愛国心についてダラダラ考えてみた。
結局余りにもまとまらないので、まとまらないままダラダラ考えてみることにします。
何度も何度も「愛国心」と書いては消してを繰り返してみて、しみじみ思います。「愛」という文字は何気に照れ臭い、と。口に出せばたちどころに嘘臭くなりますし。
即ち、「秘すれば花」とは愛でも言えることでありましたか。
しかし哀しいことに、黙っていては誰にも何も伝わりません。目と目で通じ合うことが出来る間柄になるまでには、まずは言葉で通じ合うようにならねばなりますまい。
そこで照れ臭さを堪えて、もう一度「愛国心」について考えてみます。
対象が何であれ、一言で愛と言っても色々な愛があるようです。親が子を想うそれと、恋人同士の間で交わされるそれは、どちらも「愛」と呼ばれるべきものではありますが、決して同一のものではないでしょう。と言うか、それが同一だったら問題です。
だから「愛国心」という言葉も、人それぞれで少しづつ違うのではないかと思います。それゆえに人によってそれぞれ受け取り方も違うのではないでしょうか。ただ、大枠、即ち「国を大切に思う気持ち」という点は、共通であるべきかと思います。
突然「愛国心」と言うと、何故かたいていの日本人はぎょっとします。多分、日本人はシャイな民族だから、「愛」だなんて白昼堂々と口にするのははしたないと思っている人が多いのだと思います。
確かに、白昼堂々と「愛国心」について語るのは、なんだか気恥ずかしいものがあります。さらに過剰反応されたりすると、なおさらにこっ恥ずかしく感じます。
ところで、「愛国心」という言葉に過剰反応する人は、たいてい何故か躍起になってこの言葉を否定しようとするように思います。それは「愛」という言葉に何か別のものを感じて過剰反応しているようにしか思えません。丁度、中学生ぐらいの頃「性」という文字(それが「性格」の「性」であったとしても)に、やたら過剰反応する奴がいたように。
こういう風に人によって受け取り方は様々になりがちな概念だからこそ、「愛国心」についてはきちんと教育するべきじゃないかと思います。
そもそも、国を愛することなんて、自然発生的に生じるものではないと思います。教わらなければ分からなくて普通です。
これは自分を産んでくれた親への敬愛が、教わらずとも自然発生的に生じるものかどうかを考えれば、ご理解いただけると思います。
実際に自分を産み、育ててくれた親に対してでも、教わらなければ敬愛など生じません。子供にとって親は自分を庇護養育して当然の存在です。それに対して教えもしないのに、物心ついたら自然に親を敬愛してるような子供がいたら、それは多分お釈迦様かイエス様の生まれ変わりです。直ちに宗教家の道を歩ませましょう。
冗談はさておき。
実の親でも、そのありがたさ愛おしさは、教わるか離れるか失いかけるかしなければ気づかないものです。ましてや「国」という触ることも見ることも出来ない存在に対して、教わりも離れも失いもせずに気づくことは至難と言って良いでしょう。
人は、自分が何に属するかを強く気にする生き物です。上野動物園のパンダは、自分の出自や所属など気にもしないだろうし、そこにアイデンティティを求めることもないでしょう。
しかし人間は、自分の出自や所属が判然としていなければ、自分自身を見失います。何不自由なく育てられていても、実は自分が養子だったと知れば、人は実親を探してしまうのです。
もし人が自分自身の出自や所属を否定したり嫌悪したりすれば、それはやがて巡り巡って自分自身の否定や嫌悪となります。自分自身の否定や嫌悪は、多分自分自身を殺すことの次ぐらいに強い自虐行為だと思います。
誰もが、幸せに生きたいと思っているのではないかと思います。自分自身に誇りと愛情を持てない者は、幸せにはなれません。「愛国心」を持つことは、巡り巡って自分自身の肯定と尊重につながります。それは幸せに生きるための条件の一つだと思います。自分の国に誇りも愛情も持たない者は、自分自身にも誇りや愛情も持ち得ないでしょう。
