以前も以後も韓国は不変
「金英蘭法」とは正式名称を「不正請託及び金品等授受の禁止に関する法律」といい、公務員・公共機関職員・報道関係者・私立学校および私立幼稚園の役職員など全国4万機関240万人余り及びその配偶者までを含めた、推定400万人を対象とする贈収賄に関する法律です。「金英蘭法」と呼ばれるのは、この法律の草案作成者が金英蘭という議員だったからです。
韓国は伝統的な賄賂社会で、1970年台の後半にソウルで駐在員の妻としての生活を送っていた日本人女性が書いた「ワンダーランド・ソウル
「ワンダーランド・ソウル」では、著者は悩んだ末に試験官に賄賂を渡そうとするのですが、試験官が毅然としてそれを断ったというエピソードになっております。また著者に賄賂を贈るようにけしかけた韓国婦人たちも、著者からそのエピソードを聞いて「良かった」と喜んでくれたという、ちょっといい話っぽくなっていました。
しかし実際問題として、韓国では賄賂が普通に横行しておりました。それは少なくとも韓国人同士や、行きずりの外国人客相手であれば罪悪感や背徳感を伴うものではなく、その立場にある者の当然の権利という感覚でした。
今はそうでもないと聞きますが、ちょっと前までの韓国では警察官は違反を見逃す代わりに賄賂をせしめるのが普通であり、だからこそ薄給にも、また蔑視(韓国では警察官はあまり尊敬されない職業のようです)にも耐えられたと韓国人から聞いたか、何かで読んだ記憶があります。
薄給と言えば、今でもそうなのかわかりませんが、やはり少し前までの韓国では学校の教師もずいぶんな薄給だったそうですが、生徒の親からの付け届けが薄給を補って余りあるという話もよく聞きました。
しかしグローバル化が進む昨今、韓国内からも旧態依然とした賄賂社会を是正すべしという声があがり、今回の「金英蘭法」の成立とその合憲判断に至るというわけです。
と、こう書けば「おや?韓国人もやっと少しはマトモになってきたのかな」と早とちりしそうですが、「さう旨くはいかない」のが人の世です。ましてや人でなしの世なら尚更というもので、韓国人は非常にしばしば法律的あるいは道徳的に正しいことを言いますが、自分だけは例外と考えるのが普通なのです。
ですから、「金英蘭法」によって贈収賄が禁じられたとしても、またそれを是とする韓国人でも、自分が賄賂を貰える立場になれば当然のように賄賂を期待するでしょう。その期待を裏切られれば、それに応じた不利益を相手に与えることに、何の不合理性も感じないでしょう。
贈る側としても、相手が一度や二度断っても、それを真に受けることはおそらくありません。前回の記事で紹介したように、韓国では目上の人からの酒は二度までは断るのが礼儀だが、三度も断ればかえって無礼になるとされているのです。
この伝で行けば、韓国では賄賂を贈ろうとした相手に二度断られたからと素直に賄賂を引っ込めれば、「ヌンチのない馬鹿」扱いされてしまうでしょう。
この法律について中央日報の記事によると、韓国の有識者は「大韓民国の不正腐敗史が今後、金英蘭法の以前と以後に分けられるほどこの法施行の余波は大きいだろう。その間の産業化過程で一般的慣行として容認されてきた韓国式接待・請託の文化が根絶されるきっかけになると予想される」と絶賛しておりますが、これもまた「さう旨くはいかない」でしょう。
何しろ韓国は、「自分以外の全ての人は法や道徳に絶対に従わなければならないが、自分だけはその縛りから免れられて当然」と誰もが確信している社会なのですから。
所作から日本人と韓国人を見分けることは出来るのか
「朝鮮飲み」というのは、人前で飲み物を飲む時に、湯呑みやコップを持っていない方の手で口元を隠しながら飲むという所作のことです。あの所作をすれば朝鮮人、あるいは朝鮮人に親しい者と考えて良いのかと問われれば、せっかくのご質問なのに誠に申し訳ないのですが私には何とも言えません。
「朝鮮飲み」の元ネタは漫画「美味しんぼ」だと思うのですが、そこでは「目上の人に酒を勧められたら、二度断って三度目に受ける。酒を飲む時は顔を目上の人からそむけ、口元を隠して飲む」と紹介されています。
つまり「朝鮮飲み」というのは本来酒席での作法であって、水や茶などのノンアルコール飲料を飲む時にまで求められる作法かどうかからして、まず定かではありません。従って、あの所作を行なう者が朝鮮人、あるいは朝鮮に親しい者だということも、俄に関連付けることが出来ません。
私はナマ韓国人とはあまり接触がありませんが、乏しい経験で言えば飲み物をああやって飲む韓国人を見たことはありません。ただ、それは連中が私を格下だと見ていたためかもしれないので、それをもって「韓国人は朝鮮飲みをしない」と断言することは出来ませんがw
彼ら独特の所作で目に付いたのは、飲み物を注ぐ時などに、注ぐ手の下にもう片方の手を添える所作でした。右手で注ぐとすれば、その際左手を右手の下に添えるのです。おそらく朝鮮の宮廷で着用されていた服にはかなり大きな袂があったために、韓国では「袂を抑える」のが貴族などの上流社会の作法みたいに思われているのではないでしょうか。
昔、韓国の場末の定食屋で食事をした際に、その店の店主の息子で十代半ばと思しき少年が給仕をしてくれたのですが、そんな若い子が、しかも調理人用の白衣ですから当然袂のない筒袖なのに、その仕草を当然のようにしていたので、妙に印象に残っています。
日本の場合ですと、茶などを注ぐ時には急須の蓋がひっくり返らないように手を添える仕草をすることはありますが、袂を抑える動作というのは、私が不勉強なだけかもしれませんが、あまり見たことがありません。
日本と韓国では何かにつけ真逆なことが多いのですが、茶を注ぐ時の作法も、日本では上を抑え韓国では下を抑えるというふうに、やはり真逆なのは面白いと思います。
最近、日本で静かに問題視されているのはお辞儀の作法かもしれません。日本の正しいお辞儀とされているものでは、両手は重ねず、まっすぐ自然に身体の側面に沿わせるか、太ももの上に当て、頭を下げるとされております。しかし最近は、お辞儀の際に両手を身体の前、下腹あるいは股間の位置で重ね、肘を張って上半身を折り曲げるようにするのを正しいお辞儀と流布されていることが多いようです。
後者のお辞儀は、朝鮮式の「コンス」と呼ばれるお辞儀とされており、日本式の正しいお辞儀ではないという指摘が少なくありません。
ただ接客業に就くと、研修などで「コンス」のようなお辞儀の仕方を「正しいお辞儀の仕方」として習ってしまうこともあり、これをするから一概に韓国(朝鮮)人だと断定するのは正直難しいところです。
そもそも韓国は日本ほど作法や礼法を正しく伝えてることがないために、「これが韓国の作法だ」と確立されているものはあまりありません。韓国では声の大きい者の言ってることが正しいとする傾向が強く、その時々で作法がコロコロ変わることもあります。あるいは、日本式の作法を真似て、韓国作法とする例もあります。
