韓国人の「弘益人間」
来月2日に開催が決まった日韓首脳会談ですが、韓国の中央日報日本語版に「<韓日首脳会談>朴大統領と安倍首相、初めての会談で顔を赤らめる?」という記事がありました。
私の国語感覚では、「顔を赤らめる」と言えば「恥じらう」とか「照れる」という意味に解釈されます。ですので「何故安倍総理と朴槿惠大統領が首脳会談で照れたり恥じらったりするんだろう?」と不思議に思いました。
記事を読んでも、安倍総理と朴槿惠大統領が互いに恥じらいあうことになるかもしれないという理由がよくわかりません。もしかするとこれは「(双方の意見が対立して妥協点が見つからず)互いに顔を真っ赤にして憤る」という意味なのかと思って原文を当たってみたのですが、朝鮮語でもこの表現は一般的には「恥じらう」「照れる」と解釈するようです。
日韓首脳会談について、韓国ではものすごい勢いで憶測やら下馬評やらが飛び交っており、真面目に考察する価値のあるものはほとんどなさそうで、この記事もそのひとつと理解して深く考えないのが一番適切なのかもしれません。
ただこの記事内に「朴大統領が普段から首脳会談で特定の懸案に対して執拗に食い下がりながら相手国首脳から確答を引き出した事例が少なくなく、今回も同様のスタイルを維持するのではないかと言われている」とあるように、韓国人が大好きな「押して駄目なら押し倒せ」を朴槿惠大統領が実行することに、韓国国民が多大な期待を抱いているということは確かだと思います。
安倍総理には、「押さば引け、引かば押せ」の精神で韓国人の猪突猛進をいなして欲しいと思います。
さて今回もコメントで頂戴したご質問をお題にさせて戴きます。ご質問下さった方には深く厚く御礼申し上げます。
ご質問にお答えする前に、「弘益人間」について簡単に説明しておきます。これは三国遺事の檀君神話に出てくる言葉で、「弘(=広)く人間に益する」という意味です。ここで用いられている「人間」は、日本語では「人間到る処青山あり」と同じく「ニンゲン」ではなく「ジンカン」と読むべきであり、「人の間」即ち「社会」の意味になります。
韓国ではこの「弘益人間」を教育理念としており、韓国の有名私立大学のひとつである弘益大学の名称も、この「弘益人間」を由来とするそうです。
さて、「弘益人間」を日本人的に理解すると、「自分一人だけの狭い範囲の利益を考えるのではなく、広く社会全体の利益を考える」即ち「自利利他」とか「滅私奉公」に通じるようなイメージが濃厚にあります。
しかしながら前回記事で申し上げた通り、彼らに「広く社会全体の利益を考える」という思考回路は、全く無いように見受けられます。にも関わらず、彼らは「弘益人間」を韓国人の理念であると唱えて何の疑問も矛盾も、もちろん廉恥も感じていないように見えます。
それは何故なのかというのが、今回のご質問になると思うのですが、これはタネを明かせばそんなに難しい話ではありません。彼らにとって「人間」即ち「社会」とは「ウリ」であるということを思い出して戴ければ、謎はたちまち解けるはずです。日本人的に「広く人間(ジンカン=社会)に益する」と理解するから疑問や矛盾が生じるのです。
彼らにとって「人間(=社会)」とは「ウリ(=自分自身)」そのものであって、彼らにとっての「弘益人間」とは「他者(ナム)をウリに入れてやる」「他者(ナム)をウリとして考えてやる」ことなのです。この「他者(ナム)をウリに入れてやる」「他者(ナム)をウリとして考えてやる」という意識は、実は韓国人には極めて普遍的にあります。
例えば「多文化共生」という掛け声は、韓国では大変盛んです。これを以て「日本より韓国の方がグローバルだ」と主張する人も少なくないぐらいです。これもまた「ナムをウリに入れてやる」という「弘益人間」の理念に基づいたものでしょう。
過去に弊ブログで何度か、東南アジア系と欧米系(白人)の外国人がそれぞれ韓国で道を尋ねるという実験番組の動画を取り上げたことがあったと思います。
この番組では実験に先立ち、数名の韓国人に結果予想をインタビューしておりました。その答えはいずれも判で押したように「相手の人種によって態度を変えることはないと思う」というものでした。
