言葉の意味より、イメージを重視する社会
私はこのブログを書くにあたって「読む人に、出来るだけ理解していただきやすい文章で書こう」ということを常に心掛けています。しかし、頭の回転の速い方々にとってそれは、「わかりきったことをくどくどしく書いている」と感じられるのかもしれません。
また弊ブログが扱っている主題が主題なだけに、率直に書くとどうしても品下がるという悩みもあります。下品なものについて、あまり下品にならぬように書こうとすれば、どうしても隠喩を使ったり、迂遠な表現を用いたりせざるを得ません。
この「出来るだけわかりやすく」というのと、「あまり下品にならぬように隠喩や迂遠な表現を多用する」という条件を同時に満たそうとすれば、「何をグダグダ書いていやがる」というような文章に自然になってしまうのは、実は筆者にも自覚があるところでございますw
と言う訳で、「このブログの文体は回りくどい」と感じていらっしゃる皆様には大変申し訳ございませんが、弊ブログはそういうスタイルのブログだとご理解いただいてお読みいただく以外にないと思います。
ところで、相変わらず9月12日付けの記事のコメント欄で、「言葉のイメージ」論が盛んです。
私も、前回記事冒頭で述べましたとおり、言葉をその本来の意味より、言葉のイメージを優先して用いることについては、詩などの分野で行われる場合を除いて、原則として否定派です。
例えば中高生辺りの国語の試験にも出題されることがありますが、「気が置けない」というフレーズがあります。これを「気を使う」という意味で理解してる人は少なくないと聞きます。おそらく「気が抜けない」などからの連想でしょう。だから「気が置けない」というフレーズは、「気を使う」という意味で用いるべきかと言えば、もちろんそうではないでしょう。
同様に、「煮詰まる」という言葉が「結論が出せない状態になること」というのは、おそらく「行き詰まる」からの連想による誤用であろうと思われますが、「そうだと思っている人が増えているから、誤用であっても、そういう意味で用いても良い」という考えに、私は賛同できません。間違いは間違いです。
よく指摘される例ですが、「すべからく」などは非常に誤用率の高い副詞です。だから「すべからく」という言葉を、誤用されている「すべて」の意味で用いるべきなどだというのは、どう考えても合理性がありません。そもそも「すべからく」を用いなければ、「すべて」の意味で伝えたいイメージを表現できないということはないのです。
確かに言葉は変化していくものですが、それを誤用や、悪意のある言い換えのための免罪符に用いるべきではないと私は思っています。どうしても誤用の意味で用いるべきと言いたい場合は、少なくとも100年以上は誤用の形で通用し続け、但し書き付きながら辞書にもその旨が載るようになってから言うべきであって、10年20年の誤用でいちいち定着させてたらきりがありません。
ましてや「辞書に載っていようがいまいが、相手に意図が伝わらなければ意味がない」「辞書も後追いしてくるだろう」などという詭弁は本末転倒も甚だしい。まず辞書に載っている意味で、相手に意図を伝えるのが本来ではありませんか。
そもそも、語句の誤用は、自然発生するものよりは、マスコミやメディアなどで、その言葉を用いる際に辞書で確認するのを怠ったがゆえに発生したものが少なからずあると思います。あるいは最近では、若者が使っているイメージ優先の言葉を、マスコミやメディアなどが面白がって流布する場合もあるでしょう。いずれにしても、そういう「流布した者勝ち」というやり方や考え方に、私は到底賛成出来ません。
辞書に載っているものは、正しいかどうかと言うよりは、その言葉を用いる人々のコンセンサスを獲得したものです。それを軸にしなければ何を軸にその言葉の意味を探すのかを、私は問いたいと思います。
人類の源流を訪ねて http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080901/169372/ にこう書かれていた。 >どうやらこのところの政府は、政局が煮詰まると政権を放り出すのがクセになっているようですね。 さて、この記事を書いた伊東乾という人やこの表現をそのまま載せた日経BP社は、管理人さんと同じように恥入るべきだろうか。全くそんな必要はない、というのが我輩の意見だ。 |
このご意見ですが、私が私の書いた文章における語彙や表現の誤用を恥じ入るからと言って、他人も同様に恥じ入るべきだなどとは、私もまったく思いません。しかし文を鬻いで身を立てている人であれば、私のような野良ブロガーなどよりは、ずっと言葉の使い方に神経質且つ慎重であるべきだとは思います。
さらに今回のように、肩書きや権威を背景に「この人(あるいはこのメディア)が用いているように、本来は誤用であっても、意味が通じているのだからこれはこれで正しい」という風に使われてしまうことを鑑みれば、恥じ入る恥じ入らないはともかくとして、誤用を広めた責任は感じるべきでしょう。
文章なんて、ただ書くだけなら書く人それぞれの自由です。「誤用だろうが何だろうが、俺はこの単語はこういうイメージで使われてる単語だと思うから、その用法でどんどん使う」と仰る方は自由にされれば良いと思います。ただその場合は、ご自身の日記帳なり、チラシの裏なりにしたためるようお願いしたいと思います。
そうではなく、ネットでも何らかのメディアでも、自分が書いた文章を不特定多数の人々に読ませようというのであれば、「誤用であろうが何だろうが」という考えで書くのは、「誤用でも流布した者勝ち」というのに与するものです。こういう考えは、「デマであっても、正しい目的があれば流布した者勝ち」につながる考えだと、私は思います。
また、不特定多数の読者の中には、書かれた文章にわずか一文字でも誤字脱字があれば、その文章全体の程度を疑ってしまう人がいることを、書く者は忘れるべきではないでしょう。ましてやそれが1単語、1文節の誤用となれば、その影響は推して知るべしでしょう。もっとも、これは自分の文章の信頼性を下げたい人にとっては、気にする必要がないかもしれません。
さて、話が逸れまくっているのを元に戻しまして、当初のお題の「差別」ですが、これ以外にも「人権」や「右翼」「左翼」などという言葉に、言葉の意味とは違うイメージが付帯されていることが多いのは事実だと思います。
私はこの現象を、言葉を漢字ではなくカタカナで理解しているからだと思っています。つまり言葉の意味よりもイメージを重視するということは、「差別」を「サベツ」、「人権」を「ジンケン」、「右翼」「左翼」ではなく「ウヨク」「サヨク」と理解しているのでしょう。
その言葉の【音】を相手にぶつけることによって、一定の反応が期待出来るということを、「言葉の意味」と誤解しているのではないかと思います。
実はこの「言葉を、言葉が持つ意味そのものではなく、言葉に付帯されたイメージで用いる」ということは、韓国人の間で非常によく行われています。
韓国では、漢字を廃し、ハングル専用にしたために、言葉の本来の意味を探ることが非常に困難になってしまっています。そのため、韓国人同士でさえ俄かに理解できない単語が出現することが、非常にしばしばあります。
私はチャットログを編集する際に、翻訳不全の部分を韓国語の辞書で確認しながら修正していますが、「韓韓チャットログ」という記事を書いた際、チャットログの中に辞書にない言葉がいくつか出てきました。
日韓チャットでも機械翻訳出来ない単語が出てくることはよくあるのですが、韓韓チャットの場合は、その発言量に比して、翻訳不能語彙の出現頻度が日韓チャットより高いのです。
日韓チャットならば、似た音の単語を探したり、適当な部分で分かち書きにしてみたりすれば、たいていは何とかなるのですが、韓韓チャットではどうやっても翻訳出来ない部分がいくつもありました。しかたがないので、その部分は日韓チャットで韓国人に頼んで翻訳してもらったのですが、その時に「その単語はそういう意味なの?」と聞くと、「この単語の意味はわからないが、文脈で判断した」という答えが何度か返ってきました。
「その単語は辞書にも載ってなかったんだけど」と私が言うと、その韓国人は「韓国では、人々が勝手に言葉を作って使うことが多いので、韓国人同士でもわからない単語がある」と答えました。「そういう場合はどうしてるの?」と聞くと、「文脈から推測して判断してる」と言います。
また、「極右」や「右翼」という言葉を「嫌韓」という意味で用いる韓国人は、日韓チャットでは枚挙に暇がありません。そんな彼らに「極右」や「右翼」の意味を問うても、まともに答えることが出来た韓国人は、少なくとも私が見た限りでは、皆無です。
そう言えば弊ブログの人気記事【「約束」の意味】でご紹介したように、「約束」という言葉も、彼らは意味を知らず、イメージで用いています。
日韓チャットで韓国人を観察していてしみじみ痛感するのが、「言葉」というものの大切さです。
韓国人は、言葉を非常にぞんざいに用います。日本人にそれを咎められれば、「翻訳の間違いだ」とか「文化の差だ」と言い逃れようとします。それは語句の誤用を咎められて、「言葉は変化するものだ」と言い逃れようとするのと、どれほどの違いがあるのでしょうか。
言葉は、正しく用いなければ正しく考えることが出来ず、正しく伝えることも出来ず、正しく受け止めることも出来ません。もちろん、文章表現上の技法として、言葉の意味とは異なる使い方をあえてする場合もありますが、それと誤用や悪意のある言い換えとは、まったく性格が異なります。
例えば、「お上手」という言葉を、まったく上手ではない人に使うことがありますが、それは誤用でも悪意のある言い換えでもありません。「上手」という言葉の意味を理解した上での、反語的揶揄表現です。
人間は、言葉でなければ考えることも伝えることも受け止めることも出来ません。以心伝心などは、言葉で十分に理解しあった者同士でのみ成立するものです。
言葉はコミュニケーションにおいても、考察の手段としても、万能でも完全無欠でもありません。だからこそ言葉を用いる際には、正しい意味で用いることで、少しでも誤解を少なくする努力をするべきなのです。それを「伝わることが重要」などと言って、言葉のイメージを優先して意味を蔑ろにするのは、本末転倒以外のなにものでもありません。
韓国における漢字廃止とハングル専用は、漢字が読み書き出来なくなるなどという単純で表層的な問題だけではなく、私たち日本人が想像する以上に、韓国人から言葉による理解力や表現力、思考力を奪っています。
韓国とは、言葉が言葉の意味を失って、あるいは言葉が持つ本来の意味を無視して、その音の響きと、その音の響きから受ける印象で、意思の疎通をはかろうとしている社会です。
その社会が如何なるものかをご紹介しているのが弊ブログであり、日本をそんな社会にしたくないというのが筆者の願いであることを、読者諸氏におかれましては、どうかお忘れなきようお願いしたいと思います。
コメント
ブラボー!
