「恨」について
しかしこの「恨」、よく語られているわりによくわからないものです。私も朝鮮人ならぬ身ですので、「恨」について完全に理解しているのかと聞かれると、少々答えに詰まります。ですが、ひとまず私の理解の範囲内で「恨」について述べていこうかと思います。
「恨」とは、字面こそ「怨恨」の「恨」の字ですが、いわゆる「恨み」とは異なるとされています。gooの辞書で検索すると「ハン 1 【恨】 〔朝鮮語〕植民地時代の抑圧の中で、朝鮮の民衆の中に蓄積されてきた痛恨・悲哀・怒りなどの感情。」と説明されています。しかし実際に見かける「恨」は、そんな悲壮なものでも切実なものでもありません。むしろもっと低俗で卑近で幼稚なものの方が多いと思います。
例えば、「入りたかった大学や会社に入れなかった」「買おうと思った物が(品切れや予算オーバーで)買えなかった」「日本料理屋でキムチをオーダーしたら断られた」「全財産をはたいて宝くじを買ったが、期待した当籖金が当たらなかった」などに起因するものが、よく見聞きする「恨」です。
朝鮮人は、「自分の望みは常に十全に満たされるべき」と考えています。その十全に満たされるべき望みが実現されなかった時、「恨」が発生するようです。
実際問題として、望みが常に十全に満たされることなどあり得ません。むしろ叶わないのが普通で当然です。しかしそれを「当然」と受け入れらず、否定的に抱え込むと、それが「恨」となります。
例えば腹を空かせた朝鮮人がいたとします。この朝鮮人に何か食わせてやれば、ひとまず空腹から脱した朝鮮人は満足するでしょうか。多分、満足しません。「どうせ食べるならもっと美味しい物を食べたかった」などと不満を言うでしょう。
それでは、この朝鮮人にもっと美味しい物を食べさせてやれば満足するでしょうか。おそらくこの朝鮮人はきっと「これっぽっちじゃ足りない。どうしてもっと食べさせてくれないのか」などと言うでしょう。
では、もっとたくさんのごちそうを食べさせてやれば、この朝鮮人は満足するのでしょうか。おそらくこの朝鮮人は口一杯にごちそうを頬張りながら、「最初からこんなごちそうを出してくれれば、ごちそうだけで満腹になれたのに、最初につまらないものを食べさせられたせいでこれ以上このごちそうが食べられないじゃないか」と不満を言うでしょう。
「自分の望みは常に十全に満たされるべき」と考えるということは、このように、ひとつの望みが叶えられても、すぐにより一段階上の願望が発生し、それが叶えられればまたひとつ上の願望が生じるということの繰り返しとなります。
果てしない願望が常に果てしなく叶え続けられるなどということは、絶対にあり得ません。つまり、そう願う者の望みも結局永遠に叶えられません。こうして満たされることのない願望が「恨」の発生源になります。
単なる不満と違うのは、不満を不当と考えている点でしょうか。不当な現実を押し付けられことに対する悲しさや憤りを心の底に蓄積させ、発酵させたものが「恨」になるのでしょう。
要するに「恨」とは、「果てしなく生じる願望に対する果てしない追求に応じ切れない現実世界に対する不満から生じる負の感情」と考えれば、だいたい間違っていないのではないかと思います。
ちなみに、「日本人が世界中から嫌われ孤立し、孤独に耐え兼ねた日本人が韓国人に土下座して友誼をこいねがう」というのも彼らの切なる望みですが、それが叶えられないこともやはり彼らの「恨」になっています。
しかし、 自らが抱いた願望を貪欲に追求したいのであれば、自らの生活や技術の改善も積極的且つ貪欲に行われるべきだと思います。しかし、なぜか朝鮮人が生活や技術の改善を積極的に行っているという話を聞きません。そのかわり、改善の過程をすっ飛ばして結果だけを貪欲に追求する余り、日本で行われていることを片っ端からパクリまくるという話は鬱陶しいほど聞こえてきますが。
日本には「上見て暮らすな下見て暮らせ」とか「吾唯知足」とかいう戒めの言葉があります。十全でなくとも、現状に感謝し満足することが日本人的には美徳とされています。そのくせ日本人は生活や技術の改善を代々飽くことなく続け、それを蓄積し続けています。現状に満足も感謝もしないくせに、改善は他人任せの朝鮮人とは、誠に好対照だと思います。
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コメント
これってα症候群を引き起こした犬の反応に似ていますね。
私も犬の反応に似ていると思いました。我が家の犬は、えさを与えればあるだけ食べてしまします。見たら(犬の場合臭いだ思う)食いたいのでしょう。
餌に対する執着心があるみたいです。何しろ彼ら、犬の胃袋はデカイですから、少しずつ餌を与えるのが犬をコントロールするのがよい。朝鮮人にも同じように対応した方がよさそうです。彼らは、我々が主人であり、日本人は家来と勘違いしていることです。
恨とは、そういうものだったのですか
何だか餓 鬼のようですね
食べても食べても満たされない様はさもしく哀れです
朝鮮道は餓鬼道とみたり。ですね~
こりゃ~救われんわ
私の元妻もこんな感じでした。日本人ですけど・・・でも頬骨は張っていました。頬骨に性格は影響されるのでしょうか?と冗談は置いておいて、きっとこれは民族性というよりも精神病の一種だと思います。私の元妻はとても妄想的で自己評価が異常に高く、それでいて現実での成果は低くそして他者には攻撃的または懐疑的でした。これは境界性人格障害や統合失調症の特徴の一つらしいですが朝鮮人の行動パターンととてもよく似ています。ただ民族性とも思えるほどに精神的にやんでいる社会というのもすごいですね。そうなるとやっぱり民族性に帰結するのかな?
