日本の宿痾
ぱっとしないならしないなりに、韓国経済破綻ネタがあるじゃんと思う方もいらっしゃるでしょう。しかし韓国経済に関しては最早破綻するかしないかというレベルではなく、いつ破綻を白状するかというレベルです。ある意味、「お前は既に死んでいる」状態なのですが、韓国がそれを認めていないだけのことだと私は個人的に思っております。
それほど韓国経済危機ネタは日常的に出まくっておりますので、韓国が実際に破綻を白状するか、韓国がどんなに否定しても誰の目にも明らかなぐらいはっきりと破綻するまでは、目新しいネタにはなりません。もっとも他人様のブログの心配してる場合じゃなく、私も毎回更新日が来る度に頭を抱えております。
そんなこんなで、ネタを探して韓国言論紙を渉猟して回っていると、「この新聞社」とか「この記事」とか「このコラム」とか「この社説」と言うのではなく、韓国言論紙の主張の方向性や傾向というのが、薄っすら見えてきます。
韓国言論紙の主張というのは、概ね韓国人の「表向きの」意見と考えて間違いありません。特に韓国言論紙の日本語版は、韓国人的に「日本人に読ませたいこと」をピックアップして翻訳したものです。即ち、韓国言論紙の日本語版における彼らの主張とは、日本人に見せて恥ずかしくない主張や、日本人に知らしめ、共感や同情を得たい主張なのです。
ですので、そこに韓国人の本音を赤裸々に書くということはあまりありません。しかしながら、本人は目一杯取り繕っているつもりでも、黄色いアンヨが丸見えというのは韓国人にはよくあることです。
こちらの記事では尊大で傲慢かと思うと、あちらの記事ではしおらしくなったりする韓国言論紙の記事を見ていると、彼らのダメさと言うか、限界が見えてきます。
何よりダメなのは、与えられた条件で最善を尽くすという意識の無さでしょう。上手く行ってる時はターボが掛かっているのかと思うほど荒い鼻息を見せますが、一旦躓くと、途端に「出来ない言い訳」を並べ立てるのです。
彼らの主張を見ていると、何もかもが自分に都合の良いように展開されるのでなければ、それは不当だと思っているのが透けて見えてきます。ですから、彼らの望むとおりに条件を整えてやっても、彼らがそのことに感謝することはありません。彼らにとって「自分に都合の良い条件が揃う」というのは、当然のことだからです。
彼らに都合の良い条件を整えてやった結果、彼らが何事かを成功させたとしても、彼らはそれを100%自分の力で達成したことだと確信し、そう吹聴しまくります。
しかしいつも必ずどこかの誰かが韓国に都合の良いように条件を整えてやることが出来るとは限りませんし、一度条件を整えてやったとしても、それを未来永劫維持することは出来ません。
結果、彼らは成功することがあっても、それを維持することが出来ません。現在韓国経済が危機的状況なのも、日本が整えてやった「韓国にとって都合の良い条件」がなくなった結果と言えるのではないでしょうか。彼らが年中行事のように国を滅ぼしてきたのも、彼らのそういう性根のためではないでしょうか。
社会人を何年もやっていれば、自助努力という意識もなく、支援に対する感謝もなく、上手く行けば自分の手柄、失敗すれば誰かのせいにする人と遭遇することが一度くらいはあるものです。なんだかんだでそういう人が良い目を見ることも、不条理ですが結構あります。しかしあざなえる縄の如しなのは、禍福だけではありません。ズルやインチキも、短期的には通用することがありますが、長い目で見れば必ずどこかで帳尻を合わせなければならなくなるものです。
韓国も同じです。韓国の現状は、何も韓国に不利な条件が揃ったからではありません。韓国がこれまで溜めに溜め込んだツケが回ってきただけのことなのです。
問題は、韓国が破綻すると色々ややこしいために、また「韓国に都合の良い条件」を整えてやる国が出てくる可能性が小さくないことです。もちろん日本も、「「韓国に都合の良い条件」を整えてやる国」の候補に入っているでしょう。
もし韓国が経済破綻すれば、まず確実に日本政府は何らかの支援を行なうだろうと私は予測しております。と言うか、しないという予測が出来ません。日本国内で「絶対に韓国には支援しない」というコンセンサスが成立しない限り、国際輿論は日本に支援を期待するでしょうし、日本政府はそれに応えざるを得ないでしょう。
しかし日本が支援すれば、韓国はまた息を吹き返し、また元気に日本の足を引っ張るでしょう。まことに、存在自体が迷惑な国です。日本にとって韓国とは、特亞と言うか宿痾だなあと嘆息するばかりです。
韓国で不便を感じない人
「セウォル号教訓忘れた韓国」と題するコラムは、【「韓国で生活しながら不便なことはないですか?」という質問をしばしば受ける。私の答は常にこうだ。「ありません。話をしてみると受け入れてくれる融通性があって良いです」】という文章から始まります。
続く内容は、韓国社会に蔓延する規則無視の風潮を嘆くものですが、まあ、これは正直どうでも良いのです。韓国人にとって規則を破ったり無視したりするのは、自分が他者より優位にあることを示すものですから、当然の行為です。
文中に【昨年11月、外信記者クラブで開かれた朴仁鎔(パク・インヨン)国民安全処長官の記者会見で私は「なぜセウォル号事故を体験したのに社会の安全意識が相変わらずなのか」と尋ねた。すると朴長官は「社会の意識が変わるには60年かかる」と答えた。」という記述も見られますが、韓国人が「10年後には日本を追い越す」と言い続けていることを考えると、【60年】という時間は、それこそ弥勒の降臨までの時間に匹敵する長さでしょう。
即ち韓国人は昔も今もこれからも変わらないという従来からの弊ブログでの主張を韓国人自ら裏付けるもので、今更それについて言及することは特にありません。
私が思ったことは、冒頭の文章からの連想です。このコラムの筆者は「韓国で不便なこと」を問われて、「ありません。話をしてみると受け入れてくれる融通性があって良いです」と答えています。
ハングルが読めて朝鮮語が話せて、韓国人のマインドに馴染むことが出来る人には、韓国は確かに不便なことがない国かもしれません。私個人の経験から言わせていただければ、ハングルはどうにか読めますが朝鮮語は聞くのも話すのもカタコト以前のレベルですし、韓国人のマインドにはかなりイライラさせられる方なので、韓国は不便なことだらけでした。
個人的に「韓国で不便なこと」と問われれば、真っ先に思いつくのが文字です。韓国は何もかもがとにかくハングルばかりで、外来語でさえハングルで表記されているのです。一文字に3秒から5秒ぐらい掛かりながら解読したハングルが、「カラオケ」とか「キャバレー」だったということは、全く珍しくありませんでした(私が初めて訪韓した1990年頃は、韓国でも「カラオケ」という言葉が一般的でしたが、後に「ウリナラで日本語をそのまま使うのは癇癪裂ける!」となったらしく、朝鮮語で「歌部屋」という意味の「ノレバン」という言葉が一般的になっているようです)。
駅の表示や観光案内板などには日本語や英語、中国語などの併記もありますが、それ以外はどこを向いてもハングルばかりです。しかも日本語や英語、中国語が併記されていても、必ずしもそれらが正確とは限らないのです。観光マップやホテルの宿泊者向けの日本語版インフォメーションなどにも間違いがてんこ盛りで、最初の内は面白がって間違い探しと言うか校正したりしてましたが、あまりにも多くてバカバカしくなった記憶があります。