すべての日本人に読ませたい記事ですね。
私が最近気になっているのは、「命題」という言葉の使われ方です。
>言葉は、正しく用いなければ正しく考えることが出来ず、正しく伝えることも出来ず、正しく受け止めることも出来ません。もちろん、文章表現上の技法として、言葉の意味とは異なる使い方をあえてする場合もありますが、それと誤用や悪意のある言い換えとは、まったく性格が異なります。
ブログ主さんの仰るこの部分に共感します。
私は「言語は思考そのもの」だと思うので言葉をぞんざいに扱う人は、たいした思考力のない薄っぺらい人だと受け取ります。
少なくとも「言葉の意味」という定義の部分を軽く扱っている人物の思考に芯があるとは到底思えないですし(定義を軽く扱うひとの思考は陳腐なものになるのは当然のこと)どうしてもその人物の言動はふらついたものになりがちです。
私はこのような考え方なので、時とともに言葉の意味や用法が変遷することを盾に現時点での言葉の扱いが軽いことを看過するのは良くないことだと思っています。
事実、左翼系メディアを筆頭に左の端っこのほうにいる方々は理詰めで論破させるたびに言葉の意味を変遷させて、長年のシュプレヒコールにより言葉にこびりついてしまった負のイメージだけをたくみに利用して反日活動に勤しんでますよね。
一部では「あんなのは追軍売春婦だ」とまで言われるようになった、左翼が言葉のイメージに頼って反日を煽るいわゆる「売春婦の強制連行問題」なんかは典型的です。
論破されるたびに言葉の意味を変遷させて転戦を続けてとうとう「広義の責任」などという言葉まで飛び出す始末です。
このように言葉を軽く扱うことを看過するととんでもないことになります。
呉善花氏が指摘しています。
漢字を廃止したために、韓国語から抽象語の70~90%が消滅したようです。
日常会話には支障はないと思いますが、「難しいことは日本語で考える」という韓国の老人の言葉は本当なんでしょうね。
日本語を知っていれば、世界の文献が読める。韓国語を知っていても世界の文献を読めないし、第一に訳せない、それどころか自国の60年前の文献がもう読めない、というのが現実なわけです。
私が韓国人だったら朝鮮語の消滅の危機と感じますけどね。
最終的に英語を公用語にするオカンがします。
パチパチ
ステキです!!
やっぱり、「月見櫓」はこうでなくっちゃいけません。
とは言えワタクシ、その「言葉の誤用」を頻繁に犯すオタズネモノなので、エラソーなことは言えません。
私は以前から疑問に思っていたことが1つありました。
それは、昨今叫ばれる「英語教育の強化」です。
英語を習得すること自体、悪いことだとは思いません。
私も英語を習得したいですw
周りのケトウ、もとい! 諸外国な方々に文句を、もとい! 自分の意見を主張するために。
それに、やはり英語と日本語、言語的な構成も違いますから、当然考え方等にも影響があるのでは、と考えています。
英語的な発想・理論構成力を身につけることも悪くは無いでしょう。
が、しかし、
「果たして、日本語で論理的に思考出来ないヤツが、英語だったら出来るわけ?!」
と思うのですよ。この辺り、バイリンガルな方、いかがなもんなのでしょうか。
まずは、「日本語」というバックがしっかりあってこそ、の話じゃないのかな、と。
言語を駆使してキチンと目的を果たす、そこに英語も日本語も無いわけで、日本語めちゃくちゃで使いこなせないような人間に英語詰め込んだ所で、中途半端に英語使えるダメなヤツ、でしかないんじゃないか、そう思うんですが。
この辺りは私の推測なんですけどね、単なる。
それに、言葉=文化と言う面を考えると、言葉はアダおろそかには出来ません。
それから、「イメージ」の問題、これは私も最近一番注目していることです。
この「イメージ」と言うヤツ、タダモノじゃありません。
っつーか、やっかいです。
そもそも今のマスゴミなんて、ほとんどこれ一本じゃねーの?! と疑っております。
それともこれは、ただ単にワタクシが人を信じられない悲しい人間になってしまったせいでしょうか・・・・・。
ま、私の悲しい人生はさておき、やはり「イメージ」と「事実」「現実」をキッチリ分ける、これは最低限やっておかないとね、と自分に言い聞かせております。
今本当にこの「イメージ戦略」は多いですから。
イメージ(笑)
はじめて書き込みます。
やはり韓国人のイメージ優先主義は、言葉というものを蔑ろにしたことも原因の一つなんですね。
少し前の牛肉輸入に関する反米デモでは政府側の人間を「チンイルパ(親日派)!!」と罵る場面が多くあったそうです。
無関係な日本を罵る理由が判らず「とにかく日本を叩きたいのか」と見ていましたが、後になって知人が「漢字を廃しているため、言葉の本来の意味を考察できず、わけもわからず叫んでいるのでは」と推察していました。
言葉が本来の意味とは違う用法で使われることはよくあることですが、韓国では言葉の表層の安直なイメージが本来の意味に取って代わって横行し、論理的思考の形成を阻害しているのかも知れません。
(もっとも論理思考が出来ないのは言語以前の問題かもしれませんが)
「日本では国営放送(NHK)が武士のドラマを毎年放送して人気を博している。だから日本人は武に傾いた好戦的な民族だ」
「地震大国日本の国民は国土に対する不安に苛まれ、大陸に領土を確保しようと武力を増大してる」
いずれも韓国の新聞記事で報道されたものですが、彼らのイメージは深刻なレベルに達しているようです。
言語崩壊
裁判での判決に法律を厳格に適用するよりも情を優先させてしまうような国ですからね。もはや言語体系がズタズタに崩壊しているのでしょう。
昔から空理空論で脳内イメージを膨らましている位ですから、漢字の廃止に伴う思考停止や言語崩壊は必然だったのでしょう。
残念ながら日本においても管理人さんがおっしゃるようにイメージ先行の言葉使いが目立ちます。その場の遊びとして突っ込まれたり突っ込みを入れたりする分には構いませんがね。それを通用させようとしたり通じない人をバカにするような態度は止めさせるべきだと思います。また、それに追いすがるようなマネは惨めだと思うのですがね。
これからも頑張ってください。
間違いの基準は?
>間違いは間違いです。
あることを正しいあるいは間違いだと判断するからには基準が必要だ。ここで間違いだとする基準はなんだろうか。下に引用した部分から見るに辞書を基準とされているようだが、いかがだろうか。
>ましてや「辞書に載っていようがいまいが、相手に意図が伝わらなければ意味がない」「辞書も後追いしてくるだろう」などという詭弁は本末転倒も甚だしい。まず辞書に載っている意味で、相手に意図を伝えるのが本来ではありませんか。
まず辞書という点がすでに本末転倒だ。
まず人々に使われている言葉がある。次に、その用例をまとめて辞書に載せる(ただし辞書に載らない言葉も多いので辞書を唯一の基準とすると、使うことができない言葉がわんさか出てくる)。
これが辞書のエントリーが成り立つ順序だ。あくまでも人々に使われている言葉こそが「本来」ということだ。
私は「わたくし」「わたし」?=常用漢字見直し-文化審小委
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-080922X325.html
から初めの段落を引用する。
――引用ここから――
常用漢字表の見直しを進める文化審議会漢字小委員会は22日、「私」の訓読みに「わたし」を追加するか、現行の「わたくし」と入れ替えるかなど、読み方を議論した。また、表に追加する188字の字種候補から「蒙」を外し、「刹」「椎」「賭」「遡」の4字を入れることを決めた。
――引用ここまで――
なぜ見直しを進める必要があるのだろうか。もちろん使われ方が変わってきたからだ。辞書など関係ない。
韓国語を少しでもかじったことがある人なら日本語で言われるところの「ハングル」の「グル」が「文字」だということは知っているだろう。
ところが「ハングル文字」というのが頻繁に登場する。我輩にとっては居心地の悪い言葉の一つだが、これが普通に使われ、また意味をも共用できるのだから、受け入れざるを得ない。自分から使うことはないが。
そもそも言語なんてものは、コミュニケーションのための道具なのだから、受け手に意味が通じればそれでいいわけだ。受け手に意味が伝わっているのに、「いや、それは辞書の使い方とは違うから間違っている」などというのは、なんだかおかしなイデオロギーとりつかれてるとしか言いようがない。
さて我輩のテーブルには一本の空き瓶がある。この瓶には元々ブルーベリージュースが入っていたが、いまでは花が活けてある。
いまのところ「その瓶は本来ブルーベリージュースを入れるために作られたものなのだから花瓶として使うのは間違っている」という人はいない。道具なんてそんなものだ。
縄文人さん
>漢字を廃止したために、韓国語から抽象語の70~90%が消滅したようです。
たとえ漢字を廃止しても、漢字語がなくなるわけではないのだが。その「抽象語」の例をいくつか挙げてもらえないだろうか。
↑(楼主氏の投稿)を読んで、古畑任三郎(明石家さんま犯人役)を思い出しました。(以下ネタバレです)
さんま(犯人)は誤認逮捕された犯人の弁護士となって言葉を武器に「執行猶予」を勝ち取ろうと奮闘するのですが…そのときの発言が原因で古畑に犯人だと見破られてしまいます。
「花瓶として使われていた水差し(凶器)」を、彼だけが「水差し」と呼ばず「花瓶」と言い続けたために。
>「その瓶は本来ブルーベリージュースを入れるために作られたものなのだから花瓶として使うのは間違っている」という人はいない。
「道具の使い方」と「物の名前(言葉)」には、深い溝がある(人殺しが見破られるほどの)と思ったドラマでした。
要点が違うのでは…
ブログ主さま、いつも楽しみにブログを読ませてもらっています。
少し気になったコメントがあったので今回書き込みさせてもらいます。
楼主さん
記事の一文に上記のところがありました。
>「その単語は辞書にも載ってなかったんだけど」と私が言うと、その韓国人は「韓国では、人々が勝手に言葉を作って使うことが多いので、韓国人同士でもわからない単語がある」と答えました。「そういう場合はどうしてるの?」と聞くと、「文脈から推測して判断してる」と言います。
私が思うに辞書ありきとは言わないが辞書にも出来ない様(しにくい)な事は弊害ですよね。「文脈から推測して判断してる」というようなところがハングルは良くないと思うのですが、どうでしょうか?
漢字には同じ音読みでも全然意味が違う言葉がありますよね。言葉を受けた人が言葉を発した人の前後の言葉の雰囲気でその分からない言葉を推測するという事。
推測が合っていれば問題無いが、間違って推測した場合、言葉が相手にちゃんと伝わっていない。本当のコミュニケーションが取れていないという事。または取りにくいという事。漢字をやめてハングルになった事で漢字そのものが表した意味が音だけのイメージになってしまった弊害だと思います。
>そもそも言語なんてものは、コミュニケーションのための道具なのだから、受け手に意味が通じればそれでいいわけだ。
まったく、その通りだと思います。
ただ今回の記事は受け手に意味が伝わりにくい事を問題にしているので「辞書がどうたら…」コメントするのもどうかと思うのですが…。
ちなみに使わなくなった辞書を枕のかわりにするのもokだと思いますがw
道具なんて、そんなものですよね。使う人の使いたい様に使えばいいんだから。
楼主様へ
基準を辞書に置いていることにご不満がおありのようですが、「コンセンサスを獲得したもの」という点においてはどうでしょうか?
