韓国人は極めるということがない
もちろん「学ぶ」とは「真似ぶ」が語源と言われるように、最初はお手本を完璧にトレースすることが「学ぶ」ことです。空手や柔道、あるいは生け花や茶道などでも「型(形)」と呼ばれる「確立されたお手本」があり、初心者はこれを覚えることから始めると聞きます。
ですから、「型(形)」から入ることが悪いわけではありません。問題は、そこから先です。
「型(形)」で到達出来るレベルには、どうしても限界があります。何故なら人は体型も身体能力も思考もひとりひとり違いますし、状況もその時その場所で変わります。「型(形)」は、どんな人でもどんな状況でもいつでもどんな場所でも、だいたいこれぐらい出来ていればなんとかなる、という程度のものであって、そこから先を目指すのであれば、習得した「型(形)」に更に自分なりの創意工夫を加えることが必要になります。
即ち、何につけ何かを極めるには「型(形)」を覚えてからがスタートと言えるでしょう。しかし韓国人は、「型(形)」を覚えてしまうだけで終わることが多いのです。
それでも「型(形)」を完璧に覚えるのであれば、まだ良いでしょう。たとえ「型(形)」でも、それを極めれば独創性はなくとも、せめてその「型(形)」を正確に次に伝えることが出来ます。
ですが韓国人は、8割でパペクトです。余談ですが「パペクト」とは「perfect」の朝鮮訛りです。が、韓国人はこの発音でパペクトと思っていますw
余談はさておき、8割パペクトの彼らは、「型(形)」の習得すら8割で終わってしまうことが多いのです。
日本文化は模倣文化だと韓国人は揶揄します。確かに、日本の文化には模倣から入ったものが少なくありません。しかし同時に、日本の場合模倣で終わるということがありません。
日本人には昔からオタク気質の人が多いのか、学んだこと真似たことを完璧にするだけでは飽き足らず、そこから更に先へ進もうとする人が少なからずいました。また日本に伝わった文化をそのまま日本で再現しようとしても、様々な条件で出来なかったものもあるでしょう。そこで「出来ない」と投げ出すのではなく、与えられた条件の中でどうにかして完成させようと試行錯誤する内に、オリジナルを超えてしまうことが、日本ではちょくちょくあります。
現在日本文化とされているものの多くが元となるお手本文化の模倣から始まったものだとしても、日本人がそれを極めることで独自の文化として昇華させたのは事実です。
対する朝鮮文化、あるいは韓国文化でも良いのですが、これらにも完全にオリジナルの文化というものはほとんどありません。
そもそも朝鮮は歴史的に事実上の中国の一地方と言って良いほど、中国の文化に傾倒あるいは依存してきました。彼らが誇るハングルでさえ、いくつかの点で漢字の強い影響を受けていることは過去にも述べたとおりです。
韓国あるいは朝鮮にも、固有文化や独自文化と呼び得るものが存在する可能性まで否定するつもりはありません。しかし彼らがそれらの「型(形)」を定め、その継承と研鑽に努めたことがあるかと言えば、それには私は否定的です。
韓国では、秀吉の朝鮮征伐を「陶磁器戦争」と呼ぶことがあるそうです。秀吉と戦国武将たちが、朝鮮の優れた陶磁器と陶工を得るために侵略を始めたと信じられているからです。
それほどまでに優れた(と韓国人が信じている)朝鮮陶磁器文化は、今どうなっているでしょうか。
朝鮮征伐当時、日本に強制連行された(と韓国人が信じている)朝鮮陶工の末裔は、今も日本で陶磁器の製作を続けておりますが、現在の韓国では食器に陶磁器を用いることすら少なくなっています。
別に古い時代の文化に限りません。近代や現在の文化であっても、韓国が独自文化を極める努力をしていると言えるでしょうか。
何でも良いです。韓国が世界に向けて高らかに誇ったものをひとつ思い出し、それが現在韓国でどうなっているかを調べてみてください。おそらく、ことごとく惨憺たる状態になっているのではないでしょうか。
