韓国は失敗を許容する国になれるか
例年ですと韓国人同士で「韓国人がノーベル賞を取れない理由」や「韓国人がノーベル賞を取るために必要なこと」をグダグダニダニダああでもないこうでもないと言い合っていたのですが、今年の中央日報では外国人にそれを言わせているのが目に付きました。
その中のひとつが、日本人(と思われる)記者が書いた【コラム】日本のノーベル科学賞の秘訣は失敗・変わり者を認めたおかげという記事です。
これは毎日新聞のソウル特派員が書いた記事ですが、要は「韓国社会はノーベル賞を取るのに適した社会ではないので、ノーベル賞にこだわらず、もっと韓国人に適した栄光を模索した方が良い」という主張と私は理解しました。
しかし、韓国でこの主張はまず理解されないでしょう。何故なら、彼らは「自分たちに適した栄光」では満足出来ないからです。
彼らは既に「自分たちに適した栄光」とやらを盛んに獲得しています。例えば半万年の歴史然り、万物起源説然り、ハングルは世界最高言語説然り、韓国人は世界最優秀民族説然りと、彼ら自身によるお手盛りの「栄光」は枚挙に暇がありません。
ですが世界中のどこの国も、それらをもてはやしません。韓国人が必死でウリナラマンセーしても、どの国も同調しません。稀にそういうニュースが報じられることもないわけではありませんが、ほとんど韓国人や韓国系の発信か、そうでなければオモシロ(あるいはトンデモ)ニュース扱いです。
彼らは、既に「韓国ならではの魅力」や「韓国らしく輝かしい道」を喧伝しています。ですがそれに呼応するのは「ウリ(韓国人か韓国人に同化している人々)」ばかりで、それ以外の人々は良くて愛想や世辞で、悪ければ無視や否定なのです。韓国人は、そういうお手盛りの「魅力」や「輝かしい道」ではなく、世界中の全ての人々から無条件且つ絶対的に賞賛された証しとしての栄誉が欲しいのです。そのひとつが、ノーベル賞なのです。
ですので彼らがノーベル賞を諦めることは、恐らくノーベル賞が本当に世界中の人々から価値なきものと判断され、無視されるようになるまでありません。そうなる前に韓国が消滅する方が早い気がしますが、それはさておき。
この中央日報の記事のように、韓国人がノーベル賞を取るには、失敗や多様性を許容することが必要であるという指摘は大変よくあります。多様性についても疑問符は付きますが、それ以上に韓国人が他人の失敗を許容出来るようになり、韓国が失敗を許容する国になることが出来るだろうかという疑問は極めて大きいものがあります。
どれほど緩く考えても、韓国人が他人の失敗を許容するようになることは極めて難しいと言わざるを得ません。韓国人は、基本的に他者の失敗を許容出来ないというよりは、意識的に「しない」のです。
韓国人にとって失敗は敗北であり、敗北は全ての終わり、即ち「死」に限りなく近いということは、「続「韓国人がノーベル賞を取れない理由」」にも書きました。だから彼らは自らの失敗を決して認めようとしないのだと。
では逆に、これが自分の失敗ではなく、他人の失敗であればどうでしょうか。
韓国人にとって他人の失敗は自分の勝利であり、勝利は敗者の生殺与奪の権を得ることを意味します。ですから、彼らは如何なる手段を用いてでも勝とうとしますし、どうしても勝てない場合は、如何なる手段を用いてでも相手に失敗させようとします。これは彼らのスポーツにおける姿勢や態度を見れば、説明や証明の必要はないでしょう。
韓国人にとって、物事は全て上下で判断され、それは極めてナチュラルに勝敗として理解されることになります。上の者は勝者として下の者を虐げ、下の者は敗者として「恨(ハン)」を募らせるのが、韓国の基本的且つ根本的な社会構造です。
もし彼らが他人の失敗を許容すれば、それは即ち自らの勝者としての地位を自ら放棄する行為となります。そうなれば、韓国人の感覚では、敗者が勝者となり、勝者のはずの自分が敗者となってしまいます。つまり「他人の失敗を認める」ことは、韓国人にとっては自殺行為に等しいと言っても過言ではないのです。
自分の失敗を認めないことで自らの敗北、即ち自らの死を回避しようとする韓国人が、他人の失敗を認めて自らの敗北、即ち自らの死を受け容れることなど、自主的にするはずがありません。