はじめまして。
fetia様のご意見、読むたびに感心しております。
よく「世界から孤立する日本」という言葉をニュース等で聞く度に、
これは何の意図を持って流されてる言葉か判らなかったのですが、
>孤独に耐え兼ねた日本人が韓国人に土下座して友誼をこいねがう
これが欲しかったと言う訳ですね。
・・・・しかし、もし、仮に、「日本人が世界中から嫌われ孤立し、孤独に耐え兼ねた」
という状態に日本が陥ったとしても、朝鮮を頼るとは『限らない』という事を
彼らは考慮の対象として考えてるんでしょうかねぇ?
反日と儒教が無くても
韓国人から反日と儒教の要素を無くしたとしても、日本人とは永遠に分かり合えない存在だということが理解できました。
fetiaさんの解説をもってしても、私には「恨」は理解できません。
以前、呉善花さんの本でも読んだけど、やはりはっきりとは理解できないというか…自分の心に置き換えて、どんな感じか考えてみたけれど、日本人の心には「恨」の欠片も存在しないみたいですね。
朝鮮民族のあの厄介な性質はやはり「恨」からきているのですね。
「恨」は朝鮮民族の心から決して消えることはないでしょうね。ということは永遠に分かり合える日は来ないということなのですね。
ちなみに在日の人も「恨」を持って生きているんでしょうか?
これって、良く2チャン等で紹介されている、宮沢賢治の作品の
「ツェねずみ」まんまですね。
実際、賢治が彼らを見て思ったことを書いたようだとの説がありますが…。
「ツェねずみ」
http://why.kenji.ne.jp/douwa/23tuenez.html
正確なタイトルはわからないけれど、
グリム童話か何かにある、「魚の王様」かな?
大きな魚を釣った人に、魚が「私は魚の王です。私を放してくれたら貴方の望みを何でも叶えましょう」と言って放してもらう。お礼として金持ちになったが、妻がどんどん望みを高く吊り上げてしまい、しまいには法王よりもえらい神になりたいと言い出して、最後には元に戻ってしまうお話。その間、魚の住んでいる海がだんだん汚く荒々しくなっていくのも印象的でした。
あれをほうふつさせてしまいました。
「恨」について、一番わからないところは、この性質を、朝鮮人が自分達の性質として、肯定している事です。
この字は、日本でも中国でも、決して良い意味がなく、むしろ大変おぞましい感情で、恥ずべき物、抑制すべき物とされています。 日本で「恨」は、お岩さんなど、幽霊の独占物の感があり、人であれ、社会であれ、恨むというのは、状況によっては、同情すべきでも(お岩さんの例など)決して、褒めた事とはされません。
これは中国でも多分同じでしょう。 有名な長恨歌など、玄宗皇帝に同情はしても、皇帝としての能力や、人格を決定的に否定しているのです。
同じ漢字文化の中で、このような国がある事には、実に違和感があります。
ほとんど、初めまして。貴ブログは、毎日は意見させていただいております。
みごとな”恨”切り、感服いたしました。ここまで見事な切り口は、見たことがありません。あれこれ余計な解説が付くのが、常なのですが。さすがに良く知ったはるわ......。
ところで、最近はエンコリなどで親日派というか、日韓の歴史について理解できているように見える韓国人が、わずかですが増えているような気がするのですが、これも韓国人が、自身の不安を打ち消すために、日本に媚を売っているだけなのでしょうか?
うう、間違った。は意見×拝見○。なんだよ、このPC、と責任転嫁するXX人のような私....。
つくづく日本人として日本に生まれたことを感謝したい話ですね。
生まれが大陸だったらと思うと心底ゾッとします。
読んでいて驚きました。
「恨」って幼児期の万能感そのものじゃないですか。
通常は、成長とともに(それも早い段階で!)