地球に暮らす国や人を俯瞰してみれば、日本で日本人に生まれたことは間違いなく僥倖です。個人的には、これだけでも、日本人にとって日本という国は感謝し愛すべき国ではないかと思います。
もちろん我々はたまたま日本人に生まれただけです。自ら望んだわけでも選んだわけでもないし、嫌だからと言ってその事実を変えることは出来ません。
それでもどうしても日本を愛することが出来ないというのであれば、日本という国は、国民に対し国籍離脱の権利と自由も与えてくれています。
自分を生んでくれた国も愛せない人間が、どんな国を愛するつもりか知りませんが、どうしても日本を愛することに拒否感を覚えるのであれば、きちんと日本国から離脱するのが筋ではないでしょうか。その上で、思う存分日本を無視するなり嫌うなりすれば良いと思います。
私は、「愛国心」は日本人であれば当然持っているべき徳目のひとつだと思っておりますし、徳目ってのは教わらないと身に付かないものだと思っております。
コメント
「秘すれば花」も日本人の美ですね。理解して美しいと感じる外国人は少ないのかなと思ったり。
言霊と言うけど軽々しく言えば、価値が減る、そらぞらしいと韓国人のうざい『サランヘ』『サランヘ』を聞いて、聞けば聞くほど冷める自分も日本人だと思いますw。
以前は欧米の女性は漠然といいなと思っていましたが、現代の日本に生まれた事を感謝しています。
『どうして、あの時もっと捜してくれなかったか聞きたい』と言っているらしい、トリノのメダリストのドーソンさんの立場に自分がなった時、どうやって克服していくかと思うと悲しい気持ちになります。
燃える男から萌える漢へ
>自分の国に誇りも愛情も持たない者は、自分自身にも誇りや愛情も持ち得ないでしょう。
僕は歴史の勉強をする前の小学生時代まで、世の中イケイケのバブル時代の影響を強く受けたので、日教組の教師やサヨクマスコミの洗脳で自国に嫌悪を抱いたり自虐的
になることはなかったのですけど、
むしろそんな所謂『反日勢力』がマスコミ・知識人・教授・教師・与野党の政治家問わず、うじゃうじゃいるのを知って逆に自分の生まれた国に絶望したタイプです。
たぶん、僕の世代にはほかにもいっぱいいるんじゃないかな。エヴァとかあんなに流行ったし。
そもそも「愛」が外来語。
ずっと昔、「愛」は漢語という外来語。そしてloveを「愛」と訳したのも間違い。
というのを聞いた事があります。じゃ「love」ってどう訳すのが正しいの、というと「大切に思う・大事に思う」。つまり「私はあなたを大切に思う。」「私はあなたが一番大事だ。」が「love」に最も近い訳語だそうです。
本来の日本語としての「愛(love)」は「いつくしむ」に近いと思われますが、それを言葉にする必要がないくらい身近にあるため、言葉が発達しなかったかもしれません。また、「いとしい」「いつくしむ」もどちらかというと「物のあわれ」から進化した心情だそうですから、「love」からみると違うかもです。
キリスト教が日本に入ってきたとき、神の愛を翻訳するのに苦労したのもむべなるかなと思います。そういえば、仏教の時も「慈愛」と訳してますね…。
だから「愛」の字を使うのは本来の大和言葉としては不向きかもしれないです。「いつくしむ」は「慈しむ」の他に「愛しむ」とも書けるそうです。
・・・「私は君を愛しむ(いつくしむ)よ」かぁ。慣れないせいか変なセリフだなぁ・・。
そうそう、私の考える「愛」に最も近い大和言葉は「つながり」。
「私は君とつながりたい」(ひええぇ) 「私は日本につながり心を感じる」。…うーん、う~~ん。「我々はつながりを大切にすべきだ」うーむううむ。
本当にね。大江健三郎とかね。お前はいったい何人かと。愛国心がないと、自分の足下すら見えないんですね。
>そうそう、私の考える「愛」に最も近い大和言葉は「つながり」。
なるほど。
「七生報国」「忠君愛国」「滅私奉公」
「絆」を大事にしてますね。
小林よしのりだったが「愛国心」を「郷土心」と言う言葉に置き換えていて、
なるほどなと思いました。
これなら「愛国心」にはギョッ!!とする人々も、理解してくれるのではないでしょうか?
