竹島問題の検討の検討Vol.2
まずは日本の主張、【2.日本が古くより独島を認知していたという点に関して】より。
日本の主張 (イ)日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知していた。このことは多くの文献、地図等により明白である。(注:経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本與地路程全図」(1779年)では現在の竹島の位置関係を正しく記載している。その他にも明治に至るまで多数の資料あり。) |
この主張に対する韓国政府の「検討」は以下の通りです。
□韓国の立場 °独島に対する認知は文献上、韓国が2百年以上早く、独島は鬱陵島から肉眼で眺めることはできるが、隠岐島からは全く見えない。°私撰地図である「改正日本與地路程全図」は独島を鬱陵島の隣に並べて併記しているが、独島が日本領であるというなら、並べて描いた鬱陵島に対しては何故日本領だと主張できずにいるのか? ° また、韓国の各種地図には対馬が記載されているが、それならば対馬を韓国の領土として認めてくれるのか? |
日韓チャットでしょっちゅう見かける屁理屈を、韓国政府の意見としてこういうところで見られるとは、マジで思いませんでした。日韓チャットに来る韓国子供も韓国政府の広報担当も大差ないってのが非常によくわかります。
ともあれ韓国政府の検討の検討行きます。
まず第一項、「独島に対する認知は文献上、韓国が2百年以上早く、独島は鬱陵島から肉眼で眺めることはできるが、隠岐島からは全く見えない。」ですが、この「文献上」というのは、1545年の世宗実録地理誌のことかと思います。
「世宗実録地理誌」には「于山、武陵二島在縣正東海中。二島相去不遠, 風日明, 則可望見。」という記述があり、「于山」=「竹島」(武陵=鬱陵島)と主張するつもりのようです。
この「于山、武陵二島在縣正東海中。二島相去不遠, 風日明, 則可望見。」という漢文は「于山、武陵の二島がまさに東海中にある。二島は互いに往来できて遠くない。風日清明ならば、望見することが出来る」とでも意訳できますでしょうか。
しかし竹島と鬱陵島は距離にして90km以上離れております。この当時どんな度量衡を用いて90km余を「遠くない」と書いたのかわかりませんが(朝鮮で度量衡が整備されるのは日帝統治以降)、この時代の風力や人力頼りな船で、海流の激しいこの海域を一日で往来するのは困難だったと思います。その距離を「遠くない」とは言えません。
1545年に書かれた「世宗実録地理誌」が、400年以上も後の日韓竹島論争を予見してこのような記述を残したとも考えにくく、むしろ「世宗実録地理誌」にある「于山」は「竹島」ではない、と考える方が普通に合理的です。
その次の「鬱陵島から竹島が見える」という意見は、日韓チャットでもしばしば聞く台詞ですが、馬鹿馬鹿しくて検討する気にもなりません。
90kmという距離をどう考えてるのか知りませんが、竹島は周囲わずか2km程度、最高海抜は157mです。これを90km離れたところから肉眼で見えるということは、50m四方のグラウンドに立つ身長157cmの女の子が
また実勢距離の90kmと言えば熱海から東京タワーまでの距離くらいです。東京タワーは竹島の海抜157mの倍以上の333mありますが、熱海から東京タワーが肉眼で見えるという話はとんと聞いたことがありません。
次項「私撰地図である「改正日本與地路程全図」は独島を鬱陵島の隣に並べて併記しているが、独島が日本領であるというなら、並べて描いた鬱陵島に対しては何故日本領だと主張できずにいるのか?」という文章には、思わず失笑しました。
日本の主張の根拠となる「改正日本與地路程全図」の信頼性を貶めようとして、わざわざ「私撰」なんて付け足すところが、あまりにもコマ人らしい論調です。そのくせその後の論調では「改正日本與地路程全図に基づいて鬱陵島の領有権を主張出来ないくせに」と言ってるところがあまりにも彼ららしく、微笑ましくて踏み潰したくなります。
彼らの「検討」としては「日本の竹島領有の主張が改正日本與地路程全図に基づくものであれば、その資料が同時に日本の竹島領有を否定してる」という論調に持って行きたかったのはよくわかりますが、その前にわざわざ自ら「私撰」なんて付け足しちゃってるところで台無しです。