確かに、ハングルは習得が容易な文字です。並の知能があれば、3時間も集中して学べば基礎はマスター出来ます。それを三日も続ければ、たどたどしくとも読み書きは出来るようになるでしょう。
ではハングルが読めて書ければ、朝鮮語がわかるようになるのかと言えば答えは否です。巷に溢れる看板も、食堂のメニューも、もちろん新聞も、読めるが意味は全くわからないという状態になるだけです。ハングルを読むことは出来るが意味はわからないという状態が続くと、気分が悪くなってきます。読めるのに意味がわからないという状態に脳がストレスを感じるのでしょう。俗に言う「ハングル酔い」というやつです。
文字以外なら、やはり韓国人そのものがかなりストレッサーです。韓国へ行けば、実は韓国人は概ね親切です。日本人と知ってやおら罵倒を始める韓国人というのは、いないわけではないと思いますが、現実で遭遇することは極めて稀でしょう。韓国人は自分を良く見せたい欲求が強い上に、実は多くの韓国人が日本人と話をしたい、あわよくば親しくなりたいと思っているからです。
問題はそのアプローチの仕方です。日本人と韓国人では、パーソナルスペースの感覚が全く異なります。日本人の感覚で言えば、彼らのアプローチは突撃と変わりません。不意に至近距離に迫ってきたり、あるいは少し離れているところから大声で呼びつけたりするのです。離れたところから知らない韓国人に突然大声で呼ばれた場合、自分が呼ばれているとは思わずにスルーしていると、「このチョッパリ!ウリを無視するニカ!」と火病り出す危険性がありますし、そうでなくてもこちらが気付くまで大声で呼ばわり続けるので、正直かなり怖いです。
また悪意を持って、即ち日本人と見れば「騙そう」「カモろう」と思って近寄ってくる韓国人も少なくありません。無邪気な好意からであっても、悪意と邪気を持っていても、日本人感覚からすると無遠慮に迫ってくる見知らぬ韓国人はかなり強いストレスになります。
かと思えば、まるで木っ端か野良犬のような扱いをされることもあります。何の用もない韓国人にそういう扱いをされても別に構わないのですが、用事がある場合、即ち相手が警察官や駅員、ホテルのフロントマン、ショップの店員などだった場合には大変困ります。この場合も、相手に咬み付くぐらいの気迫を込めてギャーギャー言えば態度を変えることもあるようですが、逆ギレが怖いのも事実です。
また韓国のサービスは大抵の場合、韓国人的にパペクトなサービスですので、日本人感覚ではサービスの詰めが甘いとイライラさせられることが非常によくあります。もちろん、それに対していちいち文句を言うことも出来るのですが、多分そんなことをしていたら一日で精神的に擦り切れてしまうでしょう。
さて、当該コラムの筆者が「韓国の便利さ」と考える「話をしてみると受け入れてくれる融通性」というのは何でしょうか。これはふたつの意味に受け取れると思います。ひとつは、「韓国人は話をするまでは排他的に感じることもあるが、一度話をすればすんなり受け入れて打ち解けてくれる」という意味です。もうひとつは「韓国では規則上ダメだと言われるようなことでも、話をしてみると融通を効かせてくれる」という意味です。
私は後者の意味だと理解しました。実際、韓国ではそういうことが極めて多いからです。もしそうだとすれば、それは当該コラムが嘆いている「韓国人の規則無視」のひとつのパターンとも言えます。
「韓国人の規則無視」による恩恵に満足していながら、「韓国人の交通規則無視」に強く憤るという自家撞着にこのコラムの筆者が気付いていないということは、きっとこの人は「ハングルが読めて朝鮮語が話せて、韓国人のマインドに馴染むことが出来る人」なのでしょう。
なるほど当該コラムの筆者が韓国で不便を感じないのもむべなるかなです。しかし、日本人としてこうはなりたくないものだなとしみじみ思った次第です。
元気でも弱ってても鬱陶しい韓国
もっとも私は、「桜の名所でゴザを広げて宴会」という花見をしたことはほとんどありません。いや、一度もないかも。ドライブやツーリング、散歩の途中などに桜の名所を遠目に眺めることの方が断然多いです。そう言えば大阪生まれの大阪育ちですが、造幣局の通り抜けも一回も行ったことがありません。
桜は近くで見るより、遠くから眺める方が綺麗だと思います。特に夜間、山あいを走っている時などに見かける、ただ一本だけ、誰に見せるでもなく咲いている、真っ暗な山の中でそこだけほのかに明かりがともっているように見える山桜なんかが好きです。
さてそんなこんなで、このところホントに影が薄い韓国。経済は最早いつ破綻を表明するかという状態に近いのではないかと思うほど危機的状態にあるようですし、更に北朝鮮がこの頃対韓挑発を強めております。
昨年末の慰安婦問題に関する日韓合意文書化の期限も近づいておりますが、韓国内では合意成立直後から轟々の非難が湧いており、果たして本当に文書化が実現するのか疑問です。
ですが経済危機に瀕している現在の韓国としては、どんなに腹立たしくても日本の意を損ねるわけにはいきません。これまでであれば、どんな失礼無礼を働いても、日本は決して韓国への援助を止めませんでした。通貨スワップにしても、韓国内向けには「ウリナラは日本との通貨スワップなど無くてもケンチャナヨ」と嘯きながら、日本と交渉する時は切々と情に訴えていたと思われ、日本もまたそれにホダされ続けてきました。
今までなら阿吽の呼吸とでも言いましょうか、韓国側が虚勢を張っても、日本側が韓国のメンツを潰さぬよう配慮や譲歩をしてバランスを取っていたのでしょう。しかし安倍政権になってからというもの、そういう茶番が通じなくなったのか、日本は韓国内向けのアナウンスを額面そのままで受け取るようになっております。
対日本と対韓国内向けとで、まさに裏表と言いますか、二面外交的な対応を続けてきた韓国ですが、それが通じなくなってきた昨今、本当に今の韓国は元気がありません。
韓国内向けに虚勢を張れば日本から見捨てられ、日本に媚びを売って援助を乞えば韓国内からの突き上げが恐ろしく、アメリカには重なる不義理で不興を買っており、中国とは親密な関係を築いたつもりが思っていたほど相手にされず、オマケに先に述べた通り、北朝鮮の挑発まで加わって、まさに絵に描いたような四面楚歌状態の韓国です。
周辺国の援助が期待出来ないなら出来ないで、自力で頑張る決断をするという選択肢もあるのですが、韓国人の辞書に「自助努力」という四字熟語は載っていないのか、韓国言論にその手の主張は見当たりません。
見出しだけ読めば自力で何とかしようという主張のように見える論説も、その内容を読むと「どこかの国からの助力を得るために行なう努力」を「自力」と考えているようなのです。
話は少々飛びますが、韓国人の論文には盗作が大変に多いと言われます。あちらの論文から抜き書きし、こちらの論文を切り取りといった感じなのだそうです。
しかしそれを指摘しても、韓国人は盗作ではないと頑なに言い張るのです。韓国人的には、その論文を見つけたのも、自分が述べたい内容をその論文の中から探し出したのも「自分」であり、それを論文として再構築したのも「自分」であるゆえに、他人の論文からの抜き書きや切り取りであっても、それは盗作などではなく、立派な自分の論文なのだとのこと。
韓国人のこういう考え方を見ると、韓国人にとって「自力」とは、「誰かの援助を得るための努力」のことなのかもしれません。