そんなこんなで、所作から日本人と韓国人を見分けるというのは、かなり難しいのではないかというのが、私の考えです。
ただし、所作によってはその人の行動原理が示されることもよくあります。例えば、日本人の礼儀作法には、「相手に不快感を与えない」「迷惑をかけない」という意識が込められていることが少なくありません。対する韓国人の礼儀作法には、「自分を尊大に見せる」とか「相手を威圧する」という意識が見え隠れすることがあります。
また日本式の作法は長い伝統によって洗練されており、無理や無駄が極力省かれておりますが、韓国式の作法はその時々の思いつきと行き当たりばったりで作られていることが多いために、無理や無駄が目立つということもあります。
日本式の所作には必ずと言って良いほど「そうする理由」がありますが、韓国式には無理やりのこじつけはあっても、合理的な理由がない場合もよくあります。
そういった差を感じ取って、日本人として違和感を覚える人を区別することはある程度可能かもしれませんが、日本人であっても正しい礼儀作法をみっちりと仕込まれている人ばかりではありませんから、やはり所作から日本人と韓国人を見分けることは難しいでしょう。
所作以外でも、日本人と韓国人を一発で見分ける方法というのはおそらくありません。日韓チャットのように、コミュニケーションが文字ONLYの場合は比較的わかりやすいのですが、それでも100%確実に見分けることは出来ませんでした。
ある程度韓国人に慣れた人なら雰囲気でなんとなくそうじゃないかなー程度にぼんやりわかるということはあるかもしれませんが、それでも瞬時に見抜くのは至難の業でしょう。
また一発で確実に見分けることにこだわるのもあまり意味があるとは、私は思っておりません。純粋な日本人でも朝鮮人のような真似をする者は残念なことに珍しくありませんし、純粋な韓国人でも日本人として十分通用し得る人が、あるいはもしかしたらひょっとするとことによるとまかり間違って突然変異的に出現する確率がゼロではないかもしれません。
以前から何度も申し上げておりますが、重要なのは実際の国籍や血統ではなく、実際の行動や思考です。実際の国籍や血統が日本であっても、行動や思考が朝鮮人なら朝鮮人と看做されてもしかたありません。
それが嫌だと思う日本人は、朝鮮人と思われないような行動と思考を心掛けるでしょうし、それを嫌だと思えない日本人は、最早その時点で心において朝鮮人だと思って良いと私は考えております。
韓国人はケチじゃない?
私の主な交通手段はバイクなのですが、今日のお昼前にいつも通っている住宅街の中の道を走っていると、前を走っていた軽自動車が突然スピードを落としました。当然私もそれに合わせてスローダウンしたのですが、その軽自動車は更にほぼ止まりそうなぐらいまでに速度を落としました。
その道路は住宅街の中ですが、通常そんなところで自動車が停止することはない、という位置です。具体的には、変形三叉路のど真ん中でした。「こんなところで何故?」と思いつつ私もいつでも止まれるように更に速度を落としながら前の車の挙動を伺っていると、今度はその軽自動車のバックランプが点灯したのです。
その車の後ろを走っていた私としては、停止までは想定内でしたので十分対応出来るようにスタンバイしていましたが、まさか徐行から停止もせず(しかもおそらく後続車の存在確認もせず)、いきなりバックしようとするとは全く思っておらず、かなり驚きました。
こちらの速度もいつでも停止出来るほど落ちていたので、驚き慌てながらも後退してくるその車を比較的余裕を持って避けられはしましたが、あんな不可解な動き方をする車は、私の長い運転経験でも初めてでした。
どんな阿呆が運転してるんだと思ってその軽自動車をやり過ごす時に運転席を見ると、30代ぐらいの男性で、右手で車のハンドルを持ち、左手にスマホを持っていたのがはっきりと見て取れました。
彼がポケモンGOをしながら運転していたのか、あるいは道に迷ったか何かで地図でも見ながら運転していたのかは定かでありませんが、いずれにしてもスマホを見ながら運転していたのは間違いありません。
スマホを見ながらの歩行や運転は、当人のみならず周囲にとっても極めて危険です。ポケモンGOがどういうゲームなのか、スマホを持っていない私は全く知りませんが、もしスマホを見ながら移動しなければならないようなゲームだとすると、かなり危険だと思います。
ポケモンGOというゲーム自体に含むところは全くないどころか、ポケモン自体はかなり好きですが、そのゲームが「ながらスマホ」に繋がるものであれば、あまり感心しないというのが正直なところです。
余談ながら、夜道でスマホを見ながら歩いている人を非常にしばしば見かけますが、暗い場所で顔に下から光を当てると、大変にホラーなビジュアルになります。おそらく夜道で「歩きスマホ」をしている当人にそういう自覚は全くないでしょうし、あっても自分が見るわけじゃないから気にならないのかもしれませんが、そういう人と突然出くわす者にとっては、日常的に通る道が予告なくお化け屋敷か肝試しの会場になるようなものでかなり心臓に悪いので、ご配慮いただきたいものだと切に思います。
さて、「fetiaさんが思う朝鮮人的な特徴として、「妙にケチくさい」と思うところはありますか?」 というご質問を頂戴いたしました。これはちょっとおもしろいと言うか、ひとことではお答えし難い(ネタ不足の弊ブログとしては嬉しいw)ご質問でした。
まず一般的な韓国人は、「ケチくさい」と思われることを酷く嫌がります。ここ数年、破綻が露呈しつつある韓国経済を反映して、韓国人同士の飲食における割り勘(韓国製英語で「ダッチペイ」)は一般的になりつつあるようですが、私たちが日韓チャットでとぐろを巻いていた頃は「日本人は友達と一緒にご飯を食べても割り勘にするんですか?w」という、揶揄と嘲笑を含んだ質問を時々韓国人からされたものです。
昔の記事にも書いたことがありますが、韓国人は見栄っ張りですから、他人から太っ腹と思われたいという願望が強いのと、「上位の者は下位の者に施しを与える」という意識があるために、目に見えてケチくさい真似というのは、少なくともそれほど親しくない間はあまりしません。
では彼らは、彼らがそう思いそう思われたいと思っている通りに太っ腹なのかと言えば、皆様の予想通りそうでもありません。親しくなると、自分の物と親しい相手の物を混同してしまうことが韓国人にはよくありますが、不思議なことに韓国人は必ずと言って良いぐらい「自分だけが得をするように」混同するようです。