なんのコンセンサスもない人々が話している言葉をそのまま全て正しいとするのは如何なものかと思いますが。
例えば、漢字を適当に読むことを「百姓読み」などといいまして(お百姓さんには大変失礼ですが)、恥ずかしいこととしていましたよね。
人間、兎角楽な方へ流れたがるものですが、横着せず、知らない単語はきちんと調べましょう、ということだと思います。
その時頼りになるものの一つとして、辞書があるのだと思います。
きちんとした知識という一本筋の通ったものが無いと、その言葉は芯のないぐんにゃりとしたものとなってしまうでしょう。
文化審小委の件については、そもそも日本語を壊そうとしている人たちですから、申し上げることはございません。
強いて上げるなら、このニュースを読んだとき、この人らはよほど無知「蒙」昧な方々なのかな、と思いました。
こんな変更はご免「蒙」ります。
外来語に関しては、日本語に定着した時点で正しい翻訳ができていたとは限りません。
ですので、意味の重複は仕方がない部分もあるのではないでしょうか。
重複ならまだしも、それこそ全然違うものを指していたりしますしね。
直せるところは直したいですけどね。
> そもそも言語なんてものは、コミュニケーションのための道具なのだから
ここが一番間違っていますね。
言語は思考のツールたり得ますし、管理人様もそういうことを書かれています。
本文の後半部分と、楼主様の後半部分はまるで立脚点が違うように思われます。
> その「抽象語」の例をいくつか挙げてもらえないだろうか。
わたしが答えるのも何ですが、呉善花氏の書を当たればよいのではないでしょうか。
最後に老婆心ながら、以下のようなサイトも参考にされては如何でしょうか。
<http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/>
このエントリーを読んで、以下のようなものを持ち上げる秋元康はつくづく日本文化デストロイヤーだなあと思いました。
日本ケータイ小説大賞「あたし彼女」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1177807.html
>いまのところ「その瓶は本来ブルーベリージュースを入れるために作られたものなのだから花瓶として使うのは間違っている」という人はいない。道具なんてそんなものだ
このような論理的に同値とは言い難い例を持ち出して相手を言い負かしたように勘違いする人がよくいますね。
論理的思考が苦手な人が嵌りやすい失敗だと思いますよ。
そういう意味でも私が先のコメントでも評したように言葉の意味を軽く扱うひとは物事の定義の扱いが雑でありそれによって思考に雑さが出るということの典型だと思います。
そのような意味を成さない例示で反論した気分に浸っているようではどうにもなりません。道具の使い方に厳格でなければならない例をひとつ提示されると全くの無駄になりますし。
『我輩が思うに救急車をタクシー代わりにつかってもこれでいいのだ』
楼主さんの主張はこんなレベルです。
少なくとも楼主さんの的外れな例示から論理展開して言葉の意味にこだわる向きを偏狭だという結論に導くことが良しとされるのであれば、楼主さんは救急車をタクシー代わりに使うことを容認していてモラルが無い人物であるという楼主さんが的外れな例を利用して相手のイメージを崩すくだらない戦略がそのまま返ってくるわけです。
ここで口喧嘩の勝った負けたにこだわるあまり「本当にタクシー代わりに使ってもいいと思っている」といわれればお手上げですが。まあそのときはそのときで、その程度の人だから議論をしても無駄な相手だ、とレッテルをはられる覚悟をしておく必要がありますね。
言葉の意味の部分と少し離れますが、私はいつも思うのですが話し合いの中ですぐ例を出したがる人の例示が論理的同値といいがたいものが多く、しかもそのずれた論拠で相手のイメージを手っ取り早く貶めようとしているようにしか見えないのです。
まあ言葉の意味や定義の部分をおろそかにしてもかまわないと言う相手に、論理的同値か否かの話を返したところで会話が成立しないことは見え見えなのでむなしさがありますが…
おやおやw
楼主さんは、またわかりにくい長々とした例を出して、中味は「?」って感じのレスですねw
【おい!それは朝鮮うんこ壷だぞ!】
>阿呆楼主
>【まず人々に使われている言葉がある。次に、その用例をまとめて辞書に載せる(ただし辞書に載らない言葉も多いので辞書を唯一の基準とすると、使うことができない言葉がわんさか出てくる)。
これが辞書のエントリーが成り立つ順序だ】
【辞書のエントリーは、本来、人々に使われている言葉がまとめられたものである】と規定しながら、【辞書を基準としない】というのは論理矛盾である。阿呆にはなんのことやらわからんだろうw
【私】の読み方が【わたくし】でなく【わたし】と入れ替えるべきか否かという議論に、【私】の言語としての意味の変容・変質が存在しているはずもなし。阿呆にはなんのことやらわからんだろうw
don氏の言う通り、【意味を成さない例示で反論した気分に浸っているようではどうにもならぬ】
すでに賢明な読者は気がついているだろうが、【こういう詭弁を弄すること】を、【朝鮮人のようなことをする】と言うのである。
もっとも、当て外れな上、主旨の混乱を来たしているような思考レベルの阿呆は、的確な指摘をされても、どうせなんのことやらわからんのが常である。
阿呆は阿呆らしく・・・
【朝鮮うんこ壷】で供されたピビンパでも有難く食べていればよろしい。
>私は「わたくし」「わたし」?=常用漢字見直し-文化審小委
donさんの指摘を持ち出すまでもなくこれもまるで意味が違う。
読み方が変節していることに時代を反映させるか否かを検討すると言うことと、その言葉が本来持つ意味を安易に改竄(または単に無知による取り違え使用)することを同列に例として持ち出すこと自体変だと思わないのかね。
言葉が単なるコミニュケーション手段と考えるのなら願わくば、自分の廻りだけにしておいてください。
言葉は祖先から孫子へと伝える歴史でもあると思います。
私などは保守ですから生きている間だけは正しい言葉を使いたいと思っています。
その後の世代が異なる意味を与えるのであればやむを得ないでしょうがね。
さて、
桜主殿には、「雑巾用バケツ」と「飯用バケツ」の違いについても説明が必要でしょうか?
やれやれ・・・・
>>そもそも言語なんてものは、コミュニケーションのための道具なのだから、受け手に意味が通じればそれでいいわけだ。
全然良くありません。
こんな乱暴な理屈をこのブログでまかり通すわけにはいかない。
それでは、【一匹】【一枚】【一本】などに代表される助数詞の全てを【一個】と表現しても【受け手に意味が通じればそれでいい】のでしょうか?
日本語には全く同じ意味を持つ慣用句なども沢山ありますが、それらの全ても【受け手に意味が通じればそれでいい】と言いながら、蔑ろにしていたら、いつの日か本当に【奥行きも無ければ幅も無い、非常につまらない言語】になってしまいます。
言語というのは単純に只の道具というわけではありません。
いわば文化といっても過言ではないでしょう。
そのような言語をブルーベリージュースの空き瓶と同列に語っている、そこのあなたに物申す。
我々が使う日本語の単語や慣用句などには意味があり、由来があり、歴史があるのです。
当然【正しい使い方】というのが出てくる。
例えば、【進退きわまる】という慣用句がありますが、多くの人が【進退窮まる】と書きます。
【進退窮まる】は辞書にも記載されていますが、【進退谷まる】と書くのが正しい。
この言葉は孔子が編纂したとされる「詩経」の文言が由来ですが、「進退維谷」(進退これ谷まる)との原文を尊重して【進退谷まる】と書くのが正しいとされています。
上記の例えは、どちらの字を使っても「意味」が変わってしまうような事は無いので良しとされていますが、イメージが先行して本来の意味が失われそうな言葉は「煮詰まる」や「すべからく」、他には例えば「流れに棹さす」等もそうですよね。(流れを止めるという意味で使う人が多いが、本来は流れに勢いを付けるという意味)
これらは、やはり間違いは間違いなのだから、それを知った時点で正すべきだと思います。
知らない人や間違っている人が周囲にいれば教えてあげればよい。
さて、ここからが問題なのですが、日本には言葉を間違って使うだけなら可愛気があるのだが、言葉の真意を汲み取らず、イメージだけで【抹殺】しようとする輩がいることです。
先の【差別】然り、【朝鮮人】という単語然り。所謂言葉狩りですね
これらは、役目を終えて自然と使われなくなっていったような古語とは性格が異なります。
所詮イメージなど、何かに基づくようなものではなく単なる思い込みに過ぎません。
イメージが悪いとされる言葉を使わないのは勝手だが、他者に対して「使うな!」というのは筋が違うと私は思いますし、ましてや、「先行したイメージがその言葉の本質である」という意見は、もう何か他の意図があるようにしか思えないw
そのようなことを要求する人に屈するわけにはいきません。
言語も文化財の一つなのです。
余談ですが、戦後、GHQの占領政策の中に「日本で使われる公用語を英語にする」というものがあったそうです。
幸いに吉田茂総理は、それは阻止したようですが、もしも吉田茂元総理が、【言語なんてものは、コミュニケーションのための道具なのだから、受け手に意味が通じればそれでいい】というような考え方なら、今頃日本語は過去の遺産になっていたかもしれません。
突然ですが…
世にも奇妙な物語の「ズンドコベロンチョ」を思い出しました。
【いまや日本はズンドコベロンチョですね】
【日本はズンドコベロンチョを反省して謝罪しなければならない】
【そうそう、南京ズンドコベロンチョも、ズンドコベロンチョ部隊も反省しろ】
知らないのか?
知らないお前は【ズンドコベロンチョ】だ
クスクスw
桜主氏には賛同できないけど、月見櫓に集っている皆さんも結構ファナティックな気がしないでもない。自身が正しい国語を守りたいと思い、それを励行するのは良いことですし否定するつもりはまったくありません。が実際には多々誤用され、「あらたしい」が「あたらしい(新しい)」で定着してしまったような現実もあります。「ともあれ」というのもキーボードを使った誤打のせいかは判りませんが「とまれ」で通用するようになちゃいました。いまさら「あらたしい」に戻します?戻せます?