これは「日本の物は何でも貶めたい」という彼らの潜在意識が時々表層化する現象で、日韓チャットでも非常にしばしば見られます。日本の実力を認めたくないという彼らの民族的主観と、認めざるを得ないという現実に挟まれて起きる捻じれ現象です。
この「私撰地図である「改正日本與地路程全図」は独島を鬱陵島の隣に並べて併記しているが、独島が日本領であるというなら、並べて描いた鬱陵島に対しては何故日本領だと主張できずにいるのか?」という意見についてはToron talkerのこのページが詳しいので是非ご参照ください。竹島論議の資料を改正日本與地路程全図だけに限定して言えば、鬱陵島を日本領土と主張することも出来ます。日本人はコマ人じゃないからやらないだけです。
↓
次いで第三項「また、韓国の各種地図には対馬が記載されているが、それならば対馬を韓国の領土として認めてくれるのか?」ですが、これもまた日韓チャットでも頻出される論調で、お前は駄々っ子かとほっぺた左右に引っ張ってグリグリしてやりたくなります。
これに対する反論は「地図に描かれてるということだけをもって竹島の領有権を主張してるのではない。日本が竹島を領有しているという意識が有ったという証拠として竹島が地図に描かれている資料を出したのだ」でしょうか。対馬を韓国領土と主張したかったら、地図以外の韓国領土を証明する資料を持ってきてから言いやがれ。
日本が竹島領有を主張する資料はてんこ盛りあるのに、それらを一切無視して揚げ足取りで反論するという討論パターンは、彼らの十八番です。
しかし、この「竹島問題の検討の検討」シリーズ、気軽に始めてみましたがかなり大変です。こうやって色々調べるのがめんどくさいから竹島問題から逃げまくってたのに、うっかり釣られてしまったような気がします(´・ω・`) 。これもフォースの韓国面に落ちたってことなんでしょうかね。
明日以降このシリーズを続けるつもりですが、日本の主張って10個ありまして、当然それに対する韓国政府の検討も10個あるんですよね。
最後まで気力持つかな・・・。
コメント
90km離れたところから157mの物が見えるということは、9km離れたところからだと、身長157cmの女の子ではなく、15m70cmの物が見えるのと同じではないでしょうか。
世宗実録にある、「風日清明ならば、望見することが出来る」という記述は、韓国側がしばしば切り札的に使う記述ですが、この文章の主語を考えると韓国側の主張は一気に崩れます。
まず、古代の朝鮮の領土概念では、半島は自分の領土、半島から見える島も自分の領土とされています。
なので、朝鮮の地理史では各島々について、半島から見た時の方角と距離を書くことが鉄則となっています。
そうです、「風日清明ならば、望見することが出来る」という記述も、半島から見たとき、晴れていれば鬱陵島が見えるという意味なのです。
この記述があるのは世宗実録地理史江原道襄陽縣ですから、江原道襄陽から鬱陵島を見た時の方角と距離が書かれているのです。
チョイと長いですが参考程度に
『別冊歴史読本 江戸の危機管理』4-404-02551-3
鳥取大 池内 敏氏 担当ページ
朝鮮人漂流民の送還と幕府の対応 より
半島生物の漂流件数・人数 1599-1872年
966件 9739
漂流民たちは漂流地から管轄大名の城下町へ移送されるが、そこでは御船倉
(萩藩)、侍屋敷(松江藩)、町会所(鳥取藩)、あるいは町人宅(松前藩)などに
収容された。江戸や長崎では対馬藩屋敷の中に宿所が設営され、対馬府中には
恒常的な施設「漂民屋」が設けられていた。また漂流民が官位を持った人の場
合には寺院が宿舎に当てられた。
松前や対馬府中では寺社参拝など外出の認められることがあり、1819年の鳥
取の場合には、付近で火災が発生して駕籠に乗せられて避難する事もあった。
しかし宿舎周辺には何人もの番人が配置されて行動の自由が制限されることの
方が多かった。そのため、同じ場所での滞在が長期にわたると、萩(1784年)や
浜田(1824年)では、不安になった漂流民たちが宿舎を抜け出して市中を徘徊し
騒ぎを起こすことがあった。
出された食事について、蝦夷地に漂着した漂流民たちは「毎日三度の食事の