韓国人同士であれば、互いに「自分だけが得をするように」混同することでバランスが取れるのかもしれませんが、日本人と韓国人であれば必ずと言って良いほど日本人側が損をする形になるでしょう。そうなれば、日本人から見ると韓国人の所業が「ケチくさい」と見えることは十分に考えられます。
また、「正当な対価を支払って商品やサービスを受け取ること」よりも「如何にして正当な対価を支払わず商品やサービスを受け取るか」に価値観を見出す韓国人は極めて一般的と言って良いです。もちろんその逆も然りで、商品を購入する際、消費者側からの価格交渉は韓国ではまだまだ一般的なようですし、対する販売者側のボッタクリも極めて普通に見られます。
個人だけでなく国家としての韓国を見ても、世界の何処かで大規模災害が発生した際の韓国の寄付金の拠出姿勢は独特です。最初は出し渋るくせに、他の国(特に日本)が莫大な寄付を申し出ると、それに張り合うかのように寄付金の額を吊り上げます。
誰が強制したわけでもなく自分で勝手に寄付金の額を吊り上げておきながら、いざ本当に支払う段になると、分割でと言い出したり、甚だしくはほとぼりが冷めるのを待ってこっそり寄付金を減額したりするようです。それでも他国に向かって臆面もなく、韓国が申し出た寄付の最高額(≠韓国が実際に寄付した額)を誇ります。
そういう韓国人を「ケチくさい」と思う気持ちはよくわかります。しかし今まで私が見たり聞いたり接したりしてきた韓国人を見る限り、韓国人に「ケチ」とか「シワい」という表現はあまり適切ではないように思います。
これは私の個人的な感覚ではありますが「ケチ」を堂々と実践している人は、ある種のポリシーを持って、即ち「ケチ」を合理的で正当な行為と確信した上で実践している人が多いように感じられます。そういう人は他人から「ケチ」と言われても、「だから何?」と平然としているでしょう。
しかし韓国人の「ケチ」に見える行為には概ね合理性も正当性もありません。あるのは、まず自分が得をすること、かてて加えて相手に損をさせなければ自分の得が損なわれるのではないかという意識です。そのくせもし彼らに「ケチ」と言えば、凄まじい勢いで激怒するのです。
そういう彼らを見ていると、彼らには「ケチ」と言うよりは「みみっちい」とか「しみったれ」とか「セコい」とか「コスい」という表現の方がより適切だろうという印象を、私は持っております。
日韓共同世論調査から読む日本人の対韓意識の変化
さて、せっかく爽やかな梅雨明けだというのに、うんざりする韓国話。
先月中旬から今月上旬にかけて行なわれた日韓共同世論調査で、両国の印象が改善に向かうという報道がありました。調査結果の詳細はこちらです。
私はこの報道を見た時、不快感はありましたが意外ではありませんでした。しかし「両国の印象が改善に向か」っているかどうかには、少々疑問を抱きました。
私が感じた不快感については、特に説明の必要はないでしょう。ですので、意外ではなかったことと、抱いた疑問についてご説明申し上げたいと思います。
意外でないというのは、韓国ウォッチブログをやっている者としての実感です。少し以前の、日本で嫌韓気運が盛んになっていた頃、嫌韓及び韓国ウォッチブログ(韓国の掲示板まとめブログを含む)の勢いは凄まじいものがありました。
ブログばかりではありません。大手のネットメディアやポータルサイトでも嫌韓ネタのニュースや記事を見ない日はないと言っても良いほどでした。しかしその勢いも徐々に衰え、最近の大手メディアやポータルサイトの嫌韓ネタは、個人的な体感ですが激減しております。
弊ブログへの訪問者も減少の一途です。人気ブログランキングも、アジアカテゴリではまだかろうじて1位を維持しておりますが、その上位カテゴリである「地域情報」ではベストテンから陥落。総合ランキングにおいては、一時期ベスト200に食い込む勢いでしたが、現在は350位を下回っております。
私自身はツイッターアカウントを持っておりませんが、弊ブログにはリツイート(って言うんですかね?w)機能がついておりますので、弊ブログがツイッターでどれぐらい、またどのように言及されているかも一応チェックしております。こちらも、ここ数ヶ月というもの顕著に減少し続けております。
これらは「日本人の対韓感情が改善された」ためでしょうか。私は違うと思います。
もし「日本人の対韓感情が改善されたため」であれば、弊ブログにはもっと異論反論のコメントが投じられるはずです。「お前の対韓認識は時代遅れだ。今は違う」という主張があって然るべきです。
その主張を行なうのは、別に弊ブログでなくても良いんです。他のブログや、あるいは今まで嫌韓ネタ一色だった大手ネットメディアやポータルサイトが、擁韓ネタを繰り広げるようになり、また韓国側においても、明らかに今までとは異なる主張が台頭し、それが韓国民に支持されているのが見て取れれば、「もしかすると日韓双方の印象は改善に向かっているのだろうか」と考えることもやぶさかではありません。
しかし日本側においては、韓国ネタは明らかに飽きられております。何年前のネタだよと思うようなことが昨日のニュースだったり、最近のニュースかと思って読んだ記事が数年前のものだったりということは、韓国ウォッチャーの「あるある」です。それほど韓国ネタというのは、同じことの繰り返しが多いのです。
弊ブログでもそうです。何度同じことを書けば気が済むんだ、もうわかった、良いから次のネタ、と思って読んでおられる方は結構いるのではないでしょうか。誰より、書いてる当人がそう思っていますw
前述の世論調査においても、「極めて好意的且つ楽観的に読めば」日韓両国の印象は改善に向かっている「と読めなくもない」、というのが正確な表現でしょう。冷静且つ客観的に読めば、少なくとも日本側の意識は、「韓国どうでも良い」「韓国飽きた」に傾いていると読むのが妥当だと私は考えております。
日本人の「韓国どうでも良い」「韓国飽きた」をひっくり返す特効薬とか魔法の呪文というのはありません。日本人にとって韓国とはもともとそういう存在だからです。遠からぬ将来、日本人の「韓国どうでも良い」「韓国飽きた」は、「韓国忘却」へと流れていくでしょう。
日本人に完全に忘れ去られてから後、韓国が「再び」ではなく「新たに」発見され、その飛び抜けた素っ頓狂さや凶悪性及び他害性に日本人が驚いて注目するようになれば、日本に「新たな」韓国ブームが訪れる日が来るかもしれません。
今も変わらぬ韓国人の対日意識
ところでトルコと言えば韓国が「兄弟国」などと言って親近感を強調する国であることを韓国ウォッチャーなら知らない人はいません。このところ日本では盛んに報じられているトルコのクーデターですが、韓国言論で報道しているのをほとんど見ません。日本語版だからそうなのかと思って朝鮮語版も覗いてみたのですが、やはり見当たりませんでした。
あいつらの言う「兄弟」なんてのは、所詮その程度ということなのでしょう。