日本人にとっての「愛国心」て言うのは、教育やら何ならよりも
もっと自然にフッと湧き出るモノのような気がするので、郷土心てピッタリのような気がします。
お国自慢する人も多いですしね~。
かくいう私も郷土・大分県は愛しくてならないです。
そろそろチャットログを...。
聞き飽きた、いつもの、毎度の、
どうせ、ファビョックション状態の、
それでもいいので、お願いします。
ども.通りすがりの自衛官(予定.入隊時検査で落ちる悪寒orz)です.
日本人の場合,愛というより「誠」かなぁ,と.誠実の誠,忠誠の誠,いろいろありますが,かつて(今も?)諸外国が日本に一目置き,日本が評価されてきたのは「誠」の一字だったんじゃないでしょうか.新撰組も「誠」を掲げてましたね.
忠誠とかいうとサヨどもが噛み付いてきそうですが,誠って本来は自分自身にベクトルが向いているのではないでしょうか.ジョージルーカスのほうが,サヨどもより余程しっかり理解している気がしますね.
愛国心って言葉の意味は簡単に言うと(自分の)国を愛す心ということになりますが、深く考えてしまうと途端難しくなってしまいますね。
漠然と考えている「国」という言葉の定義、「愛」という言葉の定義、そもそも「心」というのは一体何なのか、などw
愛という言葉については皆さんお話されているので、
「愛する心」=「愛する気持ち」ってことで軽く流して私は「国」について軽く考察してみたいと思います。
国というのは基本的には人の集まり、集合体ってことなんだと思います。家族は小さな人の集まり、町、学校、市、都道府県、地方など人の数が増えるにつれて枠組みが大きくなっていきます。さらに国という枠組みがあって、この枠組みの概念は自分が所属する枠組みの外に他の枠組みがあるということが大前提になっているわけですね。
それで、愛国心に関して言うならば、その枠組み内で結束を強めるために「愛国心」が発揮される場合と、外の枠組み、つまり外国との交流において生じた認識によって(外的な要因)愛国心というものが芽生える場合があると思われます。
前者と後者、両方の影響で愛国心という言葉を意識することが多くなっていますが、ここのブログのエントリーを読んだ後で意識する愛国心は後者ですかね。
朝鮮/朝鮮人のあまりのトホホさぶりに日本人に生まれて本当によかったな~、みたいなw
>>あら座さん
私も気になって色々調べてみたら、「愛」は元々「煩悩」と言う意味だったらしいですね。
今の意味になったのは近代に新しい言葉が入ってきた時に
キリスト教などの西洋の価値観(「love」)が追加された物で
そう言う意味でloveを「愛」と訳したのは間違いなのでしょう。
(loveにあう言葉はありませんでしたから)
つまり、現在使われている「愛」は「love」の意味であって
本来の「愛」の意味とは別の言葉である・・・と言う事ではないでしょうか?