彼らは「ウリナラは自力で発展した」と言うことがあります。それは彼らが、日本やその他の国からの少なからぬ支援があったことを知らないからだと思ってしまいがちです。実際知らないことも多いので、それもあながち間違いとは言えないのですが、仮に日本やその他の国からの支援があった事実を彼らに教えても、彼らはおそらく考えを変えないのではないかと思います。
彼らは、日本やその他の国が韓国に支援をするように仕向けたのは韓国自身であって、それは韓国人の努力の結果であるゆえに、韓国が発展したのは韓国の自力であると考える可能性が大きいのです。
日本人が聞けば負け惜しみとこじつけがビビンバになったような言いぐさですが、韓国人的には何ら不思議も違和感もない考えなのかもしれません。
韓国人のこういう考えは、「良い結果は全てウリの手柄」「悪い結果は全て他人のせい」という考えに容易に流れていきます。彼らと付き合っていると、最初の内は暑苦しいほど人懐っこいしお節介なぐらい世話焼きなので、少々辟易しながらも根は良い奴なんだろうと思うものですが、付き合いが長くなってくると、何かちょっとしたことでも、いつも良いことは韓国人の手柄で、悪いことはこちらのせいになってしまうという経験をされた方は、結構いらっしゃるのではないでしょうか。
韓国人のこの考え方は言うまでもなく国家間の関係においても遺憾なく発揮されており、殊に最初から「絶対悪」が前提とされている日本が相手の場合は、それが極めて甚だしくなります。韓国人がモラルハラスメントの加害者と極めて似た思考をするのも、こういう考え方をナチュラルにするためかもしれません。
現在苦境にある韓国ですが、この状況を「自力」で打破するために、彼らは必ず他国に援助を求めるでしょう。その相手国として、日本が選ばれる可能性は、残念ながら極めて高いと思います。何故なら、彼らは日本相手であればどんな無理難題を言っても良いと確信しており、日本はそれに唯々諾々と従うのが当然だと思っているからです。更に長年、実際に日本は韓国が期待する通りにしてきたという実績があります。
しかしどれほど彼らを助けてやっても、彼らは決して日本に感謝することはないばかりか、逆にそれを恨みに思うというのも、過去に積み上げられた実績から見て取れます。
また、日本が韓国を助けなければ、韓国は国を保つことが出来なくなるかもしれません。それが、日本にとっては不安の種でもあります。棲息地を失った韓国人が雲霞の如く日本に押し寄せてくるという懸念は、決して杞憂ではありません。
この懸念が、いわば日本に対する脅迫材料として作用してきたという面はあるでしょう。まことに存在そのものが迷惑な国です。
これに対処するには、日本人側の覚悟が絶対に必要です。即ち、例えどれほど恨まれ続けるとしても、韓国を助けるのか、そんな不毛な援助をするぐらいなら、韓国が崩壊した場合の対処を今から準備しておくかです。
楽なのは前者です。今までそれでずっとやってきたのですから。しかしこれは日本の将来にいつまでも禍根を残すことでもあります。
後者を選べば、大変な難儀をするおそれは小さくありません。ですがそれを乗り越えれば、日本の将来、即ち私たちの子孫の憂いをひとつでも減らせることになります。
韓国が危機的状況にある現在、日本は今後の韓国の処し方をあらかじめ考え、あるいは議論する必要があるのではないかと愚考する次第です。
三日に一度の韓国忘却対策
そもそも韓国人は、花が咲けばそれを見て浮かれることは確かにありますが、その花が何の花かとか、その花に寄せて何かを思うということはまずありません。韓国人に何の花が好きかと聞けば、10人に9人ぐらいまでが「バラ」と答えますが、それは彼らにとって「花」と言われてイメージするのが「バラ」であるというだけの話で、彼らが「バラ」に特別な思い入れを持っているということではないのです。
ソメイヨシノにしても、日本人が愛で、日本中に植えたために韓国人が欲するようになっただけで、彼らにソメイヨシノと、それ以外の桜の区別は付きません。韓国にも春を告げる花はあるのですから、それを愛でれば良いのにと思うのですが、どうしても彼らは他人の持ってる玩具が欲しいようです。
さて、そんなこんなで最近すっかり存在感のない韓国です。日本における嫌韓気運も、何となくですがじわりと下火になってきたように感じます。
ですが日本の嫌韓気運が下火になったからと言って、日本人の韓国に対する嫌悪感が薄れたわけではないでしょう。単純に「韓国に飽きた」だけのことだと思います。
李明博前韓国大統領のお陰で盛り上がった日本の嫌韓気運ですが、ひと通りネタが出尽くすと、同じパターンの繰り返しなわけです。最初の内は驚くようなことでも、毎度毎度同じパターンでは飽きるなという方が酷というものでしょう。
しかも韓国ネタというのは、何故かどうしても嫌悪感を伴うものが少なくありません。別に反日ネタというわけでもないのに、何故か常にそこはかとない不快感を帯びているのが、韓国ネタです。
それは、韓国をあまり知らなかった時にはそれほど気にならなかったことかもしれません。何となく感じてはいても、韓国を知らなければ、その不快感はもしかすると自分が持つ韓国に対する偏見から来るものではないかと無意識に思って、自ら意図的に不快感を認識しないようにすることもあるでしょう。
韓国を知れば、そういうそこはかとない不快感に対しても、合理的な理由があることに気付いてしまいます。最初の内は、それは発見ですから、驚きや不快と同時に、面白いとも思うでしょう。「次はきっとこうなる」と予想したことがその通りになれば、最初の内は自分の予想が当たったことに一種の快感を覚えるものです。
しかし毎度毎度「次はこうなる」と予想し、それが当たるようになると、その快感は続きません。それが競馬や宝くじのように、当たれば嬉しいことであっても、毎度毎度予想通りになれば、「もう当たるのはわかりきってるんだから、いちいち予想させんなよ」と思うようになるでしょう。
ましてや韓国ネタは、当たれば不快になることの方が多いのです。日本の嫌韓気運の高まりが、2012年8月の李明博前韓国大統領の竹島上陸からとすれば、既に3年半余り。いつも同じパターンの韓国に飽きが来ない方が不思議というものでしょう。
ですがこれまで何度も申し上げてきた通り、実はここからが正念場です。日本人はこれまで韓国に飽きると、すぐに韓国を忘れてしまいました。あるいは、忘れてはいないけど見る気もしなくなって、韓国の情報から離れていきます。
そうすると困ったことに大変に清々しいのです。いや、清々しいのは喜ぶべきことです。ただ、この清々しさが、韓国に対する積極的無関心に拍車をかけてしまうのです。
韓国に無関心になった人は、やがて韓国を忘れ去ります。現実問題として、韓国など意識しなくても日常生活には何の支障もありませんし、覚えていれば不快ですが、忘れてしまえば爽快なのです。
かつてネットがなかった時代の日本では、そうやって韓国を何度も忘却しては新発見(※再発見に非ず)してきました。しかし今ではネットがありますから、「新発見」してからでもネットでちょちょいと検索すれば、それが決して「新」ではない発見であることもすぐにわかります。
それでも、韓国を忘れてはいけないと私は自分自身に言い聞かせております。何故なら、韓国人を相手にする時は初動がかなり重要だからです。
コメントでも「韓国人は何故あれほどまでにしつこいのか」というご質問を頂戴しておりますが、彼らは自分の欲求を通そうとする時は、何度断られてもめげません。
