国交断絶よりも韓国謝絶意識が必要
さて日本と韓国の最善の関係が関係解消であるということは、昔からの弊ブログの主張です。そのためには、日韓国交断絶も当然視野に入ります。
しかししばしば勘違いされることですが、「国交断絶」はイコール関係解消ではありません。あくまで、関係解消の一要素であり、やりようによっては必ずしも不可欠なものではないのです。むしろ「国交断絶」という言葉に過度の期待を抱く余り、韓国に対する警戒心が薄れる方が危険ではないかと思います。
以前にも申し上げたことがありますが、「国交断絶」は嫌韓の夢を叶える魔法の呪文ではありません。国交があろうとなかろうと、通商も旅行も民間の交流も可能です。一般人レベルで国交がなくなった場合のデメリットと言えば、現地におけるトラブル発生時に、日本政府のバックアップがなくなるだけのことです。国交があっても、外国におけるトラブル発生時の原則は自己責任ですから、その覚悟を強く固く持ち慎重な行動を心掛ければ、無問題とは言いませんが当座の問題はありません。
法治が行き渡り、その国の人々の遵法精神と国際常識に対する理解が一定水準以上ある国であれば、ほとんどのトラブルは大使館を煩わすまでもなく、現地の官憲によって適正に対応されるはずです。自己責任でトラブルに対処する自信が無い、あるいはその国の官憲による対処が適正に行なわれることが期待出来ないと思うのであれば、そんな国には行かなければ良いだけの話です。もし広義の強制連行、即ち仕事などで当人が望んだわけでもないのに行かなければならないということであれば、渡航を強制した者、仕事なら会社などがトラブル対処の義務と責任を負うのです。
逆に言えば法治が行き渡り、その国の人々の遵法精神と国際常識に対する理解が一定以上ある日本には、国交の有無に関わらず、来ようとする韓国人が減ることは決して無いとも言えるわけです。
そういう現実を直視せず国交断絶しさえすれば安心という考え方をする人が多ければ、本当に日韓の国交断絶が実現したとしても、今より状況が良くなるとは限りません。悲観的に考えるならば、日韓の国交断絶によって韓国人の密入国や不法滞在が爆発的に増え、日本の官憲がその対処に疲弊するほど追われまくり、しかし日本政府から相手国にそれについて抗議する窓口はない、という状態になるおそれも十二分にあります。
重要なのは、国の制度ではなく人々の意識です。精神と言い換えても良いでしょう。韓国人の無茶や無理、無礼に出会った時、日本人は驚いてとっさの対応が遅れることが多々あります。日本人の常識で、こういう場合相手はこう出る、ああ言えばこう言うというパターンが韓国人にはほとんど通じません。
韓国人の基本は、「自己中心」です。物凄く極端なことを言えば、「自己(≒ウリ)」以外の存在は全てゴミです。自分が悪いことをやっても、それには必ず事情があり、事情がある限りその行為は完全に正当化され、それを非難する方が間違っているというのが、韓国人にスタンダードな考え方です。
日韓の国交が断絶され、韓国人の日本への入国が今より厳しく抑制されるようになったとしても、日本へ向かおうとする韓国人の意欲が減退することはないでしょう。逆に、特に日本に行きたいと思ってもいなかった韓国人が、日本に来ようとするかもしれません。日韓チャットで「韓国人立入禁止」と部屋名に付けると、普段以上に韓国人が押し寄せたものです。禁止されると何が何でもそれを破りたいと思うのは、韓国人の本能と言っても良いぐらいなのです。
そうなった時、日本人側が「韓国とは国交断絶したからもう安心」などと思っていればどうなるでしょうか。同じ力で行なわれるものであっても、それに備えている時に食らう一撃と、油断した時に食らう一撃とでは、こうむるダメージが違います。韓国人は「後頭部を殴られる」という表現を、ことに日本に対して用いるのが好きですが、これは裏を返せば彼らが日本人にそうしてやりたいと思っているとも解釈出来るのです。
日本人の多くが常に韓国人を謝絶する意識をしっかりと持ち、韓国人に対する警戒を怠らず、韓国人が日本人を籠絡しようとする手練手管とそれに対処する方法を知るようになることこそが、韓国との関係解消には国交断絶以上に重要且つ必要なことではないでしょうか。
そう思うと、福沢諭吉の「我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶する」という言葉こそが、今後の日韓の関係解消を正しく導くものだと今更ながらに痛感する次第です。