さて韓国三大紙のひとつである朝鮮日報には、鮮于鉦という名物男がいます。父は鮮于煇といい、やはり朝鮮日報の主筆まで務めた人物ですが、この父子の思想は180度違うと言っても良いほど異なります。
父の鮮于煇は日帝統治下の朝鮮に生まれ、解放から朝鮮戦争を経て漢江の奇跡と呼ばれる高度経済成長の最中に急死しました。
息子の鉦は、日韓基本条約が成立した後の1967年に生まれ、韓国が「漢江の奇跡」を謳歌する中、朝鮮日報の重鎮である父の庇護の下、何不自由なく育ったのでしょう。
父は激動の時代を生き、軍人として朝鮮戦争にも参加し、作家及びジャーナリストとして著名な日本人との交友関係もあったためか、それなりに日韓関係の理想と現実に折り合いをつけていた比較的稀な韓国人だったようですが、息子の方はどうにもこうにもわかりやすいほど普通の韓国人としか言いようがありません。
鮮于鉦の書く記事は日本が絡んだ時だけおかしくなる、それ以外の時は比較的まともだと仰る方もいらっしゃいますが、「日本が絡んだらおかしくなる」ということこそが、限りなく韓国人らしいと私は思います。
その「日本が絡んだらおかしくなる鮮于鉦」が、朝鮮日報で「明仁天皇」と題するコラムを書いておりました。
それは日本人が読んだら不快を催すこと間違いなしですが、実は日本語版の方は日本人にかなり配慮して翻訳されており、朝鮮語版の方は更に不快さマシマシになっております。
このコラムでは五段落の内、三段落までは日本における天皇の歴史について語ります。それも出来るだけ馬鹿にするというか、明暗の暗部と思われる部分だけを抜き書きするやり方です。
四段落目で今上天皇について語ります。もちろん、出来るだけ馬鹿にすることは忘れません。ただ馬鹿にするだけではなく、今上天皇について評価もします。まるで上司が部下を査定するように。
最後の段落で最近の今上天皇の譲位報道について、鮮于鉦個人の所感を述べます。
この段落では、陛下が歴史和解(≒韓国に対する謝罪)に向けた最後の旅(!?)に韓国を訪れたいと望んでいるなどと、大御心を不敬にも鮮于鉦が勝手に代弁します。その上で「退位後に軽くなった心と体で韓国を訪れるのはどうだろうか。温かい心で迎える韓国人も少なくないだろう。」と、とんでもなく上から目線の言い草です。
鮮于鉦のこのコラムは、言い回しこそ工夫しているつもりのようですが、かつて李明博が「(天皇陛下が)韓国に来たいのであれば、独立運動家を回って跪いて謝るべきだ」と発言したのと大差ありません。
日韓関係の悪化を引き起こしたとされる李明博前韓国大統領の天皇陛下侮辱発言ですが、私は当時から李明博的には「何でこの発言が今更問題視されるのか」と困惑していただろうと思っていました。
というのも、天皇陛下を侮辱することで日本より上になったつもりになる韓国人は極めて一般的で、日本人の前でも盛んに言われていたことであり(私も日韓チャットで頻繁に韓国人に言われた経験があります)、李明博の発言もそれを踏まえた上での大衆迎合発言だったからです。
鮮于鉦の今回のコラムは、日本の天皇陛下に対する韓国人の一般的な考え方、ひいては対日意識が李明博発言の後も全く変わっていないということを如実に示して見せたものという点のみで、評価出来ると私は考えております。
なお、日本語版で「天皇」となっている部分は、朝鮮語版では全て「日王」となっていることを最後にお知らせしておきます。
逃げ(られ)ない日本人、逃げ(られ)る韓国人
私が読んだ仮説では、「嫌なこと」の条件を気温で考えていました。人間に限らず、ほとんど全ての哺乳類は自分の体温以上の環境を好みません。人類がなんとか生活出来る上限温度は、体温よりもせいぜい10度高い程度までです。体温より20度も高いところに人類は住めません。体温プラス30度の世界では、人類は生活どころか生存さえ不可能です。
逆に体温よりも低い分には、人類はかなりの耐久性を持ちます。体温マイナス10度なら人類はとても快適に生活していけますし、体温マイナス20度でも問題は全くと言って良いほどありません。体温マイナス30度でも十分生活出来るのは、北国にお住まいの方なら何を当たり前のことを鼻で嗤うでしょう。体温マイナス40度を下回る地域にも、人類は生活圏を広げています。
まだ人類の数が少なかった頃、人類は基本的に定住ではなく遊動していました。生活していた場所が気候変化で高温になり不快を感じるようになれば、人々はさっさとそこを捨てて別の快適な場所を探して移り住んだでしょう。私の読んだ仮説では、「不快」の条件を気温で考えていましたが、天変地異や戦乱、環境の変化による食糧難なども当然移動の理由になったでしょう。
そう考えた時、何故日本人は日本に留まり続けたのだろうかという疑問が湧きました。
日本は全体としては温帯に属することになっていますが、一年における気温の変化は激しく、夏は亜熱帯に、冬は亜寒帯に匹敵する気温になる地域も珍しくありません。また天変地異が多いのは世界有数です。
初期人類の基本が「嫌なことがあったら逃げる」であれば、日本に移り住んできた人々も当然日本から逃げ出していたはずです。
ここで別の記事を思い出しました。昆虫学者の五箇公一博士へのインタビュー記事です。
この記事でも「かつて日本人の祖先が渡って来たとき、山も川も険しく、住める平野も少なく、台風や地震や火山など天変地異も絶えないこの小さな島国で生き抜くことは、相当に過酷だったと予想されます」と述べられているように、やはりかつての日本は、人類にとって環境的に「嫌なところ」であったと考えるのが妥当です。「嫌なことがあったら逃げる」のが人類の基本であれば、そんな過酷な環境の日本に、何故日本人は住み着いたのでしょう。その答えを、前述の記事で博士はこう考えます。「生き残るためには自然に従うしかなかったのではないか」と。
もちろん、日本人はただ自然という脅威に為す術もなく従うばかりではありませんでした。自然に対して譲歩はしますが、自分たちに都合の良いように自然を利用もしていました。そうして日本人は里山という、自然に逆らわずその力を利用する循環型環境を作り上げたのです。
これが日本人の生き方の基本になっているのではないでしょうか。自分たちと対立する力に真正面から争い抵抗するのではなく、その力を受け流し、和らげ、利用する。争わねばならなくなれば全力で争うが、その前にどうすれば争いを避けられるかを考えるのです。
それは、かつての日本人が「もうここ(日本)から先に逃げるところはない」と悟ったからでしょう。
それまでであれば、「嫌なことがあれば逃げ」れば良かったのです。そうやって逃げてきた人々が辿り着いたのが日本だったのです。しかしここ(日本)から先に逃げるところは、もうありません。だからと言って、かつて嫌だからと言って逃げたところに戻る気にもなりません。ならば嫌でもここ(日本)で生きてゆくことに腹を決めるしかないのです。
