竹島問題の検討の検討Vol.3
と言うわけで懲りずに引き続き行きます。
3.渡海免許に関して
日本の主張 (ロ)江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。 |
□韓国の立場 °渡海免許は国内の島への渡航には必要のない文書であるため、これは鬱陵島・独島を日本の領土と認識していなかったという事実を立証する文書である。 ° また、すべての土地が領主のものである封建社会において、幕府が大谷や村川のような平民に独島を分け与えるというのは当時としてはありえないことである。 ° 日本の池内敏教授は、渡海免許自体に信憑性がなく、せいぜい1回用に過ぎないものであったと指摘している。 |
さて、主題となる【渡海免許】とかいうものですが、ワタクシ恥ずかしながらこれが何かよくわかりませんでした。色々ググってみたのですが、ある人はこれを「外国へ渡航するための免許、すなわち竹島を外国と認識していた証拠」と主張し(韓国政府はこの意見ですね)、ある人はこれを「竹島を商業利用するための免許」と主張していらっしゃいます(日本政府は多分こっちの意見)。
どちらがより説得力があるかと言えば、私的には当然日本政府側なんですが、これを他人に説得力を持たせて説明する自信はございません。
次の「すべての土地が領主のものである封建社会」ってのは何か違和感を覚えます。当時土地の私有制度って、普通にあったんじゃないでしょうか。この辺もちょっとググってみたんですが、何でか墾田永年私財法ばっかヒットします_| ̄|○
気を取り直して再度検索を掛けてみるとこのページが比較的わかりやすく説明していました。要するに当時の「土地の所有」は現在とは異なり、利用権のようなものだったと考えた方が良いようです。そうなれば、これは日本側の主張に整合性があります。
どうも韓国は、当時の日本の状況を同時期の李氏朝鮮時代の状況とオーバーラップさせてる感がありまして、日本の平民を朝鮮の常民(=常奴)的に考えてるようです。日本の身分制度というのは、少なくとも朝鮮の身分制度よりも柔軟性も流動性も高く、富農や豪商が金に物を言わせて様々な利権を買うことは珍しくありませんでした。
江戸から遠く離れた伯耆藩の、さらにそこから遠く離れた竹島を利用したいと言う者が居り、その結果幕府に相応の上納が期待出来るならば、幕府は普通に竹島を大谷・村川両家に下げ渡すでしょう。それを幕府が拒否しても何のメリットもありませんし、許可すれば当然その分の貢納があるわけですから。しかし韓国側は何を根拠にこれを「ありえない」と断言しているのか、是非知りたいところです。
次の「日本の池内敏教授は、渡海免許自体に信憑性がなく、せいぜい1回用に過ぎないものであったと指摘している」という文章は意味がわかりません。韓国側の立場としては、渡海免許は外国への渡航書類であったわけです。それに信憑性が無いということは、つまり竹島への渡航に必要な外国への渡航書類に信憑性が無いってことで、せいぜい1回用ってのもどう繋げたいのか意味不明ですが、要するに渡海免許の存在を否定したいのか肯定したいのか、どっちなんですか?>韓国
って言うか、池内敏教授って誰?って思ったのでググってみました。→結果
で、さらに引き続きググるとですね。どうやらこの「渡海免許自体に信憑性が無く云々」というご意見、「半月城通信」辺りがソースのようです。仮でも一応政府機関なんだから、池内敏教授の原著読んで書いてんのかなと思ったけど、孫引きのようでした。やれやれ。
関連があるので、こちらもついでに。
4.渡海禁止令以後の独島への渡航禁止に関して
日本の主張 (ハ)1696年、鬱陵島周辺の漁業を巡る日韓間の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」)、竹島への渡航は禁じなかった。 |
□韓国の立場 °1696年1月の江戸幕府の渡海禁止措置以降、大谷、村川の両家は破産に至った。もし独島渡航まで禁止したのでなければ、破産に至る理由はない。 ° 鬱陵島・独島に対する渡海禁止で、日本では「松島」「リヤンコ島」「ランコ島」「竹島」等、独島のみならず鬱陵島の名称までもが不明確化しはじめ、地理的な位置も完全に忘却するに至った。 |
この韓国側の意見については、大谷・村川両家が竹島渡海禁止によって破産したという根拠の提示が欲しいところですね。「竹島渡航を禁じていなければ、破産に至る理由は無い」と断言していますが、現在のマグロ漁船の船主なんかは目論見通りの収獲を上げられなければ、案外簡単に破産してます。船を出すのも人を雇うのもタダじゃないんですから。この当時の漁業は、現在の韓国漁業みたいに日本が育てた漁場で荒稼ぎしてたわけじゃないですしね。
次の「名称の不明確化」「地理的な位置の忘却」については、韓国側もそこを突かれると痛いんじゃないですか?と思いました。「松島」「竹島」の名称は多分「松竹梅」とか「いろは」と同じ記号的な命名でしょうし、「リャンコ島」「ランコ島」は単に竹島のフランス語名「Liancourt (リアンクール)」の日本語訛りです。
確か韓国も竹島を「于山」とか「鬱陵島」とか「石島」とか言ってませんでしたかね。韓国側が提示する地図を見る限り、竹島の位置はめちゃくちゃです。
ってことで、本日はここまでです。
しかし正直このシリーズしんどいですw だって知らんことばっかりですから。コメント欄の皆様のご意見や情報、ありがたく拝見しております。重ね重ね申し上げますが竹島問題関連については、筆者ど素人です。と言うかめんどくさいから逃げまくっておりまして、何も知りませんし、関連書籍の一冊も読んでおりません。