万能感は薄れていくものなのですが…。
いや、ほんと驚きました。
こんなにスマートに朝鮮人の「恨」をおまとめになるとは...おそれいりました。
gooはじめその他の主要ネット辞典の定義も改められる日がくることを願います。
「恨」とは朝鮮人の天敵である「現実」に対する拒否反応なんでしょうね。 不謹慎な発想ですが、日本が実際に朝鮮半島を植民地化し欧米や中国(清)のように圧力で押さえつけていたのなら逆に「恨」はなかったように思います。
日本統治時代の半島の年間平均経済成長率だけを考慮しても南朝鮮の学会の検証でも4%以上(1915-1930)、世界恐慌おかまいなしの安定感と持続力を持って達成されました。 こういう甘い蜜を吸っていた時代を「当然」のデフォに置いてしまっているので今更努力して改善するという発想、というか一国家の基本そのものを欠いているのではないでしょうか。 当然その原因は彼らの民族性に他なりませんが。
恨は、自分はもっと賢いと認められるべき、自分はもっと成功しても良いはず、他人が自分を大切にしていいはず、なのに、、、そうなっていないのがもどかしくストレスになる→他人が悪い!という自己認識の甘さから来る、斜め目線から来る感情と思っています。本来であれば努力やあきらめで解決するところを、感情に留まり自分の中で消化できず粘着するのが恨かと。。。ノリチカさんがおっしゃるように、納得できない事はすべて他人に責任転嫁するなど、ある種の人格障害としてしばしば現れると思います。中年女性の民族病としての火病は恨から起こる事も多いそうです。
結論、○○ガイは相手にしてはいけないという事かとw。
韓国には「恨み500年」という歌があるそうです
よくある「腹立ちまぎれに放火」なんかも「恨」になるんでしょうかね?
そのまま自己愛性人格障害ですね・・・。
韓国は国を挙げて精神障害を民族性として教育しているのに気がつかないのだろうか。
うわっ
> 朝鮮人は口一杯にごちそうを頬張りながら、「最初からこんなごちそうを
> 出してくれれば、ごちそうだけで満腹になれたのに、最初につまらないものを
> 食べさせられたせいでこれ以上このごちそうが食べられないじゃないか」と
> 不満を言うでしょう。
うわっ、朝鮮人らしい(笑)。「恨」の解釈として正しいかは解かりませんが、とてもとても朝鮮人らしい、嫌らしさに満ち満ちた表現ですな。
それに割と当たってるかもしれません。僕も彼らの「恨」というものが、彼らが自認している割には、公憤とか義憤といった様なものではなく、かなり私的で他愛ない、意地汚いものなのではないのか・・・と気付いたことがあるものですから。
そして、お岩さんも指摘しているように、世界のどこの基準でも恥じるべきこんな感情を、彼らが何故自認し、誇らしげに語るのか、そればかりはさっぱり判りません。
>韓国は国を挙げて精神障害を民族性として教育しているのに気がつかないのだろうか。
非常にするどい指摘だとおもいます。 結局朝鮮人にとって教育は独自の文化を通して発展してきた「学問」ではなく病んだ精神を正当化させるための(非常に便利な)道具にすぎないのでしょう。
常に被害者役を演じたい人達なのでしょう
なんでもかんでも人のせいにする人は幸せまでもが他力本願で
幸せになることができない。
またそういう人の幸せは他人との比較によって成り立っている。
…そりゃ「幸せ」にはなれないよなあ…
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初めまして。いつも興味深く拝読しています。
上記は数年前の2ちゃんねる生活板で拾ったレスです。
月見櫓さんのこのたびの文を読んで思い出したので貼ってみました。
あ、スレッドのテーマは「こんな奴とは友達になりたくない!」でした。
初めまして。
前からROMしてましたが、ふと思ったことがあるので書き込ませて頂きます。
韓国人の『恨』って、漫画でいうと、『YAWARA!』の本阿弥さやかが主人公猪熊柔に抱く感情みたいなものでしょうかね。
もっともさやかは柔を倒すためにすごい努力をしている点は異なりますが、動機が『自分があらゆる分野において優秀な才能を持っている天才である』事を証明するため、ですからねぇ。
朝鮮人は統一新羅以来ずっと中華支那帝国の属国であり女真族の清からは属国でしかも乞食状態なのでどうする事も出来ない「憂さ」が(恨ハン)の正体。こういった状態が千年も続くと精神状態として「恨」になる→「火病」となって日本人には理解不能の行動に走る。まっ、阿呆やね臆病の
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