でもそれで日本語がおかしくなったと言えるでしょうか。先にどなたかが述べていましたが思考ツールであるのならば、そこには変質は及んでいないと思うのです。言葉の成り立ちを知れば意味を間違える事はなくなるのでしょうが、知識を得ようとしない人の方が世の中多いのが現実です。ここに集っているのは(たぶん世間では少数派の)思考することが大好きそうな人たちなので、気がつかないのかもしれませんが、変質させるのは知識を得ることに興味の無い多数派なので逆らいようもありません。言葉の変化が良いとは言いませんが、抗いようの無い流れでもあります。その中で現実的対応をしていくのは止むを得ないと思うのですが、変化をすべて悪意と捕らえ些細なことでも朝鮮人扱いするのは韓国面に落ちているような気がします。作為的な言いかえと、自然な変化は別だと思うんですがね。
たぶん実際に、自然進化的に、より伝えやすいと言う理由で変化している部分もあると思います。言葉のほうは実例挙げるほど勉強してませんが、類例というか逆の例として日本国憲法が挙げられます。まったく変化しないがゆえに状況の変化に対応しづらいらしいです。サイバー系の犯罪に対しての対策の立法に障害になっていると聞いております。何事にも変化は必要だと思います。また変化に対応するのを得意とする日本人が何も変えないわけがないと思います。サイバー系の法律も何とか作るでしょうし、言葉もたぶん例外ではないでしょう。
漢字をやめたり、中国と同じ簡略体の漢字で統合しようなんて話であれば日本語の危機だと思いますが、末端の単語や言い回しに拘泥するのも何か違うような気がします。
今使った言葉の意味に齟齬があって、「言葉の意味はこうこうこうで~~」と説明する側へ「実際問題として起こる長いスパンで見た場合の言葉の意味の変遷の有無」や「時計の針を戻せないこと」をもって反証とするのは私に言わせれば不誠実ですね。
率直に言って筋違いの返答でしょう。
少なくとも言葉なんてものはただのコミュニケーションツールだから意味に頓着しないとする方が、頑として「言葉の意味」の説明を受け入れようとしない姿勢には違和感がありましたけどね。
言葉の意味に頓着しないはずの人が、「言葉の意味はこうこうこうですよ」との説明を遮って「言葉の意味は変遷するものだ」の一点張りで妙なこだわりを持っていらっしゃるように思いました。
私が仮に言葉の意味は頓着しない立場であるなら「この場においては以後その意味で会話を通しますね」の一言で済む話なのですが、頓着しないわりになぜか一歩も譲る姿勢を見せない。
前に私がちらりとこぼしましたが、言葉の意味に頓着しないというのは方便でただの口喧嘩の勝った負けたに頓着しているだけなのでは?と見えました。
結局のところそのような部分に違和感を感じた人からの反論が集中しただけじゃないですかね?
何時もこのブログの更新を心待ちにして楽しませていただいております。
donさんに一票ですね。
正直、楼主さんのHPを見せていただいたのですが、どうも屁理屈(としか私には思えないのですが)を捏ねては人をやりこめるのがお好きな方のようです。
で、今回みなさんがすぐに降参しないもんだから向きになっているようですね。
いや、あれやられると話し合う相手じゃないってそっぽ向かれて見放されているだけなんですけど、当人勝ったつもりになっているのが何やら「朝鮮人」みたいですよね。何故なら自分の意見は平伏して聞け、だけどお前の意見は聞く耳持たないって態度に終始しているのですから。 hidenoriさん、だまされちゃいけません。彼は半ば確信犯的にやっているんですよ、あるいは本能的に。
正直言うと彼の書き込みを見るのが苦痛なのですが、これと同じ苦痛をプログ主さまや日韓チャットの常連様達が味わっているのかと思うとその忍耐力がすごいなぁとか、ああいう態度を韓国人にとるのも当たり前だなぁと思っちゃいますね。(だって、相手が自分に誠実じゃないのにこちらが誠実を通さなければならない必要なんて全くないですよね)
いや、いい症例みさせていただきました。
ヾ(>▽<)ノ彡バンバン!☆
>「雑巾用バケツ」と「飯用バケツ」の違い
kanjiさん、大受け致しました! お見事!!
もしまた何か言ってきたら、ブリキ製バケツを頭上から落としましょうか。いや、例の巨大なブリキ製たらいの方が相応しいかな?
日本語の変形と言えば、「新しい」「だらしがない」が有名ですね。でも、「新たな」「ふしだらな」が今も使われているように、意味が全然違ってしまっている訳でもないでしょう。これは「私」の読み方を「わたし」「わたくし」にするかの話と同列に入ると思います。
言葉は同じなのに使っている意味が違ってしまっている例では、「やばい」が一番有名かと思います。
危険なことを意味する「やばい」が今では「凄い」意味にも使われるようになってしまっていますが、広辞苑第6版には収録を見送ったようで、まだ掲載されていませんね。
尤も、「凄い」も漢字を見て判るように本来は「ひどい」の意味で使われていたのが、今の「やばい」と同じ運命を辿ってきたようで。
そうそう「とても」も、明治時代では「全然」とほぼ同じ意味「とても~ない(とても出来ない)」と否定語として使われていたということです。
つまり「全然~ない」と同じ使い方だったんですね。
しかし今では「とても寒い」と言う使い方が認められているように、「全然OKです」も公認されつつありますね。
私はいまだに「全然大丈夫です」のような使い方は烈しく違和感を感じている身ですが。
しかしながら、だからといって、言葉は変形していくものと言って、間違った意味のまま使われて、辞書に載るまでに定着化していくこととは、意味が違うと思います。
少なくとも、「言葉は正しく使われるべきである」ことを前提にして、語らいあうのが本来かと。
抽象語。
抽象語についてですが、
一般全員が等しく感じ持っている概念的なイメージを言葉にしたのが抽象語(辞書によれば(笑))なわけで、哲学用語が最も多そうですね。日本語では漢語による抽象語が殆どとのことですから、日本語から漢字を全撤廃されたら、哲学的な会話が成り立ちにくくなる意味では、朝鮮語と同じですわな。
抽象語を出せと言うのなら…、 「抽象」はもちろん「印象」「概念」「心理」「前提」「技術」「自然」「気象」「宇宙」「四季」・・・。
大和言葉では「ことわり(理)」「まつりごと(政)」「あやかし(妖)」「春・夏・秋・冬」?
大和言葉はわりかし語彙数が多いと思いますが、抽象語はなかなかね。
「しんり」には「心理」の他に「真理」「審理」「心裏」と漢字があり、「審理」を除くと意味がちょっとかぶりますね。
「心理」について語ろうとして心の裏側ではの意味での「心裏」、「心理」では物事の真の姿がはかり(計り?量り? 間違っても図りとか謀りではないよな)きれるものではないなどと「真理」も語られては、漢字抜きでは相手に間違いなく自分の意志、意図、意見を正しく伝え切れないでしょう。
そういう意味では、言葉を正しく知り、正しく使うには、やはり、辞書で意味を正しく調べる以外にない訳です。
間違ったまま使い続けたり、私ではずっとこの意味で使い続けてきたから使い貫く、では本末転倒です。
楼主さんのことを一瞬ブログ主の意味で月見櫓さんかと思ってしまった
花を挿して花瓶として使っているのは本人だけで、ブルーベリーの瓶は、どうみてもブルーベリーの瓶です。
ためしに誰かに、花を挿してない状態で「その花瓶とって」と言ってみると、言われた人は「花瓶」を探し回るけど、目の前のブルーベリーの瓶のことを言っていることに気づかないのでは?
自分だけが勝手に納得して使っていても、他の人には通じないと言ういい例ですね。
さんまもうちでは水差しは花瓶としてしか使いませんって言い張ればつかまらなかったのにwww
ハングルのグルが文字という意味だったとは知りませんでした。
ウイッキペディアでは「大いなる(または一つの)文字」と言う意味だそうでした。
漢字が読めない下々のために発明されたものが大いなる文字って、昔っから朝鮮人はorz。
NHKは朝鮮文字講座をやっているんですね。
って言うか、ハングルを朝鮮語と日本人が誤用しているのは朝鮮語の講座をハングル講座としたNHKのせいですね。
「そいつに腰掛けて楽にしてくれ」
「腰掛けるって、これ瓶じゃないですか」
「瓶?何言ってんだ、それは腰掛けだ」
「いやどう見ても瓶でしょ、ブルーベリーでも入れておくような」
「瓶ってのはああいうの呼ぶんだ」
「あれは花瓶でしょ!色と言い形と言い!」
「なんだと!?こちとらずっとあれにブルーベリー入れてるんだ!文句あるか!」
「じゃあ壁に掛かってるそれは時計じゃなくて洗濯機なんですか?」
「バカ言え、それは冷蔵庫だ!!」
という掛け合いを想像しました。
どうも、コメントはあまりしてませんがいつも読んでいます。なにか盛り上がっていますね。
>10年20年の誤用でいちいち定着させてたらきりがありません。
同意です。
そもそも辞書は「模範とされる日本語」「標準日本語」のテキストを作ろう、編纂しよう、という考えのもとに作られたものではないでしょうか。
ここでいう標準日本語はアナウンサーが使う日本語などのイメージで結構です。
みなさんは100年も200年も昔の辞書を使っているわけではないですし。きっとみなさんの辞書はその「模範的日本語」を教えてくれるものであるはずですね。
辞書には充分にとらわれるべきだと思いますよ。
コトバの変化についてですが、ここでみなさんがいっている変化は
「言語は生き物なんです。だから常に変化しているのです」
とか、そんな誰でも知っているようなことの確認ではないはずですね。
流行語、新語、俗語など、日々生まれ続けていますがそれは結構なことだと思います。
ただ無知や学習不足、学習能力低下が原因の変化は決して望ましいものではない、ということでしょう。
そしてそれを望む人はおそらくいないでしょう。
あと、ときどき「外国語間の意味、発音の変化」の例が出てきますがこれって変化の種類としては別種ですよね?
自国の言語に輸入して独自の意味や発音で定着させていく過程と、元来誤りだとされたものの使用頻度が優勢になって時を経て公認されるという場合とでは言語学を語るなら「区別」したほうがいいのでは?
、と思いました。チャンチャン。
言葉の変化で盛り上がってるようですが、今頃ですがわかったことがひとつ。
楼主さんの言ってる事はまったく逆なんですよね。
ある漫画の台詞で思い出したのですが、太陽を何と言い換えようと、太陽は太陽なんです。サンと言い換えても太陽を指してることには変わりがありません。
つまり、本質さえ理解していれば言葉の表現は多少なりとも変わってもいいわけです。
「わたし」「わたくし」問題はこっちの問題ですね。それが言葉の変化です。
区別差別はまったく逆です。
言葉の発音をそのままに、本質を変えようとしてしまっているのです。太陽と呼びながら夕日だけを指してるようなものです。文脈によっては合いますが、多くの場合は伝わりにくくなったり誤解を起してしまうでしょう。
発音は変わらず、本質が変わってしまった例としては、前の「煮詰まる」などがそうですが、これはご自分で指摘していように、年代によってコミュニケーション不全が起きています。これこそがイメージ先行で言葉を使う悪い例といえるでしょう。
ブルーベリーの瓶の例も、既に花瓶として使ってしまってはブルーベリーの瓶としての意味をなしません。まさか花瓶にしたものをまたブルーベリーの瓶に使う事は常識的にありませんよね?そもそも空き瓶になった時点で「元ブルーベリーの瓶」であることは誰の目から見ても明白です。
よって、蛇足にすらならない無意味な文章です。
結局のところ楼主さんは何の説明も、証明も出来てないんですよね。
余談ですが
『春夏冬二升五合』
知ってる人も多いかとおもいますg、これ何て読みますか?