特に最初にやんわりとした拒絶をすると、「脈あり」と判断して本当に執拗に要求してきます。彼らが無茶な要求をしてきた時は、それにカウンターを食らわすぐらいのタイミングで拒絶しなければ後が大変になるのですが、韓国を忘れてしまうと、そういうことまで忘れてしまう恐れが極めて大きいのです。
韓国に対する警戒心を常に維持しておくには、韓国を知り且つ記憶しておかねばなりません。「韓国にビックリしてからネットで検索して納得、それから対策」では間にも拍子にも合わないのです。
だからと言って自力で常に韓国のことばかりを念頭に置いておくのも、精神的な負担が大き過ぎます。
そういう意味で、三日に一度くらいの間隔でまったり弊ブログを覗き見るのが、一番お手軽な韓国忘却対策かなと、弊ブログのアピールを兼ねて申し上げておきたいと思います。
日本における朝鮮人の対日工作活動
韓国人と言うか朝鮮人全般が、基本的に全員対日工作員であるということは、過去にも何度か述べてきました。それは、韓国や北朝鮮における教育に対日工作教育があるからです。
もちろん、具体的な「対日工作」とか「反日」という教科があるわけではありません。しかし韓国でも北朝鮮でも、学校はもちろんのこと家庭においても、「日本は絶対悪」という信仰の下に、折に触れ日本が如何にウリとウリナラに対して悪辣であったかと、現在もそうであることを子弟に刷り込むと同時に、自分自身にも言い聞かせています。
では日本にいる朝鮮人はどうでしょうか。朝鮮学校に通う朝鮮人はもちろんガッツリ対日工作教育を施されていますが、日本の公立学校に通っている場合は、基本的に普通の日本人と同じ教育を受けます。
ならば日本の公立学校に通っている朝鮮人は日本人と同じ思想なのかと言えば、必ずしもそうとは言えません。
何故なら朝鮮人の子供が通う学校に対して、朝鮮人の親が「多文化共生」を口実に、朝鮮の民族教育を強要することが非常にしばしばあるからです。そういう学校では、韓国式あるいは北朝鮮的思想教育、即ち対日工作教育が行なわれているおそれが少なくありません。そういう学校では、日本人の方が朝鮮人の思想を持たされてしまいます。
対日工作教育とは具体的にどういうものかという疑問を抱く方も多いと思います。
言うまでもなく、韓国及び北朝鮮同様、「対日工作」とか「反日」という科目が設けられているということは、調べたわけじゃありませんが絶対ないと思います。
まず考えられるのは、歴史教育でしょう。過去、日本が朝鮮半島においてどれほど残虐で悪辣であったかということは、本国でも歴史教育によって叩き込みます。
日本では、歴史と言えば出来事と人物、年号を覚えることといった感があり、可能な限り感情を排して教えられますが、朝鮮半島における歴史教育とは、情緒たっぷりのファンタジーです(言い切ったったw)。
それを日本の学校に持ち込んで、思想的に白紙に近い状態の日本の子供たちに教えればどうなるかは、想像に難くありません。
仮にある学校に朝鮮人の子供が一人しかいなくても、その子の親が学校に対して「ウリの子供には民族の誇りを持たせたいニダ」と強く申し出れば、その学校では韓国や北朝鮮に強烈に配慮した歴史教育が行なわれる可能性が小さくありません。そうなれば、その学校に通う日本人の子供たち全員に、そういう教育が行なわれることになるわけです。
その親にそういう意図があろうとなかろうと(あると思っていますが)、これは立派な韓国・北朝鮮の対日工作となり得るでしょう。
そういう教育を受けた日本人の子供の全員が、将来韓国や北朝鮮に絶対的な親近感を持つようになるということは、まずないでしょう。しかし全員が持つ必要もありません。その中の半分、いや三分の一でも十分です。何なら、十分の一でも良いでしょう。
とにかく、思想的に白紙の日本人の子供に韓国・北朝鮮の思想を刷り込んでおけば、将来韓国や北朝鮮に協力的な日本人に育ってくれる期待が大いに持てます。
つまりそういう子供たちが大人になった時、韓国や北朝鮮からの工作員の協力者や隠れ蓑、あるいは背乗りの対象としての人材確保が容易になるわけです。
日本では、何故か日本人に対する日本人としての民族教育に強く反対する人が珍しくない割に、外国の民族教育にはガードが緩いどころか、歓迎する姿勢さえ見えます。そのため、生まれながらの日本人なのに日本人としての民族的自覚が乏しく、当然日本人としての誇りも持たないのが、日本人の標準になっているのが現状です。
韓国や北朝鮮の工作は、日本人のそういうところにつけ込んできます。
「多文化共生」という聞こえの良い言葉を唱えるならば、まずは自分自身が自分自身の属する民族と文化と歴史を徹底的に学び、それらに誇りを持つことから始めるべきです。しかし日本では、日本人が自身の民族も文化も、歴史さえもよく知らないまま、他民族である朝鮮の文化や歴史を教え込まれるのです。
「対日工作」などと言うと、漠然とスパイ映画のような活動をイメージしますが、実際の対日工作というのはもっと地味で、しかも接しても俄にそれが工作とはわからないようなものだと私は考えています。
更に「工作員」自身が動くのではなく、工作員の協力者を育成して、それらを矢面に立たせれば、工作活動はぐんと容易になります。日本を否定する日本人が増えれば、「日本絶対悪」信仰の韓国・北朝鮮に共鳴するようになり、日本における対日工作活動は捗りまくるでしょう。
それを阻止するには、と続けたいところですが、現実はそんな段階ではないと私は考えています。
阻止する以前に、まずは日本における朝鮮人の工作活動が実在すること、しかもそれが日本の学校教育にまで入り込んでいることを、日本人自身がきちんと知る必要があると愚考する次第です。
韓国人の反日は、彼らの自民族中心主義が原因か
確かに韓国人には濃厚な「自民族中心主義」があります。彼らの場合「自民族中心主義」と言うよりは「自己中心主義」と言う方がより正確だとは思いますが。
ですので、彼らの反日に「自己中心主義」が強く作用しているであろうことは、私も同意です。しかしながら彼らの反日が彼らの「自己中心主義」のみに立脚するものであるという解釈については、若干誤解を招くのではないかと思わなくもありません。
先に述べたとおり、反日とは彼らの「自己中心主義」によるものであるという理解が一面の真実ではあることは否定しません。それは特に韓国ウォッチや嫌韓を始めたばかりの初心者にとって、理解しやすい解釈と言えるでしょう。
しかし長く韓国ウォッチを続ければ、彼らの反日には「自己中心主義」だけでは説明が付かない部分があることに気付くようになるでしょう。
もし彼らの反日が単なる「自己中心主義」に基づくものであれば、日本以外の他国に対しても同じ意識を持ち、同じ対応をするはずです。
日本にも「自民族中心主義」は存在しますが、自分自身のことを客観的に解釈するのはなかなか難しいので、中国の「自民族中心主義」を考えてみれば、割とわかりやすいのではないでしょうか。
中国は、古代からかなりの長期間、世界の最先進国でした。彼らの「自民族中心主義」は「中華思想」として広く知られているとおりです。
この「中華思想」において、中華に属さぬ諸外国は「夷狄」とされます。更に中華の威光が及ばぬ地域に対しては「化外」などと呼びましたが、いずれにしても全て「自民族以外」に対しては、等しく見下げる対象であって、その中のどこかの国に特別な感情を抱くということはほとんどなかったように思います(但し、私は中国に関しては詳しくないので、この辺りは間違った理解である可能性もお含みおきください<(_"_)>)。