もちろん、それでも日本の環境を「嫌だ」と思った人々はいたでしょう。そういう人々は更に日本の先へと逃げたかもしれません。逃げてきたところへ舞い戻ったかもしれません。そういう人たちがどこへ辿り着きどうなったかは、私にはわかりません。ハワイやアメリカ大陸、あるいはその他の地域に移り住んだのかもしれませんが、その人たちは日本人ではないので今回の考察とは無関係です。
そうやって日本に残った人々は、しばしば自然の脅威に苛まれ傷めつけられながらも、自然と対話し、和解しようとしました。それが日本人という民族の遺伝子に刻み込まれているのではないでしょうか。脅威に対し逃げるのではなく争うのでもなく、どうすればその脅威を和らげることが出来るかを考える。対話が可能であれば、話し合いを持ちかけようとする。日本の神道には、まさにその精神が現れています。
対する韓国人ですが、彼らは相変わらず「嫌なことがあったら逃げる」の段階で留まっているようです。動物としての人類の本能に極めて忠実と言えます。かつての彼らには逃げられる場所が幾らでもありましたし、今も幾らでもあると思っているからでしょう。現実問題としては、かつて人類の数が少なく人類の生息可能な空白地域が幾らでもあった時代と異なり、逃げ行く先など最早人類が生存不可能な地域ぐらいしか空いてないのですが、韓国人はそういうところではなく、別の民族が既にインフラを完成させて快適に住んでいるところを狙って移住しようとするから迷惑千万極まりありません。
そんな彼らであっても、日本に来ると何故か嫌なことがある(と主張する)のに、日本に何世代も留まるようになるから不思議です。今の御時世、丸木舟で太平洋に漕ぎ出さねばならないわけというわけでもないのですから、幾らでも日本から逃げることは可能でしょうに。
ただ彼らの場合、自分たちが脅威と考える相手には対話よりもまず闇雲な抵抗と闘争で臨むので、やはり日本人とは根本的に違うということはよくわかります。
日本人の立場から見れば脅威は彼らの方なのですが、日本人の習性として「脅威に対しまずは争いを避け、対話を試み」ようとしてしまうのが困ったもので、それが彼らをなおさらつけあがらせてしまっております。
私たちの祖先が残した「脅威に対しまずは争いを避け、対話を試みる」という知恵は、対話が可能な相手にのみ有効なことです。加えて「対話が通用しない時は争いも辞さない」「争う時は全力で争う」という覚悟を以て臨むことであると、私たち日本人は今一度確認するべきだと強く強く思う次第です。
大恨民国は永遠です。
汗疹は子供の疾患みたいなイメージがありますが(実際、世間話で汗疹に悩まされていることを言うと、「まぁ、可愛らしいw」と言われたことがあります)、むしろ大人の方が痒いからと言って好きなときに好きなように痒いところを掻きむしったり、痒み止めを塗ったりすることが出来るわけではありませんので、悩みは深刻なのかもしれません。
さて汗疹に悩まされる鬱陶しい季節に、毎度毎度の鬱陶しい韓国の話。と言っても、梅雨時の鬱陶しさは秋の実りをもたらしてくれますが、韓国の鬱陶しさは飽きしかもたらしませんが。
韓国三大言論紙のひとつ、中央日報に「うっ憤共和国、大韓民国」というコラムが載っていました。
韓国における生活騒音トラブルが殺人事件にまで発展した例を掲げ、「韓国は悔しさが溢れている」とただ嘆くだけのコラムです。
この騒音トラブル殺人事件は、毎週のように孫が遊びに来る老夫婦の部屋の下に住む金某氏(日本語版では「K」とされていますが、朝鮮語版では「金某氏」となっております)が、上の階に住む老夫婦の孫によって引き起こされる騒音に悩み何度も苦情を申し入れるも全く改善されることがなかったため、「自分を無視した」と鬱憤を募らせ、周到な計画の果てに老夫婦を殺害したという事件です。
即ち、騒音が犯行のきっかけになったのは事実ですが、殺害動機は「無視されたこと」に鬱憤を募らせたためと言えるでしょう。
韓国人はあれだけ感情の赴くまま好き放題なことをやって、それを「人間らしさ」と嘯いて憚らない癖に、鬱憤を溜め込むことがよくあるようです。韓国人が瞬間的に怒りを爆発させるのを、日本のネットの巷では「火病」と言って揶揄することがよくありますが、本来「火病」とは「鬱火病」の略であって、鬱憤を溜め込み過ぎて身体的精神的な症状を引き起こすものとされています。
その症状が自分自身の精神や身体を蝕むにとどまらず、他者を害するに至る事例が、最近の韓国では少なくありません。
それらを見ていて思うのが、日本の「思いやり」や「譲り合い」、「他人に迷惑をかけないように心掛けること」の重要さです。
韓国では、「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないように心掛けること」を子供に教えません。前述の事件で殺害された老夫婦も、毎週のように孫が室内ではしゃいで走り回り飛び跳ねて遊ぶのを目を細めて見守るばかりで、他人に迷惑になるからやめるようにとは全く言わなかったのでしょう。
それが野中の一軒家で、飛ぼうが跳ねようが走ろうが転がろうが叫ぼうが喚こうが、自分たち以外の人が全く居ないところであれば別ですが、都会の集合住宅ならば概ね半径20m以内の上下左右に他人が住んでいるわけです。ある程度の生活騒音はお互いさまですが、それでも他人の迷惑を慮る気持ちは、集合住宅に住む限り必須と言えるでしょう。
しかし韓国人には「他人の迷惑を慮る」という習慣がありません。あるのは「自分より上位の者の顔色を伺う」という卑屈な習慣です。彼らにとって「知らない他人」は原則として「下位の者」ですから、そういう人たちの機嫌を慮るということは、全くありません。むしろ他人の方が、自分の顔色を伺って当然だとさえ思っているでしょう。
その結果、彼らは互いに鬱憤を募らせ、憎しみ合い、争い合うことになります。
日本人の「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないように心掛けること」は韓国人には惰弱と映るようですが、実際は人が他人と共生していくために必要な知恵ということが、彼らの社会を見ていると実によくわかります。「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないこと」によって無用な争いを事前に防ぎ、小さな不満を分かち合うことで、共同体全体の平安と満足を得られるのです。
