言葉から見る日本と韓国の自他の認識の違い
開催中のリオ五輪も折り返しを過ぎ、結構皆さんご覧になっているようで、体操の内村選手が個人総合で金メダルを獲った翌朝は挨拶代わりに「内村くんやったね!金メダル!」と三人から言われて、テレビを見ないために初戦辺りで内村選手が演技中に落っこちたことしか知らなかった私は結構面食らいましたが、日本選手団は総じてかなり活躍しているようです。
韓国はと言えば何だか絶不調の模様です。個人的にわずかながらも関心があったのは水泳ですが(そう言えば日本の荻野選手が金メダル取りましたねw)、ドーピングで五輪出場資格を失っていた韓国人選手が、韓国内で裁判までして出場資格を無理やり取り戻したくせに見事に予選敗退しておりました。
裁判までやったんなら、メダルとまでは言いませんが決勝進出ぐらいは出来ないと言い訳が立たんだろうと呆れ返りました。何でもロンドン五輪でメダルを獲った選手らしいですが、あれではドーピングでメダルを獲った、ドーピングがなければメダルどころか決勝進出さえ覚束ないというのを証明したようなものです。
この選手は東京五輪で雪辱するとか言ってますが、一度クスリに頼れば身体は確実に蝕まれます。だからこそドーピングは禁止されているのです。韓国は水泳選手の層が薄いので4年後の東京五輪出場は可能かもしれませんが、一度でもクスリに頼ってしまった選手がクスリによって負った身体ダメージを回復させ、且つクスリによるアドバンテージ無しで世界を相手に争うのは、恐らく不可能でしょう。
韓国人ですから馬鹿正直にマイナスからのスタートで苦しいトレーニングを今から4年積み重ねることが出来るかどうかは甚だ疑問です。東京五輪に出場するならば、「バレなければケンチャナヨ」「これも勝つための努力」などと言って、再びクスリに手を出す可能性が高いのではないかと思います。
さて五輪談義はここまでにして韓国考察。
日本語と同様、韓国語にも敬語があることは韓国語を少しでもかじったことのある方ならご存知のことと思います。しかし日本語と韓国語の敬語で大きく異なるのは、その使い方です。
日本語の敬語は相対敬語と呼ばれるのに対し、韓国語の敬語は絶対敬語と呼ばれております。
具体的にどういうことかと言うと、例えば日本では会社の社長に来客があった場合、「社長の鈴木はまもなく参りますので、こちらでしばらくお待ち下さい」と言います。たとえ平社員であっても、「社長の鈴木様はまもなくお越しになられます」などとは絶対に言いませんというか、言っちゃいけませんw
これに対し韓国語では「キム社長様はまもなくお越しになられますので、こちらでしばらくお待ち下さい」という感じになります。日本のように「社長のキムはまもなく参ります」などと言えば、大変なことになるそうです。
これは日本においては「自己」と「他者」が明確に区分されているのに対し、韓国においては「ウリ」と「ナム」で人間関係を考えているからではないかなと、前回記事を書いた後にふと思いました。
前回記事でも書いた通り、韓国の「ウリ」というのは基本的に「自分自身」のことです。ただ日本人の考える「自分自身」とはその範囲が大きく異なります。と言うか「範囲」という概念がありません。「ウリ」と考えた相手は、自動的且つナチュラルに「自分自身」と考えます。
いくら韓国人であっても、最初はもちろん「自分自身」以外の誰もが「ナム」です。しかし一度話をして、自分と相手との関係を確認すると、その時点から相手は自分の(あるいは自分が相手の)「ウリ」となります。ですから、韓国人は初対面でいきなり名前だけではなく、年齢や職業、学歴などの個人情報を根掘り葉掘り聞いてきます。
韓国人的にはそうすることが相手に対する(あるいは自分に対する)礼儀であって、そうしないということは相手を(あるいは自分を)「ウリ」として認めない、即ち相手を(あるいは自分を)「ナム」として無視する対象であると意思表示することになり、大変な無礼になるという感覚ではないかと推察します。
日本でもしも秘書なり受付なりが「社長の鈴木様はまもなくお越しになられますので、こちらでお待ち下さい」などと言えば、その来客は間違いなくその秘書や受付個人だけではなく、会社全体の教養と体質を疑うでしょう。
それと同じく、韓国で「社長のキムはまもなく参りますので、こちらでお待ち下さい」などと言えば、その来客(が韓国人であればw)は「自分はこの会社全体から無視された」と感じ、不快に思うことになるのでしょう。
日本語の敬語では、来客から見た我が社は「他者」(「他社」でも良いですがw)という、来客にとっての別個の存在であることを認識していることを示し、会社全体として来客に対して謙ることで他者(他社)を尊重していることを表現するわけです。
対する韓国では、初めて見る来客であっても「ナム」として接することは大変な失礼に当たります。韓国人にとって「ナム」とは存在を認めない存在だからです。
「ナム」とみなすことが失礼に当たる以上、「ウリ」として遇するのが当然ですから、来客といえども「我が社」にとっては「ウリ」であり、「我が社」の「ウリ」であれば、来客であっても「我が社」で最も尊重されるべき「社長」より下の存在になるという理屈が、韓国の絶対敬語に現れているのではないでしょうか。
本来「言葉」とは、「他者」という「自分以外」の存在との意思疎通のために発達してきたものであり、「他者」の存在がなければ言葉など必要ありません。即ち、「言葉」を用いるということは「自他」を認識することと言っても良いでしょう。
しかし韓国人には「自他」という概念がありません。「ウリ」「ナム」とは「自他」という概念とイコールでは全くなく、「自分自身」と「それ以外」という認識なのです。
「自分自身」が相手ならば言葉が曖昧だったり意味不明だったりしても何ら問題ありません。「自分自身」が「自分自身」の意思を理解するのに「言葉」など本来必要ないからです。対する「それ以外」とは「存在を認めない存在」、即ち「無視する存在」ですから、意思疎通の必要性そのものが最初からありません。
そう考えると、韓国人の発する「言葉」が非常にしばしば意味を持たないのは、なるほどそういうことなのかと思ったり思わなかったりする次第です。