ところが韓国人の反日というのは、以前から何度も申し上げております通り、強い自家撞着と葛藤を内包しております。これは日本以外の他国に対する彼らが持つ意識とは大きく異なります。
ご質問者は「韓国人は中国や米国などに対しても、日本に対するそれに負けず劣らず執着しているように思える」と仰っておられます。彼らにアメリカや中国に執着する部分があることは私も否定いたしませんが、日本に対する「執着」は、アメリカや中国に対するそれとは根本的に質が違うと私は考えております。
アメリカや中国に対する彼らの執着は、相手が絶対的な強者であり、且つ明確な「他者」であることを前提にした執着と言えますが、日本に対する彼らの執着は違います。またアメリカや中国に対する彼らの認識は、かなり漠然としたものですが、日本に対しては、その正誤や整合性はさておき、彼らの認識は極めて強いものがあります。
日本は、彼らにとっては強者でありながら弱者でもあります。また卑しみ蔑むべき相手であると同時に、羨み憧れる対象でもあります。「ナム(他者)」でありながら「ナム」であることが許せないし、「ウリ(自分自身)」とは認めないが、日本側は「ウリ」になることを望んでいるはずと思っているのです。
こういう感情を、韓国人は日本以外の国には抱いていません。厳密に言えば、北朝鮮に対する感情が、比較的それに近いかもしれないとは思いますがw そう言えば北朝鮮は、日本に対して韓国ほど混乱した感情を抱いてはいないように感じます。それはやはり、日本との濃厚な接触や交流が韓国ほどなかったからでしょう。
ですので、彼らの反日に「自己中心主義」が強く作用していることには同意しますが、それ以外の日本に対してのみ抱く彼らの感情が、韓国の対日感情を複雑怪奇なものにしていると私は考えております。
最後に、「韓国人が黒人や東南アジア人に対して根拠のない差別感情を抱いていることは有名ですが、白人に対してもそれと同じような(根拠のない)差別感情は抱いているのでしょうか」というご質問も戴いておりますので、これも簡単にお答えしておこうかと思います。
これはどっちつかずの回答で申し訳ないのですが、そうだともそうでないとも言えます。
一般論で申し上げれば、彼らは「ウリ」以外の相手に対しては基本的に根拠の無い不当な差別感情を抱きます。ですので、白人に対しても、彼らが不当な差別感情を持つことは十分にあり得ます。ただ、彼らが不当な差別感情を抱く相手というのは、自分よりも下位劣位にあると考える相手に対してであって、自分よりも上位優位にあると考える「ウリ以外」の相手に対しては、媚びへつらうことがよくあります。そうすることで、相手の「ウリ」になろうとするのです。
これは韓国人同士の間でも盛んに行なわれていることで、他民族相手に限ってのみ行なわれるわけではありません。
黒人や東南アジア人は、韓国人から見て「劣っている」と考えられる外見ですので根拠なき不当な差別の対象になりやすいのですが、白人に対しても、例えば背が低かったりすると韓国人は侮蔑的な対応を自然にすることがあるようです。
ある民族を理解しようとする場合、一般的には文化人類学的なアプローチをするものですが、韓国人に関しては一般的な文化人類学的解釈だけでは説明がつかない場合が珍しくありません。
一般的な文化人類学的アプローチが全く通用しないということもありませんので、初学者の間はそういう手法で大づかみに理解するのもひとつの方法ですし、その方法が取っ付き易いと思います。ただしその理解で進めていけは、やがて誤差が大きくなっていくことに気付くでしょう。
まあ、いきなり韓国人の複雑にもつれ絡んだ意識を理解しようと飛びつけば、下手をするとそれに巻き取られることもありますので、若干遠回りにはなっても、準備体操代わりに一般的な文化人類学的アプローチで大づかみに解釈するという方法が無難だとは思います。
韓国人は極めるということがない
もちろん「学ぶ」とは「真似ぶ」が語源と言われるように、最初はお手本を完璧にトレースすることが「学ぶ」ことです。空手や柔道、あるいは生け花や茶道などでも「型(形)」と呼ばれる「確立されたお手本」があり、初心者はこれを覚えることから始めると聞きます。
ですから、「型(形)」から入ることが悪いわけではありません。問題は、そこから先です。
「型(形)」で到達出来るレベルには、どうしても限界があります。何故なら人は体型も身体能力も思考もひとりひとり違いますし、状況もその時その場所で変わります。「型(形)」は、どんな人でもどんな状況でもいつでもどんな場所でも、だいたいこれぐらい出来ていればなんとかなる、という程度のものであって、そこから先を目指すのであれば、習得した「型(形)」に更に自分なりの創意工夫を加えることが必要になります。
即ち、何につけ何かを極めるには「型(形)」を覚えてからがスタートと言えるでしょう。しかし韓国人は、「型(形)」を覚えてしまうだけで終わることが多いのです。
それでも「型(形)」を完璧に覚えるのであれば、まだ良いでしょう。たとえ「型(形)」でも、それを極めれば独創性はなくとも、せめてその「型(形)」を正確に次に伝えることが出来ます。
ですが韓国人は、8割でパペクトです。余談ですが「パペクト」とは「perfect」の朝鮮訛りです。が、韓国人はこの発音でパペクトと思っていますw
余談はさておき、8割パペクトの彼らは、「型(形)」の習得すら8割で終わってしまうことが多いのです。
日本文化は模倣文化だと韓国人は揶揄します。確かに、日本の文化には模倣から入ったものが少なくありません。しかし同時に、日本の場合模倣で終わるということがありません。
日本人には昔からオタク気質の人が多いのか、学んだこと真似たことを完璧にするだけでは飽き足らず、そこから更に先へ進もうとする人が少なからずいました。また日本に伝わった文化をそのまま日本で再現しようとしても、様々な条件で出来なかったものもあるでしょう。そこで「出来ない」と投げ出すのではなく、与えられた条件の中でどうにかして完成させようと試行錯誤する内に、オリジナルを超えてしまうことが、日本ではちょくちょくあります。
現在日本文化とされているものの多くが元となるお手本文化の模倣から始まったものだとしても、日本人がそれを極めることで独自の文化として昇華させたのは事実です。
対する朝鮮文化、あるいは韓国文化でも良いのですが、これらにも完全にオリジナルの文化というものはほとんどありません。
そもそも朝鮮は歴史的に事実上の中国の一地方と言って良いほど、中国の文化に傾倒あるいは依存してきました。彼らが誇るハングルでさえ、いくつかの点で漢字の強い影響を受けていることは過去にも述べたとおりです。
韓国あるいは朝鮮にも、固有文化や独自文化と呼び得るものが存在する可能性まで否定するつもりはありません。しかし彼らがそれらの「型(形)」を定め、その継承と研鑽に努めたことがあるかと言えば、それには私は否定的です。
韓国では、秀吉の朝鮮征伐を「陶磁器戦争」と呼ぶことがあるそうです。秀吉と戦国武将たちが、朝鮮の優れた陶磁器と陶工を得るために侵略を始めたと信じられているからです。
それほどまでに優れた(と韓国人が信じている)朝鮮陶磁器文化は、今どうなっているでしょうか。
朝鮮征伐当時、日本に強制連行された(と韓国人が信じている)朝鮮陶工の末裔は、今も日本で陶磁器の製作を続けておりますが、現在の韓国では食器に陶磁器を用いることすら少なくなっています。
別に古い時代の文化に限りません。近代や現在の文化であっても、韓国が独自文化を極める努力をしていると言えるでしょうか。