ならば韓国人も「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないように心掛けること」を実践すれば、平安や満足が得られるようになるでしょうか。答えは否です。おそらく形だけの「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないように心掛けること」では、韓国人の鬱憤が少なくなることはないでしょう。むしろ更に募る恐れさえ大いにあります。何故なら、韓国人は「恨」を是としているからです。
「恨」については、韓国人的には、「望んだことを叶えられなかった自分の不甲斐なさを責め、あるいは戒める気持ち」などと美化していますが、過去にも何度か述べたように弊ブログでは「果てしなく生じる願望に対する果てしない追求に応じ切れない現実世界に対する不満から生じる負の感情」と定義しております。「負の感情」ですから、解消出来たとしてもプラスに転じることはありません。マイナスからゼロに戻るだけです。
これに対し日本人が是としているのは、私は個人的に「諦」だと考えております。弊ブログで唱える日本人の「諦」とは「物事を正しく見聞きし考え明らかに見る」という意味で、巷間よく用いられているような「とても見込みがない、しかたがないと思い切る。断念する」という意味ではありません。
この「諦」がないと、「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないように心掛けること」は思うように機能しません。例えば、自分は他人に迷惑をかけないようにしているのに、他人は誰も自分に迷惑をかけないようなんて思いもしないとなれば、誰が他人に迷惑をかけないように心掛けるでしょうか。日本では誰もが「他人に迷惑をかけないように」と思っているからこそ、「他人に迷惑をかけないように心掛けること」が機能するのです。
もちろん「全ての日本人がそうでは(以下略)」。ですがそういう日本人がいたとしても、その時その場でそういう日本人だけが得をするような気がして業腹に思っても、自分がそういうことをやってはいけない、あれはみっともないことなのだと「正しく」考えることが出来れば、韓国人ほどの鬱憤を溜め込むことにはならないでしょう。
日本で長期間生活していた韓国人が、日本での「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないように心掛けること」による快適さを体験して自分もそれに倣うようになり、韓国に戻ってからも、まず自分からそうすれば、きっと周りの韓国人も同じようになるだろうと思ってしばらく「思いやり」や「譲り合い」「他人に迷惑をかけないように心掛けること」を実践してみたが、自分がどんなにそれらを心掛けて実行していても、他の韓国人は誰もそれに倣わず気にも留めず、やがて自分一人だけがそういうことをしているのが馬鹿みたいに思えてきてやめてしまった、という話を韓国の掲示板で読んだことがあります。
日本人のこういう心ばえをかつて韓国の詩人金素雲も、「他人の不幸、他人の悲しみを、そのまま自分のものとなすことのできる――その真情、その良識こそは、私が命をかけて、わが郷土、わが祖国に移し植えたいと願うところのものです」と絶賛しておりましたが、彼らが「恨」を忘れ、「諦」を知るようにならない限り、どれだけ形を真似ようとも、決して彼らの社会にそれが根付くことはないでしょう。
日本人はどんな民族になるべき?
亜鉛華軟膏は使ったことがありませんが、天花粉(今の若い子には、「ベビーパウダー」と言わないと通じないとかw)は以前使っておりました。ただ天花粉を振った後に汗をかくと、天花粉が肌の上でダマになるような気がして、使わなくなりました。フルコートじゃありませんがステロイド軟膏(weak)は持っております。ただしこれはよほど酷く掻き壊してしまった時に緊急避難的に使うものとしております。あと石鹸の使用を控えると肌の調子が良くなるというのはよく聞く話ですので、可能な範囲でやってみようかなと思います。
加えて自分でも対症療法を考えてみました。汗疹は基本的に痒いもので、痛くなるのは掻きむしるからです。掻きむしらなければ痛みの方はかなり防げるはずです。そこで痒み止めの薬を塗っていたのですが、薬の効果の持続時間はせいぜい2時間程度です。そんなに頻繁に薬を塗ってもいられません。
汗疹は汗をかくからなるわけですから、肌を乾燥させた方が良いと思ってしまうのですが、痒いということはその部分に大なり小なり炎症を起こしているということです。炎症を起こしているということは皮膚が本来持っている保護機能に破綻が生じているということでしょう。
ならば肌を保護すれば良いんじゃないか、しかし蒸れさせてはいけない、ということで入浴後に全身にココナツオイルを1割程度混ぜたワセリン(自家製w)を薄く塗ってみることにしました。すると一度でたちまち症状が軽快しました。
昔、ジョンソン・アンド・ジョンソンのベビーオイルのコマーシャルで、入浴後濡れたままの肌にベビーオイルを塗るというのがあり、一度それを真似してやってみたことがありますが、塗り方が悪かったのかそんなにたくさんのオイルを使ったわけでもないのに、いつまでもベトベトヌルヌルで、その後下着や服を着れば油汚れが付くような気がしてその後二度とやりませんでした。
ワセリンの場合、薄くしっかり塗ればしばらくするとサラサラになって全くべとつかず、下着や服を汚すような感じはありませんので、重宝しております。ただしワセリンそのものには特段の薬効がありません。あくまで肌の保護機能の回復を促すものですので、回復したと思って良い気になって塗るのを忘れると、次の日にまた痒みがぶり返してきますが。
さて、汗疹談義は置いといて韓国と言うか、今回は「fetiaさんには日本人はどんな民族になるべきという具体的なヴィジョンはおありなのでしょうか」というご質問を戴いたので、これをお題にしようと思います。
このコメントを読んだ時、私は反射的に「え?そんなのあるわけないじゃん」と思いました。自分自身がどうあるべきか、これからどうなるべきかすらフワフワな私が、日本人全体の理想的な将来像なんか思いつくわけもありません。
ただ、ご質問の意図は私が考える「あるべき日本人像」を示すことで、読者の皆様の「そんなんじゃダメだ」とか、「この部分はその通りだと思う」とかいう議論を引き出すための叩き台にしようということだと思いますので、真面目に考えてみることにしました。
その前に、今の日本人はどういう民族だと見られているかということを考えてみました。私も日本人なので、完全に客観的にはなれませんが、「日本人」と言われて真っ先にイメージするのは、「いつも曖昧な微笑みを浮かべている人の好い、しかし気の弱そうな人物」というものです。
もちろん「全ての日本人がそうではありません」w ですがもし様々な国籍の人たちが集まっている中で、「曖昧な微笑みを浮かべている人の好い、しかし気の弱そうなアジア人」がいれば、「日本人かな?」と思う人は少なくないのではないでしょうか。