言葉の本質さえ理解できれば、こんな表現の仕方も日本語としてはアリなんです。
前にも言いましたが、「差別=不当な差別」というのならば「正当な差別」という意味を本質とする言葉を示さねばなりません。
いまだ示されてないとおもうのですが、それが出来ない限り、すくなくとも人様のブログで強弁するようなマネはやめてください。
イメージで伝わればいいのなら
「韓国人」
より
「朝鮮人」
の方がやっぱりしっくりするのだが、
なぜか侮蔑語扱いなんだよな。
「言葉は変容するものだ」という根本的な部分にNOという人は、少なくともこのコメント欄の参加者にはいませんよね。
みなさんがおっしゃっているのは、「変容のすべて是」とする危険性と、日本人のコンセンサスの基準としての「辞書」という存在を軽視することの危険性なのだと思いますし、これについて私も同感です。
>前にも言いましたが、「差別=不当な差別」というのならば「正当な差別」という意味を本質とする言葉を示さねばなりません。
差別という言葉に関しては、辞書に「差別=不当な差別」という定義も併記されている現状で、それと対をなす「正当な差別」や従来の定義での「差別」を意味する言葉が存在しないことが混乱の元になっているような気がします。
※当初、「差別=不当な差別」という定義しか知らずに論を述べていた私の発言は撤回していますので、その論とマージさせる気は毛頭ありません。お間違えのなきようお願いします。
「差別」という言葉について、面白い考察を見つけましたので紹介しておきますね。
「差別」という言葉について
http://www7.plala.or.jp/machikun/essayag.htm
差別という言葉について
http://anond.hatelabo.jp/20070321234659
本来って
なんだかイメージという言葉に過敏に反応する人が多いが、そんなに大げさなことではない。
管理人さんの言葉からイメージ操作の例を一つ挙げよう。
>私個人としては、「人々があるイメージを共有するためには言葉に依らねばならないが故に、無闇に言葉の持つ意味に誤ったイメージを付帯させて用いることは危険である」と思っています。
「無闇に」という言葉をくっつければ、たいてい受け入れがたいというイメージを植え付けることができる。これがイメージ操作の一例だ。
逆からの例を挙げよう。
「言葉の本来の姿を無闇に追及すると、言葉の意味を失う。」
これを説明するために、例えば「です」「ます」という文体をネタにしてみる。この文体が初めて使われてから、まだ百年ちょっとに過ぎない。つまり、こんな文体は日本語において本来の姿ではないということだ。では、いわゆる候文を使えば本来の姿なのか、というとこれまた違っていて、さらにどんどん遡ることができる。遡った先に何が待っているかというと、何の文体もなかった時代だ。ということで、本来の姿を無闇に追及すると、何も書けなくなってしまう。
さらに例を挙げると、↑に書いたことは全て中国から伝わった漢字を基にした文字で書かれている。これらの文字の本来の姿を求めていくと、仮名がなくなり、漢字も楷書ではなくなり、甲骨文字にたどり着く。「本来」を求めるなら、仮名など使わずに、せめて甲骨文字を使うがよかろう。ただし、そこからさらに突き詰めると文字がなくなってしまって、やはり何も書けなくなってしまう。
さて、「無闇に言葉の持つ意味に誤ったイメージを付帯させて用いることは危険である」というのはどうだろうか。実は全く危険でない。たとえそれが「無闇に」行われたものだとしてもだ。
言葉の変遷というのは「主権在民」のお手本のようなもので、誰かが無闇にイメージを付帯させようとも、みんなに受け入れられなければ定着しない。逆から言うと、みんなに受け入れられれば、本来の意味と違っていようがいまいが、そんなことは関係ない。みんなに受け入れられているからこそ、コミュニケーションの道具としての役割を果たせるのだから当然だ。
本来、団子というのは一串に五つだったはずだ。その後、四つのものもでてきたという。ところが数年前に「だんご3兄弟」というのが流行った。これは「無闇に言葉の持つ意味に誤ったイメージを付帯させて用いること」の典型的な例だ。数はともかく、そもそも団子に兄弟もへったくれもないのだ。ところが、「だんご3兄弟」という言葉によって、最近の子供の中に「団子は一串に三つ」というイメージが植え付けられたとしても、何の問題もない。ここで「本来は五つだった」と子供に説教して何の意味があるのだろうか。そもそもさらに遡れば「団子が存在しなかった」のが本来の姿だったというのに。
我々は、本来は存在しなかった日本語で、本来は存在しなかった文字を使って、本来は存在しなかったコンピューターを利用し、本来は存在しなかったインターネットを通じて、本来は存在しなかったサーバーで、本来は存在しなかったブログというシステム上にコメントを書いている。つまり、我々は「本来」より「現在」を受け入れているということだ。言葉だけを例外視する必要はない。
国語教師の子さん
>基準を辞書に置いていることにご不満がおありのようですが、「コンセンサスを獲得したもの」という点においてはどうでしょうか?
「コンセンサスを獲得したもの」については判断できないが、「コンセンサスを獲得していたもの」つまり時代遅れになったものは古語辞典にでも移し替えるべきで、「コンセンサスを獲得しているもの」なら問題ない。
ただ、そもそも辞書に載っていない言葉がうじゃうじゃあるのだから、辞書に基準を置く気がしれないが。
>> そもそも言語なんてものは、コミュニケーションのための道具なのだから
>言語は思考のツールたり得ますし、管理人様もそういうことを書かれています。
実はこのブログの他のエントリーにコメントした時には、コミュニケーションの後にカッコ付きで、自分内部のそれも含むということを書いておいた。思考というのは自分内部でのコミュニケーションということだ。
donさん
『本来ブルーベリージュースを入れるために作られた瓶に花をさしてもこれでいいのだ』
これに反対だろうか賛成だろうか。
『我輩が思うに救急車をタクシー代わりにつかってもこれでいいのだ』
これに反対だろうか賛成だろうか。
我輩は上には賛成で下には反対なのだが、donさんはいかがだろう。
junchanさん
>【辞書のエントリーは、本来、人々に使われている言葉がまとめられたものである】と規定しながら、【辞書を基準としない】というのは論理矛盾である。阿呆にはなんのことやらわからんだろうw
時間という軸を加えてもう一度考えてほしい。阿呆でも分かると思うのでがんばろう。
NONDYさん
>言葉は祖先から孫子へと伝える歴史でもあると思います。
そもそも歴史というのは「変化」の過程あるいはその記録だ。
avaさん
>それでは、【一匹】【一枚】【一本】などに代表される助数詞の全てを【一個】と表現しても【受け手に意味が通じればそれでいい】のでしょうか?
意味が通じればそれでいい。それでよくないというなら、avaさんは言葉に何を求めているのだろうか。
ついでに聞くが、うさぎを数える時に「一羽」と「一匹」はどちらが「正しい」のだろうか。ついでに「正しい」と判断したその基準も教えていただきたい。
>例えば、【進退きわまる】という慣用句がありますが、多くの人が【進退窮まる】と書きます。
>【進退窮まる】は辞書にも記載されていますが、【進退谷まる】と書くのが正しい。
>この言葉は孔子が編纂したとされる「詩経」の文言が由来ですが、「進退維谷」(進退これ谷まる)との原文を尊重して【進退谷まる】と書くのが正しいとされています。
さて、孔子が書いた漢字がどんな書体だったのか知らないが、楷書ではなかったと思う。もし孔子が書いたものが「正しい」というのなら、当時の書体で書くがよかろう。
hidenoriさん
>いまさら「あらたしい」に戻します?戻せます?
「本来」を強調する人たちは戻すべきだと思う。
あら座さん
>少なくとも、「言葉は正しく使われるべきである」ことを前提にして、語らいあうのが本来かと。
正しいと判断する基準が何かを教えていただきたい。とおもったら次のコメントでそれは辞書だと書かれていた。ある時点で「正しかった」ものが、永遠に「正しくあり続ける」わけではない。
>一般全員が等しく感じ持っている概念的なイメージを言葉にしたのが抽象語(辞書によれば(笑))なわけで、哲学用語が最も多そうですね。日本語では漢語による抽象語が殆どとのことですから、日本語から漢字を全撤廃されたら、哲学的な会話が成り立ちにくくなる意味では、朝鮮語と同じですわな。
漢字撤廃は必ずしも漢語撤廃を意味しない。韓国語ではもともと音読みにしか使っていなかったし、発音も日本語より多いので、漢字を撤廃しても日本語よりは影響が小さい。
mayさん
>花を挿して花瓶として使っているのは本人だけで、ブルーベリーの瓶は、どうみてもブルーベリーの瓶です。
実際は逆で、これがブルベリージュースの瓶だと思った人はいない。なにしろラベルもなく、元々何が入ってたかを示すヒントが何もないのだ。
>ためしに誰かに、花を挿してない状態で「その花瓶とって」と言ってみると、言われた人は「花瓶」を探し回るけど、目の前のブルーベリーの瓶のことを言っていることに気づかないのでは?
そうだと思う。ただし「そのブルーベリージュースの瓶をとって」と言っても同じように通じない。
>自分だけが勝手に納得して使っていても、他の人には通じないと言ういい例ですね。
それは違う。
瓶の使われ方を時間軸に沿って考えてほしい。
Aブルーベリージュースを入れるために使われている。
B花を挿すために使われている。
C(花が抜き取られ)単に空気が入っている。
Aの時点ではブルーベリージュースを入れるための瓶だった。Bの時点では花を挿すための瓶だった。Cの時点では単なる空瓶だ。
Cの時点で「その空瓶をとって」と言えば通じる。
通じるにもかかわらず、この瓶が元々何に使われているかを調べ上げ、「本来は空ではなかったのだから空瓶と呼ぶのは間違っている。本来はブルーベリージュースが入っていたのだからブルベリージュースの瓶と呼べ」と言い出す人がいたら、mayさんはどう感じるだろうか。仮にこの瓶にオレンジジュースを入れたとして、この場合にも相変わらず「ブルーベリージュースの瓶」と呼ぶのが正しいのだろうか。
辞書に載っているエントリーも同じことだ。「本来」を重要視するあまり、「現実」を無視するのは感心できない。
>って言うか、ハングルを朝鮮語と日本人が誤用しているのは朝鮮語の講座をハングル講座としたNHKのせいですね。
も同じことで、日本語社会で「ハングル=朝鮮語」で話が通じるならそれでかまわない。
タンタンさん
>前にも言いましたが、「差別=不当な差別」というのならば「正当な差別」という意味を本質とする言葉を示さねばなりません。
「いうのならば」と言われても、我輩はそんなことは言ったことがない。差別と区別について我輩が書いたことは一つしかない。それは、初めに差別と区別の定義を書いた人が定義した内容に賛成できないということだけだ。この点ではタンタンさんと対立していない。ぜひもう一度読み返していただきたい。
donさん
『本来ブルーベリージュースを入れるために作られた瓶に花をさしてもこれでいいのだ』
これに反対だろうか賛成だろうか。
『我輩が思うに救急車をタクシー代わりにつかってもこれでいいのだ』
これに反対だろうか賛成だろうか。
我輩は上には賛成で下には反対なのだが、donさんはいかがだろう。
ーー引用終わりーー
相変わらず論点を逸らすのがお好きなようで…
すくなくとも私が言っていることが何一つ届いていないことだけは結果となって明らかになりました。先にコメントした段階で会話が成立しないことは見え見えだと言ってはいましたが、案の定なくだらない結果が返ってくるとやはり脱力しますね。
すくなくとも質問をするなら私の問いに答えてからにしてください。
それにしてもあなたは相手の話が全く聞けないタイプの人ですね。
答えに困ると論点を逸らして必死になるのは染み付いた癖なのでしょうか、それとも口喧嘩番長を気取りたいのでしょうか。あまりにもくだらない。
【阿呆に回答】
>阿呆楼主
>【辞書のエントリーは、本来、人々に使われている言葉がまとめられたものである】と規定しながら、【辞書を基準としない】というのは論理矛盾である。←この文章に【時間軸】を感じられない阿呆には、なんのことやらわからんだろうw
相変わらず、全編【詭弁】であるね。・・といわれたところで、阿呆にはなんのことやらわからんだろうw
そのまま【朝鮮うんこ壷】で供されたピビンパを有難く食っていなされ。
「通じればそれでいい」
では、通じない時は?
