、韓国は欲しているのでしょう。
しかし今回の件を以て韓国を「最後の一線では法を守る国」などと判断するのは言語道断です。むしろ今回の結果から、彼らの「法」に対する二重規範性と恣意性を、私たちは重視し、警戒しなければなりません。
今回の件は彼らの「捻じれ」がたまたま360度回転した結果であって、決して彼らがまともにまっすぐになったわけではないのです。
彼らの「捻じれ」がいつどういう状況で何度回転するかは、韓国人にもわからないでしょう。たまたまある瞬間、彼らの「捻じれ」が正面を向いたからと言って、その位置で彼らが留まるということは期待しない方が良いし、ましてやそれを彼らの恒久的な姿勢や意識と理解するのは、少なくとも日本と日本人にとっては自殺行為に等しいと言っても決して言い過ぎではないと私は考えています。