日本には韓国を救う義務も責任も能力もない
私は寒がりなので、個人的には暖かい方が嬉しいのですが、それでも昨日までの暖かさ(と言うよりは「暑さ」と言った方が近いw)は異常に感じられました。このままじゃ今月中に桜が咲いちゃうんじゃないかとすら思いました。
さて、このところ韓国関連では大したニュースがありません。前回記事でちらっと触れた開城工業団地騒動も今のところはすぐさま有事に直結するような雰囲気はとりあえずありません。いつ何をやらかすかわからないのが北朝鮮という国ですから、楽観は禁物ですが。
とりあえずめぼしいニュースがないと言っても、韓国が平穏で安泰というわけでもありません。むしろ韓国は徐々に社会的な疲労が蓄積されつつある状態です。昨年末の慰安婦問題に関する最終的且つ不可逆的解決の日韓合意の直後、突然日韓スワップ協定の再開が取り沙汰されたのも、韓国の困窮ぶりを如実に示すものと言えるでしょう。
しかしその後ぱたりと日韓スワップ協定再開のネタが途絶したところを見ると、おそらく韓国にとってあまり芳しくない経過を辿っているのではないかと憶測します。
余談ですが日韓スワップ再開については、言うまでもなく私は反対の立場です。もし再開されるようなことになれば、当然に憤慨するでしょう。
慰安婦問題に関する最終的且つ不可逆的解決の日韓合意についても、無条件で全面的に賛同するわけではありませんが、既に決まってしまったものに四の五の四の五の言ってもしかたがないということもあり、また見方によっては有効利用出来そうな案件というのがありました。ですから、評価出来る点もあるとの見解を示しました。
しかしながら日韓スワップ協定の再開については、如何なる擁護も思い付きませんし、評価すべき点も考えられません。「百害あって一利なし」とは、まさに日本にとっての日韓スワップ協定のためにあるような諺です。
慰安婦問題に関する最終的且つ不可逆的解決合意に理解を示したことが病気を刺激することになったのか、今月頭に弊ブログのコメント欄で踊り狂っていた方が「結局安倍総理大臣がスワップ復活したり、韓国援助したりしても文句言わないんだろうなここは( ̄▽ ̄)」などと挑発しておりましたが、弊ブログにおいて日本政府の対韓方針に文句を言ったことは何度もあります。
ただ弊ブログが日本政府の方針についてどんな意見を述べようと、所詮それはごまめの歯軋りでしかないということも、どうかご理解いただきたいところです。日本政府が弊ブログの主張を参考にするとか、ましてや弊ブログの意見に従うなんてことは、多分ないんじゃないかと思いますw
さておき、韓国社会の困窮はずいぶん前から緩やかに、しかし着実に表面化しつつあります。
昨年の12月18日、ソウルで一人の学生が自殺しました。彼はソウル大学の学生でした。ソウル大学と言えば韓国ではトップの大学であり、韓国においてソウル大学生を輩出することは、一門の栄誉とすら考えられていると言っても過言ではありません。韓国の受験戦争の厳しさと激しさは韓国ウォッチャーなら誰でもご存知だと思いますが、ソウル大学生はその厳しく激しい受験戦争を勝ち抜き、頂点に立ったわけです。
もちろん、ソウル大学に入ったからと言って将来の安泰が約束されるほど韓国の現状は容易ではありません。ですが大学を卒業しなければ人に非ずぐらいの勢いの韓国です。大学に入ったとしても、ソウル大学以外の大学では、結構に厳しい将来が待っているのです。そういう意味では、ソウル大学生は韓国における「勝ち組」のはずです。その「勝ち組」の彼が、何故自殺したのでしょうか。
その自殺したソウル大学生はネット上に公開遺書を残していました。そこには、韓国の「スプーン階級論」を悲観する内容が記されていたといいます。
韓国では「スプーンの色に応じて人生の階級が決まる」という「スプーン階級論」が、若者の間で一時期流行っていたようです。西洋では「裕福な家庭に生まれた子」のことを「銀の匙をくわえて生まれてきた子」ということがあります。韓国も食事に匙を使うことが多いので、この表現を援用して、家庭の経済状況に応じて「金の匙」「銀の匙」「銅の匙」「土の匙」に分類し、「金の匙」以外の経済状況の家庭に生まれた時点で負け組とするのが「スプーン階級論」の概要と言って良いでしょう。
つまりそのソウル大学生は、韓国では一級のステイタスとなり得るソウル大学に入っても「スプーン階級」の下では決して幸福な人生を送ることは出来ないことを悟ってしまい、人生を悲観して自殺に至ったということなのでしょう。
これは韓国の若者に大きな共感を呼んだようで、(現在では韓国の常としてすっかり忘れ去られているようですが)事件の直後はしばらく大きく取り上げられていました。
また「ヘル朝鮮」という言葉もすっかり定着しており、韓国が嫌いだと公言する韓国の若者も増えつつあるようです。
そんな韓国の若者たちですから、「ヘル朝鮮」韓国を自分たちの力で改善していこうと考えることは全く無く、あらゆる希望を放棄して投げやりに生きていくか、さもなければ韓国を脱出して居心地の良い外国で安穏に暮らすかに人生の活路を模索しているようです。
かつての朝鮮では、海外に出るということはそれ自体が極めて困難でした。ですからその頃の朝鮮人は、自分の環境がどうにもならないと知れば全てを放棄して投げやりに生き、死んでいきました。しかし現在は海外に出ることが容易になり、多くの韓国人が海外脱出を果たしております。
その結果、韓国内では「スプーンの色」のために能力を発揮出来なかった韓国人が、「スプーンの色」の足枷のない外国でその能力を見事に開花させ、自分も幸せになり、自分が住む外国の社会にも貢献するようになったならメデタシメデタシなのですが、なかなかそう上手くはいかないのが韓国人です。
大抵の場合、韓国人は訪れた外国で自分たちの流儀を行使しようとし、現地で衝突と軋轢を起こします。彼らは、彼ら自身が嫌った韓国を脱出した先で再構築しようとするのです。結果として、彼ら自身も幸せになり切れず、彼らが移り住んだ国の人々にも、韓国と韓国人に対する嫌悪感を植え付けることになります。
韓国人が韓国に留まるのも確かに地獄ですが、首尾良く脱出したとしても、彼らが韓国人である限り彼ら自身が、自分たちのいる場所に小さな韓国を生み出すわけです。それが顕著なのは言うまでもなく韓国からほど近く、歴史的にも韓国人の流入が多い日本です。
何故か日本においては、多文化共生とか難民受け入れというとその対象は韓国人になることがよくあるわけですが、彼らの受け入れは日本の国益を損なうだけでなく(ホントはそれだけで彼らを拒否するに十分過ぎる理由になるのですが)、彼らにとっても別の不幸を生み出す元になります。
韓国人の不幸をどうにかするには、韓国人自身がどうにかするしかありません。日本が韓国に援助をすることは可能ですが、韓国はその援助を食い潰し、果てしないおかわりを要求するだけなのは、日韓の近代史を振り返れば明白です。日本が国益を損なってまで、韓国人を幸せにしてやる努力を行なう義務はありませんし、たとえ行なってもその努力は無駄になるだけなのです。
不幸な相手に手を差し伸べて、共に不幸になってやることが相手を救うことにはなりません。日本には韓国を救う義務も責任も能力もないことを、私たち日本人は徹底的に知るべきだと考える次第です。
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