と言うわけで、皆様のご協力を、実はひっそり期待しておりますので、我こそはという方、是非コメント欄へ一筆お願い申し上げます<(_"_)>
コメント
> 幕府は普通に竹島を大谷・村川両家に下げ渡すでしょう。
幕府が直接町人に土地を授けるというのは極めて異例のことです。
江戸時代全体を通じて他に例があるのかどうか…。
竹島渡海免許だって幕府から鳥取藩主宛に出されて、それを鳥取藩主が改めて大谷家、村川家に交付しています。
> それを幕府が拒否しても何のメリットもありませんし
幕府が大名の所領を安堵し、その代わり大名は幕府に忠誠を尽くす、という幕藩体制の根幹に例外を設けることになるので「何のメリットもない」という意見には、俄かには賛成できません。
>「日本の池内敏教授は、渡海免許自体に信憑性がなく」
この韓国の意見は、私にも意味不明なのですが、「松島(現竹島)渡海免許」であれば、それが実際は渡海免許ではなく、それ以前から行なわれていた松島渡海に関する関係者間の利害調整を行なった文書に過ぎないことを述べていますから、それと混同しているかもしれません。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/ikeuchi1999.pdf
今回の日本の主張では松島渡海免許には何も触れていないんですけどね。
> 「せいぜい1回用に過ぎないものであったと指摘している」
これも意味が不明確で反論になっていませんが、想像を働かせると、上に示した論文の34ページ下段にある、次の記述のことかもしれません。
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こうした点を踏まえるならば、大谷・村川の竹島渡海について、徳川幕府が渡海のつど公式に再確認をしていたわけではないことが知られよう。とすれば、「元和四年竹島渡海免許」発給をもって、「かくて日本人による竹島(鬱陵島)の開発は幕府公認の下に本格化することになる」と評価することには躊躇わざるを得ない。
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ただ、これは「そこまで積極的な評価はできない」という意見であって、幕府公認で開発が始まったことは否定していません。また、数年に一度、大谷・村川の当主に「お目見え」を許し、竹島渡海事業に関する両者の特権的地位を確保させていたことは、同論文にあるとおりです。
知らぬ存ぜぬと言いつつも仕事の早いfetiaさん、素敵です(笑
竹島は日本領です
半月城氏は幕藩体制下ではすべての土地は領主に属する、領主のない土地はないと主張して鳥取藩の土地ではない竹島は日本領ではないと言っているが、実際には鳥取藩ではないので幕府の所管する土地になって幕府が開発許可の形で奉書を出したのです。つまり他に領主がいなければ幕管轄ということです。
町人に土地を与えた例は例えば「佃島」などが好例でしょう。これは家康の朱印状で町人に土地が与えられています。他にも商人などで幕府の財政活動に貢献した場合など、朱印状、黒印状でその商人の屋敷の土地を与えています。また、町人ではないですが寺社は土地を持っていましたので半月城氏の主張は成り立ちません。なお、家康の朱印状で与えられた土地はお家断絶でもない限りは後の将軍も取り消すことができませんでした。ただし増やすのは別です。(家康が20万石を朱印状で与えて後世の将軍が25万石にするなどはできた。)
ただ、大谷、村川両家への奉書は土地を与えたというわけではなく、独占開発許可であったと思われます。よって「拝領」というのは「島の開発権を拝領した」という意味です。というのも奉書では土地を下賜できないからです。通常は朱印状か黒印状で「○○石を与える。」と確約して、奉書で具体的にどこを与えると指定すると思われます。(徳川吉宗幼少期の葛野藩の割当などから推測)
また、奉書であれば新田開発などを許可する奉書が多数出ています。(武蔵の国だけでも多数あって数え切れないほど開発許可の例は多い)
池内教授は「開発許可の奉書」を「渡海免許」と決めつけて、「渡海免許」など存在しないと決めつけていますが、枚挙に暇がない開発奉書の可能性を検証していない時点で同氏の主張に対して学術的な価値を疑わざるを得ません。
また、渡海免許が国内で必要ないというのも誤りです。現在の感覚で行くと国内移動に免許が必要ないのは当たり前ですが、当時は海どころか陸上の移動も許可制でした。いわゆる通行手形を奉書などで出してもらわないと関所を通過できなかった時代です。それでも八王子城趾などは立入自体が禁止でした。日本で最初の心霊写真と言われている写真は箱根の関所を破って首を斬られた罪人のさらし首の写真ですが、勝手な陸上移動で命を失う時代だったのです。さらに伊豆大島などへの渡海奉書もありますので、むしろ航海するためには許可が必要だった時代です。個人的な推測では現在と同じように港の施設を利用する際に許可証が必要だったのではないかと思われます。
さらに当時は鎖国政策を敷いており、外国との交流が許されていたのは中国、朝鮮、オランダ、蝦夷の4つだけでした。この4つとの窓口も「中国、オランダは長崎奉行=幕府」、「朝鮮は対馬藩」、「蝦夷は松前藩」と決められており、鳥取藩に渡海免許=奉書が交付された時点で幕府は鬱稜島=竹島を国内と見ていたことが読み取れます。(少なくとも外国とは思っていない)
なお、半月城氏は鬱稜島=竹島への渡航船を「朱印船」だと言い張っていますが、朱印船はかならず長崎を出港するので鳥取の港を出港している時点でウソだと分かります。
また、半月城氏の主張する時代には朱印船制度はなくなって奉書船制度に変わっています。