韓国人が他人の失敗を許容する人々とならなければ、国家としての韓国が失敗を許容する国になれるということは考えられません。それは例えば、韓国の一卵性結合双生児国家である北朝鮮を見てもよくわかります。北朝鮮の首領様は初代から当代三代目に至るまで、失敗したことがないとされています。
朝鮮人社会では恐怖政治を敷き、強大な権力を掌握している独裁者でさえ、失敗すれば敗北者と見なされ、追い落とされかねないのです。いわんや、どれほど優秀な学者や研究者であっても、一般人をや、です。
韓国人が失敗を許容しないのですから、韓国という国が韓国人で構成されている限り、失敗を許容する国になれる期待はほとんど持てません。唯一、国家としての韓国が失敗を許容する国となるために考えられる方法は、韓国人以外の(≒失敗を敗北とみなさない)人々が韓国という国家を構成することです。最低でも韓国人が韓国における絶対的少数民族となることです。それが出来れば、韓国も失敗を許容する国になれるかもしれません。
そうなった場合、その国を韓国と言い得るかどうかに少々の疑問は残りますが。
コメント
将軍様を一目見れば失敗した事ないかどうかわかりそうなものですが、意識的にしろ無意識にしろ「ない」という事にしてしまえるところが怖い社会だと思います。人として大事な直感を自分達で殺してるように見える。ノーベル賞取れないのはそういうとこのせいもあるような気が。
>自分達で殺してるように見える
おお、まさにそれですね
同じく古参の楽韓さんも韓国を「息苦しい社会」と言っておられますが、善良で良識のある人間が生きるには少々せせこましい国情だと思います
御礼
本日、過去記事を全て読了しました。
年代も大体同じ位のようで、自分の子供の頃からのこととオーバーラップさせながら感慨深く読ませて頂きました。
そうとは知らず、左傾教育を受けてきたせいか、若い頃は日本人であることが恥ずかしいとまで思ったこともありました。
それが変わるきっかけになったのは、タイに旅行したことです。
細かいことは省きますが、何かこう補助線を引けるような気がして日本の事を調べて見ようと少しずつ本を読み出したのです。
それでも教育やマスコミによる刷り込みは強く、確信に近いものを持てたのは40過ぎてからでした。
私の住む場所は在日が多く、子供の頃祖母から「シナ人や朝鮮人と関わったらあかんで」と時折言われた事を思い出します。
子供心に人間皆同じだみたいなことを言ったように思いますが、祖母は「普段はそうやけど、何かあった時に違うねんから」と言っていました。
今にして思えば、学校で習った事の方が間違っていたと痛感します。
兄の方は、大反発して祖母を寝込ませてしまったそうですが、その時母が「お祖母ちゃん、今はそんな事言うたらあかんことに成ってるからね」とたしなめて居たことを思い出します。否定していない所が凄いですね。
これからも宜しくお願いします。
失敗者の末路
リンク先の中央日報のコラムには、韓国社会で失敗したら実際にどうなるかは書かれていませんね。
韓国人といっしょに韓流イベントをやっていたというイベント会社の女社長のブログによると、韓国社会では一度レールから外れると、犯罪者みたいな生き方しかないそうです。
【実録】逃げる韓国人!追いかける日本オンナ
~ケンチャナヨ~ビジネスで逃げられた日本オンナの痛韓日記~
http://ameblo.jp/yoko-0401/entrylist.html
韓国財閥系会社の社員はやはり違う!と実感した日。詐欺師の彼らとは顔付きからして違う
http://ameblo.jp/yoko-0401/entry-11922357802.html
>海千山千で、一発あてようとする輩と、1流企業の研究者とでは雲泥の差。
>なので、ここで取引を開始した人達は、どんなに小会社の方々でも
>某財閥系会社勤務経験があるので、やはり約束は守ってくれたし、安心できる。
>日本のように小さい会社がベンチャーでビッグになる・・
>というサクセスストーリーはなかなか難しいかもしれない。
>何故ならば良識と常識と頭脳を持つ韓国人はやはり1回は大会社へ入る。
>親がこぞって有名大学に入らせたがる気持ちもわからないでもない。
>だって、有名大学に入らなければ大会社に入れない。
>小さな会社では詐欺師同様のことをする人間に育ってしまうのだから。
韓国人社会がそういう社会である以上、精神論ではどうにもならないでしょうね。
いつも思うけど、何でこんなに自ら生きにくい社会にしてしまうのでしょうかね?