結果は、欧米系の外国人にはほとんどの韓国人が極めて親切で、地図を眺めながら道端に佇んでいるだけで、英語で話しかけて道を教えてくれるのですが、東南アジア系の外国人に対しては、韓国人のほとんどが冷淡どころか「存在そのものを認めない」態度、即ち東南アジア系の外国人が韓国人に近寄ってきて道を尋ねようと話しかけても、ほとんどの韓国人が目も合わさず立ち止まりもせず、と言うかそもそも話しかけられたことに反応すらせず、立ち去ってしまうのです。
彼らにとって憧憬の対象である白人は無条件で「ウリ」にカテゴリするのですが、彼らにとって東南アジア系外国人は無条件で「ナム」であり、「ナム」は彼らにとって「存在しないもの」なのです。
番組のオチは何度も何度も何度も(中略)何度も無視され続けた東南アジア系外国人にも、やがて親切に道を教えてくれる韓国人が登場するというものでした。
これを以て「ウリには本来あのような弘益人間の精神があるのだ」みたいな結論に持っていったのではないかと思うのですが(朝鮮語のナレーションがわからなかったので定かではありませんw)、私があの東南アジア系外国人だったらあんなに辛抱強く道を尋ね続けることなんか出来ません。三度あんなふうに韓国人に無視されたら、心が折れて泣きながらホテルに戻って韓国を離れるための荷造りをすると思います。
多分彼らには「弘益人間」の理念を実践してきたという自負が、大いにあると思います。ただ彼らの理解している「人間(=社会)」と、私たちが考える「人間(=社会)」が同じではないために、私たちから見ると韓国人が「弘益人間」の理念を実践しているようには、微塵も見えないだけなのです。
もしかすると、彼らが何かにつけウリナラ起源を唱えたがるのも、それを以て「ウリは広く人間に益してるニダ」という考えたいからかもしれません。
私の国語感覚では、「顔を赤らめる」と言えば「恥じらう」とか「照れる」という意味に解釈されます。ですので「何故安倍総理と朴槿惠大統領が首脳会談で照れたり恥じらったりするんだろう?」と不思議に思いました。
記事を読んでも、安倍総理と朴槿惠大統領が互いに恥じらいあうことになるかもしれないという理由がよくわかりません。もしかするとこれは「(双方の意見が対立して妥協点が見つからず)互いに顔を真っ赤にして憤る」という意味なのかと思って原文を当たってみたのですが、朝鮮語でもこの表現は一般的には「恥じらう」「照れる」と解釈するようです。
日韓首脳会談について、韓国ではものすごい勢いで憶測やら下馬評やらが飛び交っており、真面目に考察する価値のあるものはほとんどなさそうで、この記事もそのひとつと理解して深く考えないのが一番適切なのかもしれません。
ただこの記事内に「朴大統領が普段から首脳会談で特定の懸案に対して執拗に食い下がりながら相手国首脳から確答を引き出した事例が少なくなく、今回も同様のスタイルを維持するのではないかと言われている」とあるように、韓国人が大好きな「押して駄目なら押し倒せ」を朴槿惠大統領が実行することに、韓国国民が多大な期待を抱いているということは確かだと思います。
安倍総理には、「押さば引け、引かば押せ」の精神で韓国人の猪突猛進をいなして欲しいと思います。
さて今回もコメントで頂戴したご質問をお題にさせて戴きます。ご質問下さった方には深く厚く御礼申し上げます。
韓国人と弘益人間について質問 今回の記事の人類やウリナムの部分を読んでて唐突に思い出した言葉があります。 韓国人の、自分たち韓民族が世界の中でも特に道徳的に優れた人種であると 自己認識している根拠に「弘益人間」精神というものがあるそうです。 韓国知識が不足している自分の頭では「弘益人間」の理念と韓国人の優越性に どんな繋がりがあるのか全く理解できませんでした。そこで質問があります。 韓国人は自分らが「弘益人間」の体現から程遠いことを理解できているはずで、 そこに誇りを持つどころか逆に己の劣等性を恥じ入るところだと思うのですが、 彼らに「弘益人間」の理念を実践してきたという自負はあるのでしょうか? 2015/10/29-01:28 | URL | 名無三 #-[ Edit] |