そうなると、現在の「愛」の言葉と意味は、入ってきた所が別々と言う事になりますね。
(「賢」と言う言葉も外来語ですが、意味は日本製です)
因みに右翼では「愛」はキリスト教の概念だから「愛国」ではなく
「憂国」が正しいと言ってる人もいるようです。
それと日本では愛と言う概念はやはり無かったのでしょう。
文字がありませんでしたから、そう言う抽象的な概念は無かったと思います。
概括的な言葉は殆ど漢語ですから。
愛は失ったときにその愛を気づくものです。
私は今、日本を離れて暮らしていますが、日本にいると気よりもずっと日本がすきです。
東亜の視点では日本という国は腐っていますが、まあるい地球の眼から見ればいい国ですよ。
だらだら考えたといわれるわりには要点が詰め込まれた素晴らしい文です。
とりあえずひとつ。
「国を愛する(または同義の別語)ことが巡り巡って己自身を肯定することに繋がる」という言葉にはおもわず目からウロコでした。 個人的にこのことを悟る機会が皆無であったかと問えば、機会はありました。
例えば日本以外の国の人々と自国の歴史について話し合うと「独立戦争」や「自衛戦争」のことを誇りに思っていることが多いことが分かります。 実際そういう話しぶりを見てぼくが感じたことは、それは戦争そのものの賛美などでは決してなく、自分たちで自分たちの国を守り主権を勝ち取ったという歴史の軌跡の延長線上に今日の世界があり自分が在る、という「よどみのない愛国心」のように感じました。 ましてやその歴史とはかの国とは違い本当の歴史なのですから、下手な教育で捻じ曲がってなどいない個人の純粋な気持ちであると感じた覚えがあります。
...というような機会はあったのですがやはり自虐史観が効きましたね、その時も。 「でも、日本はやはr...」と脳内のどこかで左巻型愛国心ブロックが発動し覚醒を妨げられましたw
自虐史観とその中に組み込まれた「反・愛国心」の洗脳こそが日本人のアイデンティティーの混乱の元凶なのですね。 ありのままの国と歴史を敬うことがどれだけ個人の人間性に貢献するか、一歩外へでれば答えは明白なのに。
反日の人達が国歌や国旗等無くても愛国心は自然とわくなんて
言ってるのをよく掲示板で見ました。
小学生やそこらの子供が、公立の小学校だというのに、日教組によって
反日的で偏った歴史しか教えられていないのに、自国に愛国心が
自然に身につくはずがありません。「日本は悪い国だ」「日本人は悪い」
と教えられ、自国を嫌悪する子供が増えはするけれど、この教育の
お陰で「日本は素晴らしい」と考える子供は絶対にいないでしょうね。
はじめまして。いつも「うんうん わかるわかる」と妙に納得しながら拝見いたしております。僭越ながら「愛国心」についてコメントさせていただきます。
「俺達の誇り千葉マリンズ どんな時も俺達が ついてるぜ」これは、私の地元千葉県のプロ野球チーム「千葉ロッテマリンズ」の応援の歌です。人は自分では意識していませんが、何かしら「誇り」をもっているのではないでしょうか?それが「何か」はわかりませんが。私は、「職業」「居住地」「思想信条」に「誇り」をもっておりますし、もちろん「日本人」であることにも「誇り」をもっております。原点回帰ではありませんが、自分の存在、自分自身を見つめ直すことによって、行き着くところは、「愛国心」。ここでいう「国」は「国家」ではなく、人としての成り立ち「誕生」から「今」にいたるまで、それを形成するまでの様々な係わり合いのあった「人」であり、「事柄」であり「自分」ではないかなあと思います。
つれづれなるままに書かせていただき、結論が良くわからずで申し訳ございません。
愛国心の源泉は「情」
私は、愛国心を自己愛の延長線上にある「情」だと考えています。
人間誰しもが持っている「自分を愛する心」、そしてその延長線上に「家族愛」「地域愛」があり、「愛国心」へとつながっていくのではないでしょうか?