そこからイメージする現在の日本人像は、なんとも影の薄い頼りない存在です。更に掘り下げると、真面目だけど自省的(≒自虐的)で自信に欠ける完璧主義者といった感じでしょうか。
しかしかつての日本人はそうではありませんでした。少なくとも戦前までの日本人は、違いました。他者の優れた部分、自らの劣る部分は素直に認め、自信に満ち溢れてはいるわけではありませんでしたが、確固とした「日本人」としての自負を持っていました。技術や学問、体格で当時の列強に劣るといえども、精神は常に高いところにあろうとしていたように思います。
私はこの気構えこそが、日本人を日本人たらしめていたのではないかと考えます。
今の日本人からそれが失われている、とは思っていません。ただ、今の日本人が自信を失わされているために、その気構えが十分に発揮されていないということは、大いにあると思います。
今の日本人は、自信と自惚れを混同して「日本人は自信を持ってはいけない」と思わされています。その最大の原因は先の敗戦かもしれませんが、既に戦争を知らない世代の方が多い時代であるにもかかわらず、そのくびきは今もがっちりと日本人を戒めております。
安倍政権のキャッチフレーズでもある「日本を取り戻す」ですが、それは「日本人が日本人であることを取り戻す」ということでもあるでしょう。そのためには、日本人はもっと自信、即ち「自らを信じること」を思い出すべきでしょう。
日本人は変わるのではなくかつての、より正確に言うならば本来の日本人に戻っていくべきではないか、というのが、私の考えです。
韓国人の報復行動
暑さには比較的強い私ですが、肌はどちらかと言えば弱い方で、夏ともなれば日焼けや汗疹にはかなり気を使います。基本的に屋内にいることの方が多いので日焼けの方は対処のしようが十分あるのですが、汗疹の方はちょっと油断するとたちまち身体のあちこちに発生して痒みと痛みに苛まれております。
今年は痒くなったら掻かずに液体ムヒを塗りたくるようにしているのですが、ムヒを塗るとその部分がスースーして涼しく感じるので、こりゃ一石二鳥かもしれんとか暑さで茹だった脳味噌で考えたりもしていますw
さて韓国関連、と言っても新しい駐日韓国大使が「韓日通貨スワップは相互利益」とか相変わらずの寝言をぶっこいてる程度で、相変わらず目立った何かがあるわけでもありません。
ただ韓国言論紙を流し見していて気になったのは「韓国における生活騒音によるトラブルの多発」でした。
韓国は集合住宅に住む人が6割、大都市圏では8割を占めるところもあると言われているようです。韓国ウォッチャーの間では韓国の建築物の粗雑さはよく知られていることですが、どうやら壁や床、天井などもかなり薄いのか、生活騒音による隣人トラブルが多発しているようです。
中には殺人事件にまで発展することもあるそうですが、そこまで行かずとも狙った方向のみに音声を放つスピーカー、「報復スピーカー」をわざわざ購入、設置し、相手が騒音を起こせば報復として大音量の音声を流すという、文章にすると何とも幼稚な応酬が展開されているようです。
この記事を見て思い出したのが、少し前に韓国で問題になっていた「報復運転」でした。
韓国では自動車で走行中、自分の気に入らない運転をした相手に危険な運転で恐怖を与える「報復運転」というのがここ数年、社会問題になっています。ネットニュースなどでそういう報道に接すると、韓国人も日本人とほぼ同じような、即ち「(報復運転をする奴は)気が狂ってる」「頭おかしい」「(報復運転が蔓延る韓国は)後進国丸出し」という反応を見せますし、報復運転に対する取り締まりや処罰も強化されているのですが、それで韓国の報復運転が激減したという話は聞こえてきません。
どころか運転ばかりではなく、韓国では瞬間的に怒りを発して傷害や殺人に至る事件が頻発しております。そういえばかつて日韓チャットで韓国人に「韓国人が酷い悪口を言う理由」を聞いたことがありました。
それによると韓国人は酷い悪口を言うことによって、「自分がどれだけ気分を害したか」を相手にわからせようとするのだということでした。これも一種の「報復」なのでしょう。当時は「韓国人同士ならそうすることによって「自分が相手の気分をどれだけ悪くさせたか」を理解するのだ」という説明を受けましたが、韓国の現実を見る限りそんなことは全くないようです。
考えてみれば当たり前で、「酷い悪口」を言うことで「自分がどれだけ気分を害したか」を相手にわからせるということは、自分も相手の気分を酷く害するわけです。「自分が酷い悪口を言われたということは、自分がそれだけ相手に酷いことをして(言って)しまったのだ」と素直に自省するような韓国人であれば、最初からそんなことは言わないでしょう。
何しろ韓国人は、「自分がすればロマンス、他人がすれば不倫」なのです。自分が他人の気分を害したとしても、自分にはそれなりの理由や事情があったのだから他人はそれを責めるべきではない」と考えるのが標準ですし、他人が自分の気分を害すれば、相手にどれほどの理由や事情があったとしても、自分が気分を害されたことだけが最大の問題になるのです。
そこで彼らは、自分が如何に気分を害したかを相手に徹底的にわからせるために、報復行動に打って出るのでしょう。「自分がどれだけ気分を害したか」を相手に徹底的に思い知らせることだけしか考えられなくなり、その結果自分が破滅的な不利益や損害を被る恐れさえ考えられなくなるのです。
韓国人のこういった習性は、日本に対する韓国の行動にも非常によく現れています。
日韓友好は日本にとっては全くと言って良いほど不要ですが、韓国にとっては命綱とも言えるレベルで必要不可欠なものです。ですから韓国としては、日本がどれほど気に入らなかろうと、絶対悪に見えようと、日本の意を迎える方が明らかに得策です。
しかし韓国人は、損になるとわかっていても反日がやめられません。日本が困窮すれば韓国にとっても大きな損害や不利益になるとしても、日本が困窮することを願い、その実現のため工作に勤しむのです。
韓国があれほど日本を憎んでいる癖に絶対に日本から離れようとしないのも、「日本によってウリがどれだけ悔しく切なく苦しい思いをしたかを、何としてでも日本にわからせてやる」という民族的な執念によるものなのでしょう。
その結果日本が「そうだったのか、私たちはそんなに韓国に悔しく切なく苦しい思いをさせてしまったのか」と気付いて韓国に土下座して謝り、以後永遠に韓国の意を損ねないように常に最大限に気を使ってくれるようになって欲しいと韓国人たちは願っているのでしょうけれど、そんなことが起きるわけがないのは、韓国における種々の「報復行動」を見ればわかりそうなものですが、わからないから韓国人なのでしょう。
自分で経験しないとわからない?