ご質問にお答えする前に、「弘益人間」について簡単に説明しておきます。これは三国遺事の檀君神話に出てくる言葉で、「弘(=広)く人間に益する」という意味です。ここで用いられている「人間」は、日本語では「人間到る処青山あり」と同じく「ニンゲン」ではなく「ジンカン」と読むべきであり、「人の間」即ち「社会」の意味になります。
韓国ではこの「弘益人間」を教育理念としており、韓国の有名私立大学のひとつである弘益大学の名称も、この「弘益人間」を由来とするそうです。
さて、「弘益人間」を日本人的に理解すると、「自分一人だけの狭い範囲の利益を考えるのではなく、広く社会全体の利益を考える」即ち「自利利他」とか「滅私奉公」に通じるようなイメージが濃厚にあります。
しかしながら前回記事で申し上げた通り、彼らに「広く社会全体の利益を考える」という思考回路は、全く無いように見受けられます。にも関わらず、彼らは「弘益人間」を韓国人の理念であると唱えて何の疑問も矛盾も、もちろん廉恥も感じていないように見えます。
それは何故なのかというのが、今回のご質問になると思うのですが、これはタネを明かせばそんなに難しい話ではありません。彼らにとって「人間」即ち「社会」とは「ウリ」であるということを思い出して戴ければ、謎はたちまち解けるはずです。日本人的に「広く人間(ジンカン=社会)に益する」と理解するから疑問や矛盾が生じるのです。
彼らにとって「人間(=社会)」とは「ウリ(=自分自身)」そのものであって、彼らにとっての「弘益人間」とは「他者(ナム)をウリに入れてやる」「他者(ナム)をウリとして考えてやる」ことなのです。この「他者(ナム)をウリに入れてやる」「他者(ナム)をウリとして考えてやる」という意識は、実は韓国人には極めて普遍的にあります。
例えば「多文化共生」という掛け声は、韓国では大変盛んです。これを以て「日本より韓国の方がグローバルだ」と主張する人も少なくないぐらいです。これもまた「ナムをウリに入れてやる」という「弘益人間」の理念に基づいたものでしょう。
過去に弊ブログで何度か、東南アジア系と欧米系(白人)の外国人がそれぞれ韓国で道を尋ねるという実験番組の動画を取り上げたことがあったと思います。
この番組では実験に先立ち、数名の韓国人に結果予想をインタビューしておりました。その答えはいずれも判で押したように「相手の人種によって態度を変えることはないと思う」というものでした。
結果は、欧米系の外国人にはほとんどの韓国人が極めて親切で、地図を眺めながら道端に佇んでいるだけで、英語で話しかけて道を教えてくれるのですが、東南アジア系の外国人に対しては、韓国人のほとんどが冷淡どころか「存在そのものを認めない」態度、即ち東南アジア系の外国人が韓国人に近寄ってきて道を尋ねようと話しかけても、ほとんどの韓国人が目も合わさず立ち止まりもせず、と言うかそもそも話しかけられたことに反応すらせず、立ち去ってしまうのです。
彼らにとって憧憬の対象である白人は無条件で「ウリ」にカテゴリするのですが、彼らにとって東南アジア系外国人は無条件で「ナム」であり、「ナム」は彼らにとって「存在しないもの」なのです。
番組のオチは何度も何度も何度も(中略)何度も無視され続けた東南アジア系外国人にも、やがて親切に道を教えてくれる韓国人が登場するというものでした。
これを以て「ウリには本来あのような弘益人間の精神があるのだ」みたいな結論に持っていったのではないかと思うのですが(朝鮮語のナレーションがわからなかったので定かではありませんw)、私があの東南アジア系外国人だったらあんなに辛抱強く道を尋ね続けることなんか出来ません。三度あんなふうに韓国人に無視されたら、心が折れて泣きながらホテルに戻って韓国を離れるための荷造りをすると思います。
多分彼らには「弘益人間」の理念を実践してきたという自負が、大いにあると思います。ただ彼らの理解している「人間(=社会)」と、私たちが考える「人間(=社会)」が同じではないために、私たちから見ると韓国人が「弘益人間」の理念を実践しているようには、微塵も見えないだけなのです。
もしかすると、彼らが何かにつけウリナラ起源を唱えたがるのも、それを以て「ウリは広く人間に益してるニダ」という考えたいからかもしれません。