自分の頭で考え、自分の言葉で述べよう
「いわゆる従軍慰安婦問題」の最終解決」の日韓合意について、私が部分的に評価していることは前回記事に書いたとおりですが、それに全面的に賛同してくださる方、部分的であっても評価は絶対許さんという方、部分的評価に同意出来なくもないけど、不安は拭い切れないという方、色んなご意見が表明されているということは大変良いことだと思います。
弊ブログでは常々申し上げている通り、異論・反論は大歓迎しております。というのも、賛成意見ばかりでは物事の一面しか見えてこないからです。
「絶対的な正しさ」というものは、そうあるものではありません。ましてや今回の日韓合意は、「絶対的な正しさ」からは遥かにかけ離れていると言っても良いぐらいです。何しろ最初の第一歩である「従軍慰安婦問題」そのものが虚偽と欺瞞と情実のビビンバだからです。
ではその最初の第一歩を「絶対的な正しさ」に近づけるべく、散々捏ね繰り混ぜられたビビンバの飯粒と具材と調味料を精密に分別し、それぞれの量を測定する作業を行なうべきかと言えば、そんなことは事実上不可能です。なにしろそのビビンバはただ捏ね繰り混ぜられているだけではなく、もう既にあらかた食い尽くされているのですから。
「絶対的な正しさ」にこだわって、ビビンバの最後のひと粒が食い尽くされてしまうまで「絶対的な正しさ」を求めても、得るものは何もありません。どころか下手をすれば、ビビンバのおかわりを要求されるおそれもあります。
そうなる前に「ビビンバはあった」という事実を前提に現実的な解決を図るというのは、私は最善ではないにしても次善ではなかったかと評価しました。しかしそれを許せないと考える人の気持ちも、わからないではありません。
ですがそう思う方は、何故そう思うのかをご自身で徹底的に言語化する必要があるとも思います。「許せないから許せないの!ヽ(`Д´#)ノ ムキー!!」では、話は一歩も前に進みません。
ある事案に対し賛成・反対・保留いずれにしても、「何も考えない」「何もしない」というのが一番悪いと私は思っております。
どう思うのか、何故そう思ったのかを言語化し表明することと、それに対する意見を求めることが重要です。どんなことであっても一人で考えるのは限界があります。一人が多くの人の意見を知り、多くの人が一人の意見を知り、互いに議論を進めることによって「ある事案」に対するコンセンサスがより磨かれ、より良いものになっていくのです。
「考える」ということは結構面倒臭いことです。「考えるのメンドクサイから、誰かが言ったり考えたとおりで良いや」というのは確かに楽ですが、そうすれば出た結果に不平や不満を言う資格は失われます。何故なら、「誰かが言ったり考えたとおりで良い」とすることは、「誰かが言ったり考えたことに無条件で同意した」ということになるからです。出た結果に文句を言う資格を持ちたいのであれば、結果が出るまでの過程の段階できちんと自分の意見を述べるべきです。
「いわゆる従軍慰安婦問題」に関して河野談話を非難する人は少なくありませんが、では河野談話が発表された当時、これを非難した人はどれほどいたでしょうか。私は、当時これに対する非難をほとんど聞きませんでした。もちろん、私もこれを全く非難しなかった一人です。非難する以前に、全く関心がありませんでした。
「日本が何か韓国に謝罪したらしい」という報道を耳にした記憶は薄っすらとなくもありませんが、当時の私は何処に出しても恥ずかしい立派な左巻きでしたから、ちらっと「日本は昔悪いことしたんだから当然」などと思ってすぐに忘れたんじゃないかと思います。
今でも河野談話を非難する人のどれほどが、その全文を熟読した上で非難しているのでしょうか。その内容をどの程度理解しているのでしょうか。一度も読みもせず他人が非難するのに乗っかって、あるいは読むには読んだけど全文ではなく誰かが問題視した部分だけを読んで非難してはいないでしょうか。
河野談話を非難するなと言うのではありません。非難するのであればその対象をきちんと理解し、自分の言葉でするべきと言っているのです。ずいぶん昔に、「アルファ症候群」という記事を書きました。当該記事では、ある事案の内容を詳しく知りもしないくせに轟々と非難を鳴らす韓国人のことを批判的に書いておりますが、この韓国人を嗤えない日本人も、少なくないのではないでしょうか。
ある事案について賛否が別れる場合、多くの意見を集め、多くの人がそれら意見を読んで自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べることが重要です。たとえその意見が的外れであったとしても、誰かの頭で考えられたことを自分で考えたことと錯覚し、誰かの言葉を自分の言葉と思い込むよりは、ずっと良いのです。それぞれの意見の欠点や誤りを補い、満点ではないにしても及第点を模索するには、一人でも多くの意見が必要です。議論とはどちらの意見が正しいか勝敗を争うだけのものではなく、互いの意見を互いに吟味することで、より良い意見を構築するためのものでもあると私は思います。
今回の「いわゆる従軍慰安婦問題」の最終解決」の日韓合意についてそれぞれがそれぞれの頭で考え、それぞれの言葉で意見を出し、それらの意見を読んでまた考え、再び意見を出すという地道な繰り返しをすることで、「いわゆる従軍慰安婦問題」の最終解決」の日韓合意のみに限らず、日本人の韓国に対するさまざまな意見が研ぎ澄まされていくだろうと私は強く期待しております。