韓国言論を流し見ても、韓国の経済が逼迫していることを伺わせる情けない記事がほとんどで、時々気を取り直したようにウリナラ最高節を唱えるというような感じです。
日本の嫌韓気運もすっかり落ち着き、「嫌う」ではなく「厭う」という感じになってきています。特にある程度韓国を知った人にとっては、もううんざり、お腹いっぱい、見たくもないという状態になった人も少なくないでしょう。
もちろん、「まだ韓国に対する怒り、憤りを忘れていない」という方もいらっしゃるでしょう。しかし自分に実害がなければ人は、特に日本人は、怒りや憤りを保ち続けることが難しいものです。
自分に直接の害はないけれど、日本に対する韓国からの害を我が事と思って怒りや憤りを保ち続けるのはかなりの精神力を要求されることですし、世界は韓国だけではありませんと言うか、ぶっちゃけ韓国なんか世界の中では些末な存在です。
世界で様々なことが起き、日本もそれに無関係ではいられないこのご時世に、たまたま日本の隣にあるという(日本にとっての)不幸があるがために、韓国なんかに心を煩わせられるのは誠に理不尽極まりないと言わざるを得ません。
色々思えば思うほど、日本と韓国は互いに遠ざけ合う方が、少なくとも日本にとっては好ましいのです。ですが今なお、日本と韓国は親密な関係を構築、維持しなければならないと唱える人が少なくありません。
私はこの手の意見を見るたびに、「何故そう思うのだろう」と本気で考え込みます。
超短期的且つ超近視眼的に見れば、日本と韓国が親密な関係を構築、維持することで両国にとって好ましい結果が期待出来るというのは、わかります。
日本は内需の盛んな国ではありますが、内需だけに頼っていては将来必ず行き詰まるので、海外にも市場を求める必要があります。韓国は小さな市場ではありますが、日本から近い上に日本の製品に対する欲求が高く、一応西側に属する国というタテマエもあって、手軽な海外進出を考えるにはおあつらえ向きの国です。
ですから超短期的且つ超近視眼的であれば、日本企業が韓国で成功することは容易で可能なのです。
問題は長期的且つ広角的に見た場合です。韓国で長期に渡り安定して成功している日本企業を、私はほとんど知りません。日本と関連した企業では、ロッテが韓国で大成功していますが、皆様御存知の通りロッテはまず日本で在日韓国人が創業し、その利益を韓国に注ぎ込んで作り上げたのが韓国ロッテです。
「だから厳密には日本のロッテも韓国企業だ」と言うつもりは私にはありませんが、韓国人にはそう言う者が珍しくありませんし、ロッテが韓国で成功し得たのは、経営者が韓国人だったからという典型的実例と言うことは出来るでしょう。まあ、そのロッテにしても、現在は後継者問題ですったかもんだかのお家騒動を展開しておりますが。
つまり日本人の日本人による日本人のための企業が韓国で成功することは、まずありません。もしそんなことになれば、必ず韓国人がものすごい勢いで妨害してくるからです。それは韓国籍を持つ在日であっても避けられませんが、韓国では法律上八親等までが親族になりますので、韓国籍を持つ者であれば必ず韓国内に親族がいます。
韓国では法よりも親族の方が頼りになりますので、親族の有る無しは韓国で企業活動を行なう場合、大変重要になります。
日本人が韓国で起業する場合、必ず韓国人の共同経営者が必要になります。これは確か法律上でも必要だったと思いますが、それ以上に現実問題として絶対に必要です。
その韓国人の共同経営者が個人としてどれほど信頼のおける人物であったとしても、その韓国人には必ず韓国人の親族がいるわけです。もしその韓国人共同経営者が親族に何か頼まれれば、それがたとえ会社にとって不利益なことであっても、その韓国人共同経営者が親族の言うことを聞く恐れは極めて高いのです。ましてやそれが日本企業であれば、「ウリとチョッパリのどちらが大切ニカ」と迫られて落ちない韓国人はいません。
更に韓国では「Me too商法」と言って成功した企業のやり方をそのままパクるのが普通に横行しております。少しでも成功すればその後追いをする者が続出する上に、自社の内部機密を横流しして小銭稼ぎをしたり、あるいは自分を優遇しない会社に報復しようとする韓国人が出てくるのです。これらのダメージの積み重ねが、企業を徐々に蝕み、衰退させていきます。
そういう事例は、ちょっと調べれば腐るほどあるのがわかるのに、韓国に進出しようとする日本企業が後を絶ちません。
この現象は会社に限らず、個人や国家とその規模や範囲を変えても同じです。韓国と関われば必ず失敗する、必ず不幸になるという例の「法則」の強さを、舐めてかかっている日本人があまりにも多いのでしょう。
だから日本と韓国は発展的に関係を解消するべきだと弊ブログでは長らく唱えているのですが、嫌韓は多少浸透しても日韓の発展的関係解消を目指す意識がちっとも浸透しない現実を見ると、日本人にもホントに自分が痛い目に遭わないとわからない人は多いのだなと思うと同時に、だったら韓国に対する警鐘なんか鳴らさずに、ホントに韓国に痛い目に遭わされて、韓国とは関わりを絶たねばならないと実感する日本人が多数派になるまで黙って傍観してた方が良いんだろうかと、少々なげやりな気分になる今日この頃です。