通じたかどうか確認出来ない時は…?
こんなとこにもアホ楼主が沸いてたのなw
相変わらず論点ずらし質問返し揚げ足取りばっかやってるな
そろそろ人格攻撃始まるか?
どうもです。
いつも楽しみにしております。
今回のエントリで「嘘も100回言えば本当になる」という発生がどこの国かがいつも問題になる「ことわざ」を思いだしました(笑)
ところで、昨今のココでの応酬ですが、
コメント欄を開放してらっしゃるので、記事に対する反論は良いでしょう。しかし、分量が半端ではない(^^;
もちろん、ブログ主様のご判断ですが、ご自分のブログにリンクして誘導し、そこで議論すればよいのに・・・と思うのは私だけでしょうか?
なんだかね。今回のエントリでそのようにもブログ主様は書いているように思えましたので・・・
楼主さんへの回答です
>それでは、【一匹】【一枚】【一本】などに代表される助数詞の全てを【一個】と表現しても【受け手に意味が通じればそれでいい】のでしょうか?
意味が通じればそれでいい。それでよくないというなら、avaさんは言葉に何を求めているのだろうか。
私が言葉(日本語)に求めているのは、私のコメントにも書いてあるように【幅】であり【奥行き】である。
それはすなわち【言語が持つ魅力】に通ずると私は思っています。
当然それを【使いこなす人の魅力】にも通ずることにもなるでしょう。
幸いにして、日本語は豊富な表現力を持った言語です。
数多の先人たちが長い時間をかけて磨きをかけてきた言語です。
中には時代と共に使われなくなったり、変化をしていく言葉も当然あります。
永遠のものが無いように、それは言葉だって同じです。
それらが自然と淘汰されていくようなものであれば全く問題ない。
しかし、【言葉狩り】となれば話は別です。
間違った根拠や先行したイメージだけで言葉を殺してしまうのは言語道断です。
「言葉は道具である」というのは、ある意味では正しいですが、折角素敵な道具が手の中にあるのだから、助数詞の全てを【一個】と表現する様なぞんざいな扱いなどは控えるべきかと思いますが如何でしょうか?
ついでに聞くが、うさぎを数える時に「一羽」と「一匹」はどちらが「正しい」のだろうか。ついでに「正しい」と判断したその基準も教えていただきたい。
なぜ【どちらかが正しくて、どちらかが間違っている】と思うのかが疑問です。
両方正しいのではないか?w
正しいのは一つだけしか認めないという法があるわけでもあるまい。
しかし、例え口頭では獣などを数えるときに使う「匹」の方が馴染みも深く、しっくり来たとしても、やはり文書にしたためる場合など、どちらか一方を選択しなければいけないような状況ならば「羽」のほうが正しい(より好ましいと言ったほうが受け入れやすいかな?)でしょう。
もしかしたら数十年後にはうさぎの助数詞としての「羽」は自然淘汰され、使う人が居なくなるかもしれないですが、それもまた時代の流れなのだから仕方が無いですよね。
しかし、「鳥でもないのにウサギの助数詞を「羽」と表記するのはけしからんので、明日から禁ずる」というような【言葉狩り】は当然容認できません。
余談ですが、ウサギを「羽」と数えるようになったのは、獣肉を食べる事を禁じられた僧たちが、ウサギを食べたいあまりに大きな耳を見て「これは鳥である」と弁解していたのが由来だそうなw
そのような苦肉の策にでた僧たちに思いを馳せながらウサギを「一羽二羽」と数えるのも、また一興かとw
>例えば、【進退きわまる】という慣用句がありますが、多くの人が【進退窮まる】と書きます。
>【進退窮まる】は辞書にも記載されていますが、【進退谷まる】と書くのが正しい。
>この言葉は孔子が編纂したとされる「詩経」の文言が由来ですが、「進退維谷」(進退これ谷まる)との原文を尊重して【進退谷まる】と書くのが正しいとされています。
さて、孔子が書いた漢字がどんな書体だったのか知らないが、楷書ではなかったと思う。もし孔子が書いたものが「正しい」というのなら、当時の書体で書くがよかろう。
先日から気になっていたのですが、書体とか発音とか読み方とか、その【外見】にこだわるのは何故でしょうか?習慣かな?
どうもそこから脱却できないご様子で・・・・
重要なのはそんなところではないように思えます。
何故、【谷】という文字を使っているのか、そこを考えたら自ずと答えが出てきそうなものですけどね。
ですので、書体とか発音とか読み方とかが将来どのように変化しても問題ありませんね
junchanさん
>そのまま【朝鮮うんこ壷】で供されたピビンパを有難く食っていなされ。
さて我輩のテーブルには一個の空のオマルがある。このオマルには元々ウンコが入っていたが、いまではカレーが盛ってある。
いまのところ「そのオマルは本来ウンコを入れるために作られたものなのだからカレー皿として使うのは間違っている」という人はいない。道具なんてそんなものだ。
こうですか? わかりません。(>_<)
【うむ・・・】
だが、入っているものはカレーではない。どうみてもピビンパである。まじぇまじぇである。それを旨そうに食って居るのだ。
【おい!それは朝鮮うんこ壷だぞ!】の声は届かない。
永遠に、そのまま【朝鮮うんこ壷】で供されたピビンパを有難く食い続けることになる。
あるいは・・・
永遠に、【雑巾用バケツ】で給食を運び続けることになる。
異次元の住人ははかりしれない・・。
ブワハハハ!(^▽^)ノ彡バンバン!☆。
>韓国語ではもともと音読みにしか使っていなかったし、発音も日本語より多いので、漢字を撤廃しても日本語よりは影響が小さい。
かの方、「言語」と言うものを判っていらっしゃらない!!
音読みしか使っていなかろうが、発音が日本語より多かろうが、同じ発音による単語が二つ三つと複数にあり、しかも意味が似通っていれば、それについて語るのはよほど頭をフル回転しなければ、論文さえ書くのも難しかろう。(難しいと言うだけで、不可能ではない)。
【話がそれるけれど、日本語は発音が少ない代わり、アクセントで補っていることを失念されないように。だから橋と箸、雨と飴の区別は出来る訳だ。(私は耳が聞こえないから、どういう風に発音し、どんな風に聞き分けているのか、想像もつかないけれど。)】
それと、
>正しいと判断する基準が何かを教えていただきたい。
その前に、「前提」の意味を理解されておられる?
皆さん、
「‘ブルーベリー’の瓶」にとらわれてしまっているようですね。
ブルーベリージュースの入っていた瓶と聞いて私たちが真っ先にイメージするのはコーラ瓶などのガラス瓶でしょうな。「ブルーベリーの瓶」だけなら小さいガラス製の瓶かも知れない。(あるいはひょっとしたら瀬戸物製のジュース瓶だったり*昔の牛乳瓶は白い瀬戸物製だったものね*)。
しかしブルーベリーのあとにジュースと続いている為、コーラ瓶のようなガラス瓶を想定してしまっている訳です。これを花瓶と云々といろいろ書かれて、話が変な方向に流れてしまっているように私は感じられます。
本来は「言葉(単語?)の意味」の話だったのにね。
尤も、これがかの方の言う「イメージにとらわれている」例だと指摘されれば、それまでですが。
ところで、うちの「箸立て」や「スプーン立て」もガラス製のジャム瓶です。しかも20年以上使い続けている年代物の。
で、家族の人には「箸立て」を取って、と言いますが、訪問客には、そこの「小さいガラス瓶」を取って、と言いますよ。「箸立て」をと言ったってすぐに通じますかいな。
この言い回し、あの有名な「卵を産む犬についての危険な論調」を彷彿させますね。
「卵を産む犬がいる」ことを証明させようとするアレです。
詭弁とはこのことです。
avaさん、
私もかの方は私たち以上に「イメージ」にとらわれている、と感じますね・・・。
まだまだ何か書き足りない気がしますが、それは他の方々が書いてくださるでしょう。
私もかの方の論調に付き合うのはもうこれ限りにさせて頂きたく思います。(よほどの的外れでも書いて来ない限りはね)。
junchanさん、ならびにレスされた方。
本来飲み物専用のガラス製のコップに目前で湯気のたった他人の尿を入れて、そして中身を捨てて、洗剤や漂白剤、熱消毒までしてきれいに洗ったのを手渡され、それで水を飲め、と言われて・・・・・飲めます?
雑巾用バケツで飯が食える人なら平気でしょうね。
お詫びと訂正。
縄文人の書かれた
>漢字を廃止したために、韓国語から抽象語の70~90%が消滅したようです。
の意味をちょっと勘違いして解釈してしまいました。
話し言葉じゃなく、書き言葉として、ですね。確かに日常会話にはあまり支障はないでしょう。
従って、
抽象語の80%が消滅した、と言うのは
つまり、漢字を廃棄したことにより、「いし」「こうしょう」「せいこう」など漢字なら多数にある同音異義語の字が、たったひとつの「音」だけの字になり、語彙数が大幅に減少した、という意味だったんですね。
これでは、論文もままならない訳です。
大和言葉でさえ、「かく」「かえる」「はかる」と多様ですから・・・。
どうもすみませんでした。混乱に輪をかけてしまって・・・申し訳ありません。
>辞書の話
今現在最も人口に膾炙していると考えられている表現をまとめたもの。
∴基準とするに適切である
逆に言うと、辞書に載っていないような表現は正しく伝わらない可能性を覚悟せよ、と言うこと。
>言葉の話
「言葉」と言うのはラッピングです。
「太陽」というものに、「太陽」「おひさま」「sun」などと言うラッピングを施します。
これが言葉です。
国や地域や場合によって、言外の意味が一緒にラッピングされることも有ります(キミは僕の太陽だ、とか)。
中身が同じだとしても、ラッピングの仕方によって受け取る相手の印象は変わるんだよ、ってことで。
皆様が秀逸な議論を展開してくださっている中で、こんな瑣末事に拘泥するのは気が引けますが何点か、楼主氏の主張に申し上げたいことがあります。
まずは真に瑣末ながら、孔子の言について、用いる字そのものの違いと、書体の変遷とが何故、同じ次元で語られているのか解りかねます。詳細な説明をいただければと思います。
また辞書、乃至はその内容に対し、
>「正しかった」ものが、永遠に「正しくあり続ける」わけではない。
と仰っておられる点について。
確かに極論ではそうかもしれませんが、この場合の回答としては不適切ではなかろうかと思います。それを言えば楼主氏の主張についても、『意味が相手に通じるならどんな場面にどんな言葉を使うのも自由』『言葉は変容するものであるから、辞書など作っても対応しきれない、意味がない』などという極論に繋がってしまうのではないかと思いました。それを是とするか否とするかはともかくとして。
それとも楼主氏はそういった極論を肯定していらっしゃるのでしょうか? 私の読解力では読み取れませんでしたが。
最後に、楼主氏は、言葉は意味が通じれば良いのだと仰いますが、『通じなかった場合』にはどうすべきとお考えなのでしょうか。
他の方々の論では、辞書を引き単語を調べれば(そこに載っている意味で用いることが前提ですので)内容を理解することが可能かと思いますが、辞書の言葉が正しいとは限らないと仰り、それに囚われずに言葉を使うと仰る楼主氏の言の中に耳慣れない、意味を知らない言葉が出てきた場合、辞書を調べても理解に至ることができないわけで、それは氏の仰る『コミュニケーションの道具』としての役割を果たせないことになるのではないかと考えます。
面と向かって会話している状況ならば、まだその場で問い返すことも出来るかと思いますが、そうでない場合(例えば、文章など)はどのようにして『意図するところ』を汲み取ればよろしいのでしょうか?