何でも良いです。韓国が世界に向けて高らかに誇ったものをひとつ思い出し、それが現在韓国でどうなっているかを調べてみてください。おそらく、ことごとく惨憺たる状態になっているのではないでしょうか。
8割の習得度であっても、「型(形)」に従っていればそれなりのものまで持っていくことは出来ます。しかし「それなり」から抜け出るには、8割の習得度では難しいですし、ましてやそれを独自のものとすることは不可能と言っても良いでしょう。
「型(形)」を徹底的に習得し、更にそれを突き破ってオリジナルを確立するには、義務や強制では続きません。それが好きで好きで、苦しいことやつらいことがあったり、カネになるわけじゃなかったりでやめようかと思ってもやっぱり続けたくて、他人に認めてもらうことだけが目的ではなく、自分でとことんまで納得するためにやるというのでなければ、何かを極めることは出来ないのではないでしょうか。
韓国人は何をやるにしても、「好きで楽しんで自ら進んでやってる」ということがあまりありません。好悪よりは損得でやるやらないを決める感が強く、結果として義務や強制でやってるという人が多いように感じられます。
それが上手くいってる間は得意満面でやるのですが、限界に突き当たるとかどうしても追い越せないライバルが登場したりして、上手く行かなくなると彼らは途端にやめてしまうのです。
現在何かを極めたと誰もが認めるような人にも、一度や二度の挫折や苦境はあるはずです。それでもやり続けることが出来るほどそれが好きで好きでたまらないということが、何かを極めるためにどうしても必要なことなのでしょう。
韓国人を観察していると、彼らにはそういう素養が決定的に欠けているように見受けられます。これは韓国人社会全体の意識の問題が大きいのではないかと思います。成功しか認めず、一度でも失敗すれば即社会的な死を意味するような社会では、好きなことを突き詰める人生を選ぶことは、あまりにもリスクが大き過ぎて出来ないのかもしれません。
彼らが不断の努力を厭い、拙速に成功の果実だけを欲しがる横着者ということも、大いに影響しているとは思いますが。
思い出したくないけど忘れない努力を
対策としては、一番手っ取り早いのがスプレー式の点鼻薬で、割と愛用しているのですが、これはあまり長く(私の場合3日以上)連用すると鼻粘膜が荒れて炎症を起こし、アレルギー性鼻炎とダブルでダメージを食らうことになります。
内服薬は、最近自分の健康管理を目的として献血を行なっているため自粛しております。但し漢方薬なら問題ないということで、鼻炎に効くという小青竜湯を一週間ほど服用したのですが、私の場合著効はありませんでした。
あとは薬に頼らない方法として、ハードな運動をすると身体が酸素を要求するため、鼻閉が改善されるというのがあります。これは効くっちゃ効くんですが、いつでも使えるわけではない(寝てる時とかには使えない)のが難点です。
そんなこんなで、目とか鼻の周りが鬱陶しい今日この頃です。
さて韓国について語って早10年余。韓国について言いたいことを言い尽くしたと思ってからでも、少なくとも7~8年は経っているように思います。
それでも望まれる内は書いていこうと思ってはいるのですが、乾いた雑巾を絞ると言うか、逆さに振っても塵も出ない状態が常態になっております。
韓国人の所業に驚くことは今も時々ありますが、それは彼らの所業そのものに驚くというよりも、存在を忘れかけていたものを不意に突き付けられてびっくりするようなものです。
弊ブログでしばしば申し上げていることのひとつに、「日本人は韓国を忘れる」ということがあります。
これは「だから日本人はしっかりしなさい」などという上から目線の叱咤などではなく、私自身がそうだという自省と自戒なのです。
しばらく韓国関連について考えずにいると、その精神的な快適さに安住したくなります。と言うか、実はブログを書かない時は完全に安住してたりしますw
なので、月見チャットでも韓国関連の話題が出ないことは珍しくありません。月見チャットで韓国関連が話題になるのは、韓国ウォッチ初心者の方が来られて、韓国関連の質問をされた時ぐらいでしょう。
しかしながら基本的には弊ブログをご覧であることを前提としているものですから、せっかくいただいたご質問にも、結構不親切と言うか端折った回答を申し上げることがよくあります。
当人としては不親切なつもりも、端折るつもりも無いので、わかりにくければ重ねてお尋ねいただけば良い話ですが、韓国ウォッチ初心者の方ですと、わかりにくいとは思っても、何がどうわかりにくいのかもわからないということもあるでしょう。
ですが、だからと言ってこちらからいちいち「わかりましたか?」などと確認するのも逆に相手に失礼かなと思って、回答はしますが相手がよくわかっているのかそうでないのかの確認を怠ることはよくあります。
結果、韓国関連のご質問があっても、それでチャットが盛り上がるということは、まずありません。聞かれたことにさらっと答えてそれで終わりになり、その後は流れ解散状態になるか、別の話題に移行する場合がほとんどです。
そんなこんなで、月見チャットでも韓国関連の話題はそれほど出ず、リアルでももちろん韓国が話題になることなど滅多に無く、仮にあっても楽しい話題であるということがほとんどないので話が続くということがなく、ホントに韓国のことなど完全に忘れ去っても、日常生活を送る上で何の不便もありません。
その上精神的に快適なものですから、本気で韓国のことを忘却して、三日ごとのブログの更新で苦悩することになります。
あれほどナマよりナマな韓国人との対話を経験していながらこのザマです。
もう言いたいことは書き尽くしたし、私が殊更に言わなくても、韓国関連のまとめブログのコメント欄を見ていると韓国のことを理解している日本人はずいぶん増えたみたいだし、もうこのブログの役目は終わってんじゃないのと思うことは、更新日ごとと言っても過言ではありません。
それでもやっぱり、ナマよりナマな韓国人を思い出すと、アレを忘れてしまうのはあまりにも危険だと思い直します。ましてや韓国人を知らない人や、韓国人の上っ面に騙されてしまっている人ならただ危険なだけではなく、韓国人の工作に使われてしまう恐れも少なくないのです。
つまり、日本人は韓国(人)を忘却することによって、結果的に韓国(人)に利する結果になる恐れがあるのです。
それを知ってか知らずかって言うか知ってても理解しないだけだと思いますが、日本人が韓国(人)を忘却することを、韓国人は物凄く嫌がります。ことあるごとに自らの存在をアピールし、どうにかして日本人に意識されようとします。ネットが普及する前は日本人の韓国忘却と、日本(人)に対する韓国人のウリナラアピールによる韓国新発見が交互に行なわれていました。
しかしネットが普及した現在、韓国人によるウリナラアピールは陰に陽に絶え間なく行なわれるようになり、日本人が意識的に目をそらそうとしても突き付けられるようになりました。
それは不快ではありますが、そのおかげで日本人が韓国を失念せずにいられるのも一面の事実でしょう。ただ、漠然と韓国を認識するだけでは韓国人の思う壺になりかねません。韓国を正しく理解し、韓国人に正しく対応しなければ、韓国の危険性には気づくことが出来ないでしょう。その知識を得るのに、弊ブログは少なからず寄与出来ると自負しております。
そのためには、私自身が韓国を忘れないように心掛け、それを広く長く(細く?w)日本人に呼びかけて行こうと、改めて心に刻む次第です。
