戦争を絶対不可侵の「悲惨」と規定する危険
私は勝てる戦争ならバカスカやれなどとは微塵も思っておりません。基本的に戦争とは他に選択肢が無くなった場合の最後の手段です。謂わば「伝家の宝刀」です。「伝家の宝刀」をバカスカ抜いて斬りまくってたんじゃ、「伝家の宝刀」たる意味がありません。それは一年前の記事や、前回、前々回の記事をきちんとお読みになっていれば、小学生でも十分理解出来るよう配慮して書いております。
日本がどんなに戦争を回避する努力を尽くしても、相手のあることですから、どうしても戦争をしなければならない事態に陥る確率はゼロではありません。そうなった場合、それを負ける戦争にしないための備えをしておく必要は当然にあると主張しているのです。
これは左翼の皆様が「戦争法案」などと侮蔑的に呼称している「安全保障法案」と発想は同じだと思います。以前も申し上げておりますが、「戦争が出来る」ことと「戦争をする」こととは必ずしもイコールではないのです。
「負ける戦争をしてはいけない」ということは、平たく言えば「負ける喧嘩をしてはいけない」であり「勝てる喧嘩だったら見境なくやれ」ということではないのと同じように、「勝てる戦争ならばバカスカやれ」ということとイコールには絶対になりません。
そう考える方は、ご自身が格闘技などを習ってちょっと強くなったら、周囲の人に見境なく喧嘩を吹っ掛けて回る方なのでしょう。ちょっと腕に覚えのあるチンピラとかDQNには、そういう人が多いですね。実際、「ちょっと腕に覚えのあるチンピラとかDQN」と似た性質を持っている国が日本の周囲には幾つかあって、そういう国が現在しばしば日本に喧嘩を吹っ掛けてきております。
しかし「ちょっと腕に覚えのあるチンピラとかDQN」は、自分より腕力に秀でる相手に喧嘩を吹っ掛けるということはまずありません。相手の力を侮って喧嘩を吹っ掛けてくることはあり得ますが、そうなった時にそのチンピラやDQNより腕力に優れていることをわからせてやれば、彼らはスゴスゴと引き下がるものです。
むしろそのチンピラやDQNよりも腕力で劣る場合の方が、喧嘩(と言っても一方的にやられるだけでしょうけれどw)になるおそれは高いのではないでしょうか。
明らかに強い、あるいは喧嘩に負けないための不断の努力をしていることが明確な相手には、ちょっと腕に覚えのある程度のチンピラやDQNは喧嘩を吹っ掛けてはこないものです。
あと、揚げ足取りにお越しになった御仁は「戦争より悲惨なことはない」と主張されておられますが、そうでしょうか。戦争も、小規模な、しかし残忍な暴力事件も、当事者にとっては同じ程度に悲惨だと私は考えております。いや、ことによると小規模でも残忍な暴力事件の方が、当事者にとっては悲惨かもしれません。
当事者の多寡によって「悲惨の範囲」は当然変化するでしょう。戦争は規模が大きいので当事者も当然多くなります。けれど「悲惨の質」は、当事者の多寡とは無関係です。戦場で敵の銃弾に斃れるのと、無差別銃撃テロでテロリストの銃弾に斃れるのとでは、前者は悲惨でも、後者は前者に比べれば悲惨ではないのでしょうか。「戦争より悲惨なことはない」と考える人は、戦争反対を掲げながらその主張に従わない者を集団リンチしても、何の矛盾も感じないのでしょう。
戦争は悲惨です。しかし戦争にならなければどんな事態になっても悲惨じゃないと考えるのは、あまりにも現実を知らなさすぎます。
現実には、戦争以外にも悲惨なことは幾らでもあります。戦争もまた、現実における数ある「悲惨」の一つに過ぎないのです。その事実から目を逸らし、戦争だけを絶対不可侵の「悲惨」と規定することは、戦争以外の「悲惨」を自分以外の他者に押し付けても何らの矛盾も痛痒も感じないことになりかねません。
と言うか、事実今回揚げ足取りにお越しになった御仁はそういう方のようですねw
かつて韓国の詩人金素雲は「日本の「善」」を「他人の不幸、他人の悲しみを、そのまま自分のものとなすこと」と評しました。今の韓国人に、「何だ日本人だってウリと同じように自分のことだけしか考えないじゃないか」と侮られないように、「他人の不幸、他人の悲しみ」のみならず「他人の痛み」も自分のものとして考え、以て行動することを日本人として心がけたいものです。