時ごとに、ご飯・麺・酒を三回ずつ接待され、他に間食も出され」て満腹した
という。彼らの帰国途字、江戸から対馬への移動中は一汁二菜または一汁三菜
であった。鳥取では漂流地で粥や握り飯を食べさせ、その後も一汁二菜を基準
に食事を提供した。漂流民たちは皆大食で、病人でも2~3椀、元気ならば一度
に5~6膳食べ、米だけでも一日一人当たり一升から一升三合食べた。酒は出さ
ないと暴れるので一日に汁椀一杯だけ出したという。
長崎滞在中と長崎から対馬へ移送中の食事は幕府の管轄であった。また対馬
府中滞在中は対馬藩が提供した。それぞれの支給基準は「表2」の通りである。
これらの中に嗜好品の煙草が含まれているのは、漂流朝鮮人が煙草を大変好ん
だことが各地の漂流記録に見られるから、そうした点を踏まえての事と思われ
る。
これらのほか、それぞれの事情に応じて衣類・足袋・股引や布団などが支給
され、季節によっては蚊帳が貸与された。また対馬府中滞在中に年始を迎えた
場合などには祝い物としてスルメが振舞われた。あるいは漂流民が病気の時に
は服薬施療もなされ、「朝鮮療治」を望んだ場合には必要な水銀・雌鳥・焼
酎・晒木綿などが用意された(1780年・筑前、1844年・対馬)。また、妊婦が漂
着後に出産した場合、産着などが準備されただけでなく、漂着地で母乳提供者
を募って乳の世話もした(1733年・肥前)。更に牛馬と共に漂着した場合には、
その飼料(大豆五合・糠五合ほか)も支給された。漂着時に乗っていた船は、完
全に壊れて不用になった場合を除き、補修を加えて返還された。また、積荷は
沈没して紛失した物以外は全て漂流民の手元に返された。そして、これら救
助・送還過程で掛かった費用を、漂流民が負担することは一切なかったのであ
る。
表2 漂流民への支給基準(一人一日あたり)
長崎逗留中・長崎~対馬間(幕府から支給)
米7合5夕 味噌3厘6毛4 酒2合5夕 野菜5厘 薪5厘
魚1分6厘6毛
対馬府中滞在中(対馬藩の負担)
白米一升 味噌32匁 酒2合 銀1分 薪〆一合 塩3夕
煙草 割一匁、葉2匁 油有明1(一組あたり)
名無槽さん、
江戸時代からお人よしですね・・・、日本人は(苦笑)。
初めまして、毎日楽しみにしております。
900m離れて157cmの人だったら、アフリカやモンゴルの人だったら認識できるのでは?・・・
地球は丸いことをお忘れでは?・・・地球の周囲4万キロメートル、地球を真円と仮定すると直径約1万2千7百キロメートルになります。
その丸い地球の1点より90キロメートル離れた場所を見ようとすると、これまた単純計算ですが、海面もしくは地上より630m以上の高さが無ければ水平線、地平線の影に隠れ認識出来ないということになります。
こんな程度で突っ込まれちゃと思い、素人なりに計算してみました。
でしゃばりならば、ごめんね。
URIには、脳内補正がある2ダー
って、とこでしょうか
_| ̄|○⇒_|\○_⇒_/\○_⇒____○_
見えないものが、見えるようになったら、危ないですよw
(あっ、元からか...)
これはこれは
大変勉強になります。ありがとうございます。
だが、しかし。。。
確かにあらゆる角度から見て、歴史的には竹島は日本の領土だと断言できるでしょう。
しかし、困ったことがあります。
日本が正式に領土と宣言したのが1905年。
一方、下朝鮮が李ラインを引いて不法占拠を始めたのが1952年。
つまり、日本の領土期間=47年間、下朝鮮の不法占拠期間=54年間。(継続中)
いくら歴史的な根拠があるとは言え、あまりに日本政府は野放しにさせすぎてしまっているような気がします。
ある評論家は、国際法廷に出ても、50年以上指をくわえて見ているだけであったなら、それは領土放棄したも同然と捉えられても致し方ない、という方向にならないとも限らないらしいです。
竹島を奪還するための時間は、本当に残り少ないのかもしれません。
最近、歴史的根拠をメインにした楽観論が多いようなので、あえて警告させて頂きました。
本当になんとかせねば。。。
>大将さん
紛争化した時点で、実行支配は意味をなさなかったはずです。
つまり韓国が竹島を不法占拠し、日本製府が抗議した以降の54年(継続中)は無駄です。
いくらがんばっても支配の根拠になりません。