韓国の反日の効能を考えた
とにかくこのところの韓国は良いところがありません。経済はあからさまに低迷し、韓流はすっかり過去のものになりました。東南アジアではまだ韓流が盛んだと言い張る韓国人や韓国人のような人も少なくありませんが、それは一時の余波が残っているだけで、そこから再びブームが牽引される気配は全く感じられません。
世界における韓国の存在感もめっきり薄くなりました。一卵性結合双生児の北朝鮮が世界に悪名を轟かせているのに比べると、(小狡い工作をすることはあっても)驚くほどの悪いことはしませんが、良いことも全然しないという印象です。
ただ反日だけは今も一所懸命(最早文字通り、この一所に命を懸けてる状態w)やっております。そこで今回は、反日が彼らにどのような効能をもたらすかということを考えてみました。
韓国における反日の効能には、どういうものがあるでしょうか。
まず「民族の結束を強める」というのが最大の効能でしょう。韓国人が三人寄れば七つの派閥が出来ると言われるほど彼らは互いに強く激しく諍いますが、日本という標的を作れば、それが幾らかは(完全には無理w)緩和されるようです。
続いて、「民族の自尊心を高める」という効果があるようです。「世界が高く評価する日本を叱ることが出来るウリナラは日本より素晴らしい」という理屈です。ここで、お前らどんだけ日本を高く評価してるんだと突っ込んだら負けです。
更に「日本の過誤を指摘し糾弾することで、韓国の評価が高まることが期待出来る」というのもあるでしょう。「日本はそんなにサイテーな国だったのか。それを教えてくれた韓国は素晴らしい」と世界の人は考えるに違いない、と韓国人は思っているのでしょう。
それから、「日本が韓国に頭を下げるようになることが期待出来る」というのもあります。韓国の正しい指摘に気付ける良心的日本人が増えれば、日本は反省して韓国に自ら進んで喜んで全身全霊を捧げるはずだ、というのは、韓国人には普遍的な考えです。
あとは「日本に対する反発を煽ることで、政府に対する国民の不満の矛先を逸らすことが出来る」というのも、間違いなくあるでしょう。
この他にも私が見落としてたり失念している反日の効能があるかもしれませんが、とりあえずこれらの効能について、考えてみたいと思います。
まず最初の「民族の結束を強める」というのは、少なくとも20世紀中はかなりの効能があったように思われます。しかし21世紀に入り、日本の統治を受けた実体験を持つ(=日本の統治を受けたことに対する屈辱を実感として持っている)韓国人が減ってくると、この効能も徐々に効き目が薄れてきました。
この効能を高めるためには、日本が韓国の脅威になる必要があるでしょう。そうすれば、「日本がまたウリナラを蹂躙するかもしれない!!」という危機感で韓国人の結束が強まるかもしれません。もっとも、裏目に出る恐れもあるのが嫌ですがw
次の「民族の自尊心を高める」というのは、今もそれなりに効能が保たれているようです。日本の悪口を言っている間は、日本よりウリが優れているという気分になれるのでしょう。
続く「日本の過誤を指摘し糾弾することで、韓国の評価が高まることが期待出来る」というのは、まあ朴槿惠韓国大統領が就任直後の外遊で散々やらかしたわけですが、むしろ韓国の評判を更に落としただけじゃないのかと思うのは私が日本人だからでしょうか。他人の過誤を指摘することで、自分が偉くなったような気になれる、というのは韓国内では通用するのかもしれませんが、世界が相手では難しい気もします。
「日本が韓国に頭を下げるようになることが期待出来る」というのは、これはまだ幾らか効能が残っています。何しろ日本には、韓国人のような真似をする日本人や、日本人のふりをした韓国人はまだまだ幾らでもいますから、彼らが韓国人の期待通りに振る舞うことは、今もよくあります。
「日本に対する反発を煽ることで、政府に対する国民の不満の矛先を逸らすことが出来る」というのは、ある意味国家運営におけるドーピングのようなもので、適所で適量を使えば結構な効能が期待出来るのですが、風邪薬でも乱用すれば依存症になるおそれがあります。反日も日常的になってしまえば、効能が薄れて副作用が発現するのは必至というものでしょう。但し依存症になってしまえば、止めたくても止められないという状態になります。現在の韓国の反日は、まさにこの状態と言って良いでしょう。
日本から見れば、韓国の反日は不愉快ではありますが、損得を天秤に掛けると実は日本にとって悪くないものとも言えます。むしろ韓国が親日べったりになる方が、日本にとってはよほど危険ですらあります。ですから、日本にとっては、韓国が反日依存症の危険性に気付いて、国を挙げて反日から離脱しようとすることの方が恐るべきことです。
そうさせないためにも、時々彼らが期待する反日の効能を見せてやるのも、これからの日本が取るべき対韓策のひとつかもしれないと思わなくもない今日この頃です。
韓国人は粉飾する
そんなこんなで色々考えていたら、ふと「韓国ってスペックだけはいつもすごいよな・・・」ということを思いました。これも、今初めて思ったわけではなく、過去記事を検索したら多分既出だとは思うのですが、日韓チャットを離れて結構時間が経ち、自分でも忘れかけていたことのように思ったので、今回のネタにしようと思います。
私が初めて買ったパソコンは、ソーテック製でした。ネットに触れ始めたばかりで、まだ韓国のことをちゃんと知らなかった頃のことです。
当時はまだパソコンは安いものではありませんでした。確かiMacが出た頃ではなかったでしょうか。製品デザインの斬新さもさることながら、20万円を切った価格でMacパソコンが買えるということで、大きく注目されていたと記憶します。
今もさしてカネに不自由していないわけではありませんが、当時は若かったということもあって、今より更に手元不如意でした。
仕事で使うのならともかく、遊び用のパソコンにポンと20万というカネを出せるほど懐具合に余裕はなく、悔し紛れに「2000年問題があるからまだパソコンは買わないんだ」と言い張っていました。
そんな時、ソーテックのパソコンのカタログを見たのです。私が望むスペックを十分に満たした上で、確か余裕で20万円を切っていたどころか、10万円台ぐらいだったはずです(でなければ買わないw)。ソーテック製以外では、同じ価格帯なら望むスペックの半分ぐらいのものしかなく、望むスペックのものであれば20万円を超えるどころか、下手をすればその倍や三倍ぐらいの価格になりました。
これはソーテック製のパソコンを買うしかあるまいと、家電量販店に行きました。
私がソーテック製のパソコンの購入を検討していると言うと、家電量販店の店員は良い顔をしませんでした。
「ソーテックのパソコンを購入されたお客様の三割ぐらいに、買ってすぐ故障したと苦情を言われている。苦情を言われなかったお客様のうち半分ぐらいは、故障したが自力でなんとかした人ではないかと思っている。だからパソコンを初めて買う人にソーテック製はお勧め出来ない」と言われました。
つまるところ「ソーテックのパソコンは売りたくない」と遠回しに言われたわけです。
私はそれを、「こちらが素人だと思って高いパソコンを売りつけようとしているのだ」と思いました。だから店員の忠告を無視して、ソーテック製のパソコンを買いました。
幸運なことに私が買ったソーテック製パソコンは普通に、特に支障なく期待通りに動いてくれました。多分5年は使ったように思います。5年ほど経ったある日、電源ボックスが突然死して使用不能になりましたが。