楼主氏へ
ご高説、大変興味深く拝読しました。
が、せめて、比喩の対象くらい正しく使って頂けないでしょうか。
ビンはどこまで行ってもビンであり、花を活けようが、ジャムを入れようが、その存在の本質が変わる訳ではありません。
対して、言葉は、その意味こそが存在の本質です。
又、言葉に意味が設定されており、共通の定義を持っているからこそ、コミュニケーションの道具となるのです。
私が今、「馬鹿」をさよならという意味で使うことにしたから、今後は「馬鹿」はそういう意味だ。と言ったところで、誰が認めてくれるでしょうか。
辞書とはそのすり合わせを行うための物で有り、言葉は正しく学んで、そのとおりに使ってこそ、「言葉」という道具足りえるのだと考えます。
勝手な意味を付与して、もしくは誤用して、俺はこういう意味で使っているのに、通じない方がおかしい。などと言うのは、子供が駄々をこねるのと何処が違うというのでしょうか。
>ava氏
少なくとも、間違った事は仰ってはおられないと思います・・・思うのですが・・・
なるべく、言葉は正しく伝えるべきではなのではないか、と私は考えています。
漢字の部首に意味があり、音にも意味が有るということは少なくないので。
正しい発音、筆記を大事にする英語(イギリス英語)ですら、thee → youなど変遷がある訳で 、仕方の無い事ではあるのでしょうが。
姪から来るメールがギャル文字だったので、読めない(正確には読む気の起きない)メールには返信しないと宣言したところ、最近はまともなメールが来るようになりました。
mayさんへ
>朝鮮語の講座をハングル講座としたNHKのせいですね。
つまり日本で一般に広く「ハングル語」と呼ばれている言語は
「ハン文字」を使う言語であるから
韓国の新聞のように「ハン文字」と「漢字」を混ぜて使う言語は
「ハン文字漢字交じり書き語」とでも呼ばねば
楼主さんとしては、居心地が悪いのでしょうね。
現在過去未来
donさん
>すくなくとも質問をするなら私の問いに答えてからにしてください。
残念ながらその「問い」というのが見つからなかった。
>それにしてもあなたは相手の話が全く聞けないタイプの人ですね。
お互い様だと思うが。
avaさん
>しかし、【言葉狩り】となれば話は別です。
その通り。「辞書に載っていないから」という理由でそれをやってはいけない。
>間違った根拠や先行したイメージだけで言葉を殺してしまうのは言語道断です。
「間違った」と判断するための基準はなんだろうか。
>「言葉は道具である」というのは、ある意味では正しいですが、折角素敵な道具が手の中にあるのだから、助数詞の全てを【一個】と表現する様なぞんざいな扱いなどは控えるべきかと思いますが如何でしょうか?
控えるべきだというのに異論はない。ただ、それはあくまで「控えたい人が控える」というだけであって、仮に周りの人がみんな助数詞の全てを「個」で表現するようになったら、それは受け入れるしかない。同じような例として「ハングルとハングル文字」というのを挙げた。
ちなみにWikipediaにはこう書かれていた。「日本語ではこの種類の語が非常に発達しており約500種類もの数が存在するが、今日では意識される事が少なくなりつつあり、「個」、「匹」(動物)、「本」(細長いもの)、「枚」(平たいもの)等の多数の語に充てられる助数詞を使う事が多くなっている。」
せっかく素敵な道具が手の中にあるのに、我々はそれを手放しつつあるということだ。面倒だからたやすい方向に流れる、というのは言語に限らず、そこらじゅうで見られる現象だ。
そうそう、日本語における助数詞の生い立ちは全く知らないのだが、avaさんが例として挙げた【一匹】【一枚】【一本】などは全てが音読みなので、おそらく中国から伝わってきたものと推測する。仮にこの推測が正しいものとして話をするが、これらの助数詞がなかった時代の日本で、誰かが初めてこれらの助数詞を使ったわけだ。当時の日本人が「辞書至上主義者」ばかりだったら、我々はこれらの言葉を使っていなかったはずだ。新しい言葉を心を開いて受け入れた我々の先祖に、avaさんは感謝すべきだろう。
>もしかしたら数十年後にはうさぎの助数詞としての「羽」は自然淘汰され、使う人が居なくなるかもしれないですが、それもまた時代の流れなのだから仕方が無いですよね。
その通り。そしてこれは「羽」に限らず、全ての言葉に対して言えることだ。もちろん「匹」「枚」「本」もさらには「個」も含まれる。
>先日から気になっていたのですが、書体とか発音とか読み方とか、その【外見】にこだわるのは何故でしょうか?習慣かな?
意味はそれだけでは意味をなさない。意味を表すには何らかの媒体が必要だ。つまり外見がなければ意味を表すことができないということだ。発音という外見、ジェスチャーという外見、文字という外見、単語という外見、文体という外見、文法という外見などを使わずにどうやって意味を表すのだろう。
>何故、【谷】という文字を使っているのか、そこを考えたら自ずと答えが出てきそうなものですけどね。
その通り。【谷】という文字=外見がなければ現代に伝わらなかったということだ。
あら座さん
>>韓国語ではもともと音読みにしか使っていなかったし、発音も日本語より多いので、漢字を撤廃しても日本語よりは影響が小さい。
>音読みしか使っていなかろうが、発音が日本語より多かろうが、同じ発音による単語が二つ三つと複数にあり、しかも意味が似通っていれば、それについて語るのはよほど頭をフル回転しなければ、論文さえ書くのも難しかろう。
同じ発音による単語が複数あるときに、この複数というのが例えば二つの場合と十の場合とで「難しさ」が同じではないということは分かると思う。
>「しんり」には「心理」の他に「真理」「審理」「心裏」と漢字があり、「審理」を除くと意味がちょっとかぶりますね。
ということで「心理」「真理」「心裏」の韓国語読みを比べてほしい。
>>>少なくとも、「言葉は正しく使われるべきである」ことを前提にして、語らいあうのが本来かと。
>>正しいと判断する基準が何かを教えていただきたい。
>その前に、「前提」の意味を理解されておられる?
前提にすることの内容について質問しているのだが。
ちなみに我輩の考えでは「言葉は相手に分かってもらおうと努力する」ことを前提にして、語らい合うのが本来だ。
ハングルのグルが文字という意味だということを書いたが、これをネタとして使う。
Aさん「あのハングル文字って簡単そうですよね。画数が少ないし。」
あら座さん「待て待て。ハングルのグルはそもそも文字って意味なのだから、ハングル文字というのは正しくない。まるで頭痛が痛いという言うようなものだ。ハングルと言いなおしたまえ。」
Aさん「あのハングル文字って簡単そうですよね。画数が少ないし。」
楼主「いかにも。ほんの数時間で覚えられるぞ。」
しわよせんさん
>今現在最も人口に膾炙していると考えられている表現をまとめたもの。
>∴基準とするに適切である
肝心な点が抜けている。
今現在最も人口に膾炙していると考えられている表現をまとめたもの。
∴「用例を集めたその時点では」基準とするに適切である。
つまり出版されたその瞬間において依然として基準とするに適切であるかどうかわからない。出版されてから時間がたったものならなおさらわからない。
古語辞典の存在意義を考えてほしい。
ののくさん
>まずは真に瑣末ながら、孔子の言について、用いる字そのものの違いと、書体の変遷とが何故、同じ次元で語られているのか解りかねます。詳細な説明をいただければと思います。
孔子が当時使っていた文字をののくさんは読めないと思うが、いかがだろうか。
>『意味が相手に通じるならどんな場面にどんな言葉を使うのも自由』『言葉は変容するものであるから、辞書など作っても対応しきれない、意味がない』などという極論に繋がってしまうのではないかと思いました。
辞書など作っても対応しきれないというのは正しい。ただし辞書に意味(意義)がないというのは違う。そして辞書に意味(意義)があるからといっても、現実に使われている用法よりも正しいとは言えない。
別のところでも紹介したが、仮名遣ひの歴史について(http://www32.ocn.ne.jp/~gaido/kana/eatin7.htm)から小学生でもわかる部分を引用する。
「 大昔、ものが風にはためく音を日本人はパタパタと発音し、そのやうな状態のもの(名詞)をパタ(旗)と名付けました。
その後、パタはファタと発音が変はり、ついでハタと発音されるやうになり現在に至ってゐます。これらの変化の動機は発音の省力化です。つまり両唇をだんだんと閉ぢずに発音するやうになってきたのです。」
現実の用法が変われば辞書の内容も変わらざるを得ない。それなのに辞書に書いてあるからという理由で現実を否定するのでは本末転倒だ。
>面と向かって会話している状況ならば、まだその場で問い返すことも出来るかと思いますが、そうでない場合(例えば、文章など)はどのようにして『意図するところ』を汲み取ればよろしいのでしょうか?