何でもっと柔軟に考えられないんだろう?
どうしてもわかりません。
とにかくこんな国は日本に関わってこないでほしい。
韓国人の言う「ウリ」
子供が偉人伝を読んで「自分も病気に苦しむ人を助けたい」と、医学の道を志したとしたら、「赤の他人(ウリ以外の奴ら)を喜ばせるために、お前を大学に行かせたんじゃない!」とか言いそうですね。
日本人なら、自分の子供が世のため人のためになる仕事をしてくれれば、「こんなに嬉しいことはない」と思うでしょう。
私は昔、韓国人の言う「ウリ」を日本語の「私・私たち」と思っていましたが、「もっと異質なものではないか? そう考えれば理解できる」と考えています。
ケモノにとって「ウリ」とは、血の繋がった「自分と自分の生んだ子供だけ」です。「ウリ」を守るために縄張りを作り、同種同族同士で牙をむき、殺し合います。弱い個体は強い個体に駆逐され、強い個体の子孫のみが繁栄していきます。
それが自然の摂理だとするならば、韓国のみならず、北も含めた「朝鮮民族」そのものが、人間の理性で理解し難い、「生物らしい生物」なのではないかと思ってしまいます。
失敗と責任とケンチャナヨと
韓国は他者を断罪するのが大好きですね。正義になれるし上位になれるし。
韓国人に責任感が育たないのはそのあたりの風潮が大きく関係してそう。
その一方で、他者の罪を(寛大に)許すことも好きなところがありそう。
そのケンチャナヨさが韓国人に反省の気風が育たない原因でもありそう。
スラポンさん
>子供の頃祖母から「シナ人や朝鮮人と関わったらあかんで」と時折言われた事を思い出します。
それ、私もまさしくそうです。
>子供心に人間皆同じだみたいなことを言ったように思いますが、祖母は「普段はそうやけど、何かあった時に違うねんから」と言っていました。
それもまさしく同じです。
差別をなくす教育や道徳の授業で、人類皆平等、全ての人を偏見の目で見てはいけない。
こういう教育を受けた世代です。
その思想自体はすばらしいと子供心に思いました。
が、やはり祖母の世代は経験から注意をしてくれたんだな、と今は素直に思えます。
スラボンさんの祖母様のお言葉、『普段はそうやけど、何かあった時は違うねんから』。これほど簡潔に朝鮮人・中国人の本質を表した言葉を私は知りません。日本の先人は賢明だったんですね。そして素晴らしい祖母さんですね。
スラポンさん
こんばんは。スラポンさんの祖母のお言葉に色々考えさせられることが多いです。自分自身にはそういう直接的な経験はありませんが、映画とかドラマとか書籍の歴史ものに見られる朝鮮人への差別みたいな感情の原因って何だろうな?とずーっと思っていました。最近の嫌韓ブームで色々と調べたりするうちに、昔の日本人が朝鮮人を嫌うようになった経緯が何となくわかるようになりました。慰安婦ガー問題とかが発生するはるか昔から、個人的レベルの朝鮮人との付き合いにおいてその未開な人間性や性情に日本人は辟易していたのだと思います。
ちょっと質問ですが、過去記事に情が厚いというのもありますが、よく韓国人は自分たちのことを情があるとか言いますよね。この情があるという表現がピンとこないのですが、単に感情の起伏が激しいや法より情が優先される社会という意味なら納得出来ますが、それってマイナスイメージですよね?まさかそんなマイナスイメージで韓国人が自分たちを情のあると表現しているとは思えませんが。韓国人が言う情のあるっていう韓国の良さって何ですか?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%B3%A1%E3%82%92%E6%B8%A1%E3%82%8B%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3
実際にはこういう方もいたみたいですが、あくまでも日本でですからねぇ。
戦前大陸へ行っていた祖父が良く言っていたのが
「朝鮮人はズルいんだよ。」です。
子供の頃は良く分からなかったのですが、今になると良く分かるなぁ。