8割の習得度であっても、「型(形)」に従っていればそれなりのものまで持っていくことは出来ます。しかし「それなり」から抜け出るには、8割の習得度では難しいですし、ましてやそれを独自のものとすることは不可能と言っても良いでしょう。
「型(形)」を徹底的に習得し、更にそれを突き破ってオリジナルを確立するには、義務や強制では続きません。それが好きで好きで、苦しいことやつらいことがあったり、カネになるわけじゃなかったりでやめようかと思ってもやっぱり続けたくて、他人に認めてもらうことだけが目的ではなく、自分でとことんまで納得するためにやるというのでなければ、何かを極めることは出来ないのではないでしょうか。
韓国人は何をやるにしても、「好きで楽しんで自ら進んでやってる」ということがあまりありません。好悪よりは損得でやるやらないを決める感が強く、結果として義務や強制でやってるという人が多いように感じられます。
それが上手くいってる間は得意満面でやるのですが、限界に突き当たるとかどうしても追い越せないライバルが登場したりして、上手く行かなくなると彼らは途端にやめてしまうのです。
現在何かを極めたと誰もが認めるような人にも、一度や二度の挫折や苦境はあるはずです。それでもやり続けることが出来るほどそれが好きで好きでたまらないということが、何かを極めるためにどうしても必要なことなのでしょう。
韓国人を観察していると、彼らにはそういう素養が決定的に欠けているように見受けられます。これは韓国人社会全体の意識の問題が大きいのではないかと思います。成功しか認めず、一度でも失敗すれば即社会的な死を意味するような社会では、好きなことを突き詰める人生を選ぶことは、あまりにもリスクが大き過ぎて出来ないのかもしれません。
彼らが不断の努力を厭い、拙速に成功の果実だけを欲しがる横着者ということも、大いに影響しているとは思いますが。
コメント
だから文化も育たない
韓国ウォッチを始めてまず驚いたのが「韓食(韓国料理)」と「韓服(チマチョゴリ)」についてですね。韓食や韓服の評価は、じつは韓国人自身の間でも低くて、「韓国の高級ホテルには韓食レストランがない」「韓服を着ているとホテルやレストランで入場を断られることがある」というのには驚きました。
日本の韓国料理店では瀬戸物の器に塗り箸で料理が出されますが、あれは日本料理や中華料理の食器をパクったもので、『本場』韓国では、昔の学校給食の食器のようなアルミやステンレスの器と箸なんですよね。
韓服やチマチョゴリも、せいぜい結婚式か、慰安婦デモのような愛国や政治的アピールをする時しか着ないようですね。
そもそも朝鮮には、「祭り」のような、みんなで着飾る「ハレの日」というものがありませんでした。
しかし私が読んだ本で、日本人の著者が「どうして韓国には祭りがないの?」と聞いたら、韓国人から返ってきた答えは「日帝に禁止されたから廃れてしまった。」だったそうです。なんでも「日帝」のせいなんですね。
最近で思い出すのはボーカロイドでしょうかね
日本の場合は、初音ミクが注目されて数ヵ月後には
競ってオリジナル曲を配信してましたし
海外のオタク達も混じって一大ムーブメントとなりました
現在では楽曲数は数万にも上っているようです
当時から韓国人たちも「ウリナラ言語に対応させろ」
「ウリが本気を出せばチョパーリの時代は終わる」などと大口を叩いてましたが
いざシユという韓国版が発売されても、楽曲で注目されることは終ぞ無く
発売後に唯一メディアで紹介されたシユの関連記事といえば
「音声担当のアイドルが恐喝で逮捕される」という、非常に韓国らしいものでした
いつも楽しみに貴殿のブログを拝見させていただいています。突然のことで申し訳ないのですが、質問の方をいくらかさせていただきます。
sp.ch.nicovideo.jp/ooguchib/blomaga/ar413795