ソーテック製のパソコンに限らず、韓国製品のスペックを見ると、大抵素晴らしい数字を叩き出しています。その割に、価格は驚くほど安いのです。
韓国を知らないと、仕様書に嘘や誇張を書くなんて想像も出来ません。それでは何のための仕様書かわからないからです。しかし韓国人は仕様書に嘘、大袈裟、事実と違うことを書くことに躊躇がないようです。
彼らに言わせれば、それは嘘ではないと言うかもしれません。あらゆる好条件の下で、更にめったにない幸運に恵まれれば、それだけのスペックは出せるはずだ、と彼らなら言うでしょう。
あるいは実際に測定もせずに、設計上の理論値ではこれぐらいの数字が出るのだから、それを仕様書に載せてしまえ、というようなことをしているのかもしれません。
いずれにせよ彼らは、凄まじいまでに且つ日常的に粉飾を行ないます。
かつての私がそうであったように、多くの日本人はまさかそんな大胆な粉飾を、公の場で、しかも書面でするわけがないと思い込んでいます。口頭で言うだけなら言った言わないに持ち込むことも出来ますが、彼らは堂々書面に粉飾を記して憚らないのです。
その行為はもちろん工業製品に留まりません。個人の履歴書から、国家の財務書類に至るまで、韓国においてはあらゆる場所とタイミングで行なわれていると考えて良いでしょう。
よく「話せばわかる」などと言いますが、韓国人の粉飾癖を鑑みれば、彼らに関しては「話せば騙す」と考えた方が良いかもしれません。彼らに騙されないようにするには、彼らの主張には必ず嘘が混ざっていることを前提として対応するか、彼らの主張を聞いた上で、全て退けるかのどちらかにした方が良いのかもしれません。
後者の方、即ち「彼らの主張を聞いた上で、全て退ける」方が本来は簡単な対応だと思うのですが(実際日韓チャットでは頻繁に行なっていました)、大人の事情が絡んだら実行困難になるのも後者だったりするのが、日本にとっては頭の痛いところではあります。
三一節と、朝鮮のジャンヌ・ダルク伝説
いつもなら早ければ年明け早々に、そうでなくても2月半ば頃には恒例の季節性アレルギー性鼻炎が出てたのですが、今年は全然音沙汰がないので、もしかしたら私の鼻炎は寛解したのかと思ってたのですが、昨日から突然くしゃみと鼻水が押し寄せて来ました。どうやら私の場合は、花粉ではなく寒波がアレルゲンのようです。
さて、本日3月1日と言えば韓国では「三一節」と言いまして、年に数回ある反日特異日のひとつです、てぇのが毎年恒例のネタになっております。
三一節の解説も毎年毎年繰り返していることなので、割愛しようかなと思ったのですが、まあ縁起物なので一応今回も簡単にだけ申し上げておくことにします。
三一節とは、日本統治下の朝鮮で1919年3月1日に起きた反日暴動を記念したものです。他人がやればテロとか暴動でも、自分たちがやれば義挙とか平和的活動とか文化祭と言い張るのは彼らの常でして、この三一節ももちろんご多分に漏れません。
この三一節、まずは「民族代表33人」と呼ばれる宗教指導者たちが画策し、実行したとされております。
彼らが起草した「独立宣言」全文は、ソウルのタプコル公園にある記念碑に刻まれております。それによると誇らしげに自分たちで「朝鮮人」と名乗っておりますので、日韓チャットで韓国人に「朝鮮人」と言って火病られた時に「だってタプコル公園の独立宣言にそう書いてあるじゃん」と言って更に火病らせるという遊びも、一回か二回ぐらいやったような気がします。
何で一回か二回なんだ、もっとやれば良いのにと思われるかもしれませんが、ほとんどの韓国人がタプコル公園の独立宣言を読んでいないのと、仮に読む機会があっても、タプコル公園の記念碑に刻まれているものは漢字ハングル混じり文なので韓国人には読めないのです。
彼らが読んだことのある「独立宣言」は、まず全てハングルに翻訳されたもので、しかも意訳されており、その上読んだことはあっても覚えていないという韓国人がほとんどなので、「だってタプコル公園の独立宣言にそう書いてあるじゃん」と言っても、彼らには期待ほど通じなかったため、多用しなかったのです。
韓国の歴史、特に近代史はそのほとんどが抗日活動ということになっており、日本に抵抗したという類の話ばかりが続きます。そのため、韓国人の意識に「反日」は徹底的に刷り込まれていますが、逆にあまりにも抗日活動が多過ぎて、それらをひとつひとつしっかり覚えたり理解したりする韓国人は極めて少ないようです。
三一節ももちろん数多ある抗日活動の中の比較的大きなもの、というだけのことであって、その内容を詳細且つ正確に記憶している韓国人はいないと言っても許されるぐらいです。それにつけ込んでか、韓国ではそこにいろんな
三一節で興味深い伝説のひとつに、朝鮮のジャンヌ・ダルクと彼らだけが呼んでいる「柳寛順」伝説があります。「柳寛順」は、当時梨花女子大の学生だったそうですが、三一独立運動を受けて女学生の身ながら、敢然と立ち上がります。ここまでの話も実はかなりあやふやらしいのですが、それでもまだここまでは比較的事実に即していると言うことが出来ます。
私が知っている「柳寛順」にまつわる伝説とは、以下のような内容です。
彼女は多くの(数百枚とも数千枚とも)太極旗をひとりで密かに製造し、それを秘密裡に民衆に配布して、平和的示威活動を計画。狙った日に実行に移し、一応の成功を見ます。その結果、彼女は暴動の首謀者として日帝の官憲に捕らえられ、投獄されて残酷な拷問を受けます。最終的には四肢を切断され、裸で刑務所の外に打ち捨てられたそうです。
しかしさすがは朝鮮のジャンヌ・ダルクと彼らだけが言ってる人物です。日帝の残酷な拷問にも屈せず、四肢を切断され、裸で刑務所の外に打ち捨てられた際、共に投げ捨てられた服を自分で着て、歩いて帰ったのだとか。
この話は、多分NAVERの日韓翻訳掲示板にあったものだったように記憶しますが、「突っ込んだら負け」とか「笑ってはいけない」とか、そういう話です。一応柳寛順について色々検索しましたが、そもそも比較的最近になって注目された人物らしく、あまり詳しい記録が残っておりません。それもあって尚更に、韓国人が好むように伝説化しやすかったのでしょう。
柳寛順伝説に限らず、この手のトンデモ話は韓国では極めてありふれたもので、こんなのにいちいち驚いていたら韓国人の思う壺です(などと言いながら、実は私自身よく驚いてるのですがw)。それよりも彼らの願望や欲求に添いさえすれば、こういうトンデモ話も抵抗なく受け入れ、本気で事実と思い込む韓国人が珍しくないということの方に私たちは注目し、警戒すべきでしょう。
彼らにいくら事実を見せても教えても、彼らは常に願望と欲求に従います。その結果、彼らは最悪の選択をすることがよくあります。そういう彼らと行動を共にすれば、彼らの最悪の選択に付き合わされたり巻き込まれたりするおそれは十分です。
その災禍を避けるには、もちろん彼らから物理的に離れるのが一番ではあります。しかし国は引っ越すことが出来ませんし、そうでなくても彼らの方から日本に押し寄せてきます。
彼らを物理的に遠ざけることが困難であるならば、彼らがどういう考え方や行動を取る生き物であるかを正しく知り、どうすれば彼らの最悪の選択に付き合わされたり巻き込まれたりせずに済むかを考え、それを周知し、「心において」彼らを遠ざけるにはどうすれば良いかというコンセンサスを日本国民の間で確立することが、次善の策ではないかと考える次第です。