もし日本に生まれていなければ、当然日本に対する愛国心は生まれていませんし、韓国に生まれていれば日本人から見て、とんでもないことを言う一人であるかもしれません。
そして、愛知県民である自分を意識するのは他の件の人と話すときで、他の集団と接触するときに、地域愛や愛国心を感じるものなのかもしれません。
日本は幸いな事に、人種・言語・宗教・国境・歴史が、ひとくくりに出来る希有な条件で成立しており、他者との接触が少ないのが「愛国心」をわかりにくくしている一因なのかもしれないと考えていたことがあります。
多少古い記事なのですが、そのような趣旨で書いたことがあり、TBを送らさせていただきます。
関連記事
TBがうまくいかないようなので、コメントで書かせていただきます。
(不本意であればいつでも削除下さって結構です)
山本大成 「かわら屋の雑記帳」「愛国心」「アイデンティティ」の源泉は『情』!?
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-07-10
良くも悪くも情の民族
はじめてお伺いします。
私も環境的に韓国人とのつきあいが割と多く、一般の日本人と比べるとよく彼らがどういう人たちであるかよく知っている方だと思います。
ステレオタイプに当てはめるのは良くありませんが、国民性というものは確かに存在しますし、韓国の場合はそれが強烈だと思います。
彼らは「情」で動きます。だから韓国人はものすごく「いい人」、良心的な人が多いです。日本人のようにあれこれ考えたりしません。
しかし、いったん情がおかしな方向にねじ曲がってしまうと非常にやっかいな人たちでもあります。もう議論の余地がない。
だから、良心が磨かれた人は人格的に素晴らしい、突出した人になるが、どこの国でもそういう存在は多数ではないため、方向性がズレたまま思い込むタイプの人が多くなり、それがみなが思うような韓国人の国民性となった。
これが、宗教家も多いが、野蛮だと感じる人もまた多い理由だと思う。
特に政治家は、後者の方の国民の情をもって国威発揚に利用しようとするので、標的にされた国はたまらない。なにせ話が通じないのだから。
だから韓国に望むのは、「愛国」を超えて「愛世」を唱えられるほんの少しの人たちが国民を教育し、情を高い次元に引っ張って行って欲しいということです。
政治家にそういう人が出てくるのはいつの話になるかな?
愛国心。私もあると思うがどう説明して良いか判らない。
昔読んだ司馬遼太郎の随筆をちょっと思い出します。
彼は戦争中は戦車兵として中国を転戦したと書いている。出征前、奈良の里の道を歩いていると坂の上から16~17歳と見える少女が猛スピードで自転車で下って来る。お下げ髪の可愛い少女であったが、自らのお転婆を恥じるようにすれ違いざまにペロッと舌を出した。
その光景を思い出し、司馬遼太郎は言うのである。ああいうものを守る為に自分は死ぬのではないか。ああいう光景を生み出した全てのものを愛しく慕わしく感じる。それらの為に戦おうと思う。
記憶が細部は曖昧であるが、妙に腑に落ちる文章である。
こういう感情が愛国心の原点ではありませんか?
これがない人間は人とは思えないし、何人もこれを卑下する事はできないと考えます。
昔読んだ司馬遼太郎の随筆
愛国心。私もあると思うがどう説明して良いか判らない。
昔読んだ司馬遼太郎の随筆をちょっと思い出します。
彼は戦争中は戦車兵として中国を転戦したと書いている。出征前、奈良の里の道を歩いていると坂の上から16~17歳と見える少女が猛スピードで自転車で下って来る。お下げ髪の可愛い少女であったが、自らのお転婆を恥じるようにすれ違いざまにペロッと舌を出した。
その光景を思い出し、司馬遼太郎は言うのである。ああいうものを守る為に自分は死ぬのではないか。ああいう光景を生み出した全てのものを愛しく慕わしく感じる。それらの為に戦おうと思う。
記憶が細部は曖昧であるが、妙に腑に落ちる文章である。
こういう感情が愛国心の原点ではありませんか?
これがない人間は人とは思えないし、何人もこれを卑下する事はできないと考えます。
すいません。2回同じ文を投稿しました消し方判りません。悪しからず。