他の方のブログの記事のリンクを貼っていいものか(それも2年以上前のものを)と思い悩んだのですが、貼らせていただきます。
fetiaさんは、こちらの記事をお読みになってどう思われますか。この記事によれば、韓国が反日なのは政府つまり国が、子供達に自民族を中心に考えるような教育を施しているからだ(つまり自民族中心主義⊃反日、日本蔑視)というふうに解釈できるのですが、そのことについてはどうお考えでしょうか。
fetiaさんは前々から、韓国人は日本に異常な執着を抱いているという旨のことをお書きになっていますが、その執着の強さというのはいかばかりのものなのでしょうか。私としましては、韓国人は中国や米国などに対しても、日本に対するそれに負けず劣らず執着しているように思えるのですが、どう思われますか。
また、韓国人が黒人や東南アジア人に対して根拠のない差別感情を抱いていることは有名ですが、白人に対してもそれと同じような(根拠のない)差別感情は抱いているのでしょうか。よく韓国人は、欧米人に対しては媚を売るというような事をよく聞くので、以前から気になっておりました。
長々としたものになってしまい申し訳ありません。お時間のあるときにでもご返答いただけたら幸いです。
ウリナリ起源主張然り
韓国人は目立つもの、注目を集めるものが好きですね。ご存知の通り他国の文化、特に日本が注目を集める物は、必ずウリナラ起源を主張します。現在のウリナラには、それが無いにも関わらずです。しかし仮に起源がウリナラにあったとしても、それを保存する力、或いは発展させる力が無ければ、所詮大した物ではありません。
韓国では起源国が偉いという独自の見解があるようです。しかし起源の根拠も怪しい物ばかりで、要は注目される文化の横取りを狙ったものである事は明らかです。そしてここでも管理人さんが仰る「極めずに」自分の物にしたい意図が見え見えです。
1 つの注目される文化が出来上がるまで、どれほど注目されない努力の積み上げがあったか、韓国人には分かりません。彼等は水面に出ている氷山の一角だけを見て「これがウリのものだったら....」と、憧れを抱くのです。才能も無くパッとしない目立ちたがり屋が注目を集めようと足掻く姿は、本当に見苦しいです。
ウリナラ起源主張然り
先ほどの投稿でタイトルにタイプミスがあったので訂正します。m(_ _)m
中国の科挙にならったモノと思われます。
日本のは「守破離」ってやつですね。初心者は「型・お手本を守る」、型が身に付いたら「型を破ってみる(応用力を付ける)」、それもできるようになったら「型から離れる(できるようになっているから型はもう不用)」。
日本人にとって型や基本は入り口でその後ろに深淵なる道が続いているんですが、韓国人は型が終着点でそこに如何に早く楽してたどり着くかが優秀さの指標なんでしょうね。
BlueBlue 様へ
朝鮮に「祭り」がないのは、朝鮮人には「地縁」(地域共同体)がないからです。
彼らには「本貫」(血縁共同体)があるので、血縁者(ご先祖様)を祀る祭りはあります。
同じ場所に住む人間は仲間ではない、というのが儒教の論理で、中韓人が帰化しないのもその思想あってのことです。
自分が記憶する限りブログ主さんがこの点に触れたことはないように思います。
横からの口出し失礼します。
朝鮮人は技術者や物作りをする者をどうして蔑むのだろう、と思っていましたが、どんなに素晴らしい物を作る人々も、彼らにとっては卵を産むニワトリくらいにしか思えないのかもしれません。
日本人だってニワトリに感謝こそすれ、尊敬し崇め奉ろうとまではしませんもんね。
だからこそ、卵どころかうんこぐらいしか作れないくせにニワトリに感謝もしなさそうな朝鮮人になおさらイラつくわけですが
もうそんな季節か
そろそろ、桜の季節ですね。
ソメイヨシノも、ある意味日本の極みの産物ではないでしょうか。