「米欄」という言葉を使った人がいて、我輩にはさっぱり意味が分からなかった(今いくつかオンライン辞書で調べてみたが載っていなかった)。さてここでどうやって『意図するところ』を汲み取ればよいのだろうか。実は一晩考えてようやくわかったのだが、それでも分からなかった場合、どうしたらよかったのだろうか。
女郎屋の主の事?さん
>言葉に意味が設定されており、共通の定義を持っているからこそ、コミュニケーションの道具となるのです。
言葉を定義できるかどうかは置いておくが、ある程度の人数でおおよそのイメージが共有されていればコミュニケーションの道具となることに異論はない。
>私が今、「馬鹿」をさよならという意味で使うことにしたから、今後は「馬鹿」はそういう意味だ。と言ったところで、誰が認めてくれるでしょうか。
他の人が認めてくれなかったら淘汰されるだけなので問題ない。認めてくれたら話が通じるのだからこれまた問題ない。
>辞書とはそのすり合わせを行うための物で有り、言葉は正しく学んで、そのとおりに使ってこそ、「言葉」という道具足りえるのだと考えます。
「正しく」というが、正しいか正しくないかの基準がなぜ辞書にあるのか、いまだに誰も説明してくれない。
>勝手な意味を付与して、もしくは誤用して、俺はこういう意味で使っているのに、通じない方がおかしい。などと言うのは、子供が駄々をこねるのと何処が違うというのでしょうか。
話が逆になっている。管理人さんは「煮詰まる」という言葉を使い、その使い方に誰も異議を唱えなかったのだ。ところが意味が通じているのにもかかわらず、辞書に書いてあることと違うから恥ずかしく思ったということだ。我輩からみると恥ずかしがる必要は全くないのだが。
>姪から来るメールがギャル文字だったので、読めない(正確には読む気の起きない)メールには返信しないと宣言したところ、最近はまともなメールが来るようになりました。
逆に我輩が書いているような書き方では、その人から読めない(正確には読む気が起きない)と言われるだろう。
>正しい発音、筆記を大事にする英語(イギリス英語)ですら、thee → youなど変遷がある訳で 、仕方の無い事ではあるのでしょうが。
正しい発音というのはみんなに使われている発音のことだ。実際に使われている発音と辞書に書かれている発音記号が乖離した場合、正しいのは実際に使われている発音だ。
きつねさん
>「ハン文字漢字交じり書き語」とでも呼ばねば楼主さんとしては、居心地が悪いのでしょうね。
「ハングル語」と「ハン文字漢字交じり書き語」を比べると、後者の方がより居心地が悪い。我輩なら「韓国語」と呼ぶ。ただし「ハングル語」という言葉は居心地が悪いからといって、相手に直せなどとは言わない。そのまま話を続けるだけだ。もし「ハン文字漢字交じり書き語」なんて言葉を使われたら、何のことかと聞き返すだろうが。
楼主とやらの文章をじっくりと読むに、こう思う。
私の時間を返せ。
>>すくなくとも質問をするなら私の問いに答えてからにしてください。
>残念ながらその「問い」というのが見つからなかった。
私が前の方でコメントした話にならない方への一番核になっている部分は以下です。
****以下引用****
このような論理的に同値とは言い難い例を持ち出して相手を言い負かしたように勘違いする人がよくいますね。
論理的思考が苦手な人が嵌りやすい失敗だと思いますよ。
そういう意味でも私が先のコメントでも評したように言葉の意味を軽く扱うひとは物事の定義の扱いが雑でありそれによって思考に雑さが出るということの典型だと思います。
****引用終わり****
これに対する反論も無く、お得意の的外れな例示をそっくり返した「救急車をタクシー代わりにするくだり」の部分にのみ反応するくだらなさといったらもうね・・・
まあだめだこりゃという結論を得たことで納得はしてますけどね。
勝手に話が通じないのはお互い様だと判定しないように。論旨がつかめずに的外れな例示を繰り返し理詰めで追い詰められれば論点逸らしの連発。このような程度の低い人物が意味の無い文字の羅列を示そうとも誰にも響かないでしょうね。
いやはや時間の無駄でございました。
何やらダブるイメージw
ええっと、、、【話が通じない】【時間の無駄】で思い出すのはw
あほだ・・・。
わたくしのいわんとするそのふみのおもむきがほんのわずかにもつたわらなかった・・・。
しんり、しんり、しんりとかきましたが、これはあくまでもやまともじをたとえとしてあげたまでのこと。
あちらにはあちらのよみかたがありましょう、ただし、わたくしにはあちらのよみかたをしりませんので、たとえにあげなかったまでです。
「諺文」のみでかきあらわそうとすれば、このようなふみになるでしょうね。
(やまとことばは、わりあいことばかずがゆたかなので、漢語をつかわずにあげつらえられそうです。)
ところで、
>Aさん「あのハングル文字って簡単そうですよね。画数が少ないし。」
あら座さん「待て待て。ハングルのグルはそもそも文字って意味なのだから、ハングル文字というのは正しくない。まるで頭痛が痛いという言うようなものだ。ハングルと言いなおしたまえ。」
Aさん「あのハングル文字って簡単そうですよね。画数が少ないし。」
楼主「いかにも。ほんの数時間で覚えられるぞ。」
Aさんの相手は両方ともあんただ、馬鹿たれが。勝手に私の名前を借用すな。
もうこの方のコメントは読まずに飛ばす。(前の記事のコメントも虚しさと徒労に終わっただけだったし)
【それは、うんこだぞ!】
【踏んだ奴、エンガチョな】
クスクスw
えんがちょ。
まったくだ。これで3回目か・・・・。
中国人のは話をきちんと聞き入れたりでましな方だったのに。
文盲とは言葉を知らない人ではなく、話せるけれども読み書きができない人です。
日本人で文盲の人がいるとします。彼は話せば解りますから、例えば芥川龍之介の小説を読んで聞かせることはできます。
しかし、日本語が読める人と同じように「解る」でしょうか。
日常会話で用いられるような言葉のみであれば、十分に理解できるかもしれません。ただ、芥川龍之介の小説には日常では使われない言葉が出てきます。この場合でも、彼は前後の文脈からある程度推測できるはずです。しかし、明確には解りません。大体のところしか解らないと思います。
ここのところが重要なんです。明確に解るかどうかが重要なのです。
つまり、文盲と日本語が読める人との違いは、明確に理解できるか、大体の事しか解らないかだと思うのです。
すなわち抽象語を正確に理解できるかどうかが分かれ目なのです。なぜなら文盲の人はこの日常使われない抽象語を理解できないから明確に理解できないのです。
fetiaさんの言う「イメージを重視する社会」とは、文盲の社会なんですよ。
>正しい発音、筆記を大事にする英語(イギリス英語)ですら、thee → youなど変遷がある訳で 、仕方の無い事ではあるのでしょうが。
正しい発音というのはみんなに使われている発音のことだ。実際に使われている発音と辞書に書かれている発音記号が乖離した場合、正しいのは実際に使われている発音だ。
持論があるのは大変結構ですが、間違ったことを高らかに断言しないでくださいね。
イギリスには英語学校が数多くあり、その対象は外国人ではなく、当のイギリス人です。
そこでは、英語の発音は勿論、文法、字形に至るまで徹底的に叩き込まれます。
それまで、どんな使い方をしていようが、こうあるべき、という形に揃えられるのです。
無論、それは辞書にある通りにです。(発音記号も含めて)
辞書の意義に異論を唱えたいというのは大変よく解りましたが、「何故辞書が正しいとされるのか」はご自分でゆっくりと考えてください。
その答えは奇しくも、ご自分の持論の中にありますので、よく考えればそのうち見つかるでしょう。
>楼主氏
>今現在最も人口に膾炙していると考えられている表現をまとめたもの。
>∴「用例を集めたその時点では」基準とするに適切である。
辞書に載ってれば、「そんな用法は知らん」と言われたときに「大辞林に載ってる」と返せばすむ。
逆に、辞書に載ってない語句が通用することを誰が保障するんだ?
…そもそも、基準の意味知ってるか?
基準ってのは、「みんなでのこの点を定点として扱いましょう」と決めた点のことだ。
地殻変動が起きたって、基準点は基準点なんだよ。
空気読まずに投下
割とタイムリーっぽい話
ウォンドルレートが昨日1ドル1200ウォンにタッチした件で情報見てたらヤバ韓書いた人のブログで今の話に近いエントリーをあげていました。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/17823207.html
良い言語は宝ですね。皆さんがファナティックに感じるほどこだわるのも解る気がしてきました。
楼主さんへ
あなた様宛でもない妄言にレスしていただき、まことに恐れ入ります。
>我輩なら「韓国語」と呼ぶ。
私なら朝鮮語と呼びますが、誰かが韓国語と呼んでも
居心地が悪いなどとは感じませんし、ましてや相手を直そうとも思いません。
あら座さんへ
>Aさんの相手は両方ともあんただ、馬鹿たれが。
そうですね、「ハングル文字」と言っている人に対して
>韓国語を少しでもかじったことがある人なら日本語で言われるところの
>「ハングル」の「グル」が「文字」だということは知っているだろう。
とか
>我輩にとっては居心地の悪い言葉
と言えば、普通の日本人なら
「お前の言葉使いは間違っていて不愉快だから直せ」
と言っていると取られても無理はないと思います。
素朴な感想
今回、管理人様を始め日韓チャットの常連の方々の気持ちを少し理解できました。
こういうことなんですね・・・・・。
大変ですねぇ・・・・・。
諺文。
きつねさん、
朝鮮文字は昔は「諺文(おんもん)」と呼ばれていたんですよ。朝鮮語です。(もし知っていたら、ごめんなさい)。ちょっとした国語辞典にも載っています。
日本文字での「仮名文字」に当たる言葉ですね。
どちらも漢字を「真名」にしての、対語としての「仮名」という意味で、「諺文」には「劣った文字」の意味も含まれているようです。
いつからハングルと呼ばれるようになったのかは知りませんが、記録として残っているものによれば、1913年ということですから、大韓帝国の国語学者が考案した新語のようです。
ですから、「偉大な文字」という意味の創造語になっている訳ですね(苦笑)。
南北朝鮮人
南北朝鮮人は、昔から恩を仇でかえす民族、嘘付きで捏造、強姦、強盗、殺人、無差別性犯罪民族、世界の笑われ者、日本の援助ばかり宛てに生きてきた民族、借りた金も返せぬ日本の 奴隷になる方が民族の為だよ、チョンコウども! 歴史と恥を知れ!
楼主氏におかれましては、私の言にご返答をいただいたことをまずお礼申し上げます。
しかしその上で、なお得心のいかない点や、回答になっていないのではないかと感じる部分がございますので改めて質問させていただきます。
>>まずは真に瑣末ながら、孔子の言について、用いる字そのものの違いと、書体の変遷とが何故、同じ次元で語られているのか解りかねます。詳細な説明をいただければと思います。
>孔子が当時使っていた文字をののくさんは読めないと思うが、いかがだろうか。
私は基本的に言葉と文字とは別のものと考えており、今回議論の対象となっているのは【言葉の変遷】の方だと思っておりますので、楼主氏がそれらを同列、同一のものとして語られる理由や根拠をお尋ねしたつもりでした。
後の質問で文章の読解についてお尋ねしたので混乱が生じてしまったのでしょうか。その点、お詫び申し上げます。
そして改めて、言葉の変化と文字の変化とを同じものとして同列に扱っておられる理由、根拠をお尋ねいたします。
>>『意味が相手に通じるならどんな場面にどんな言葉を使うのも自由』『言葉は変容するものであるから、辞書など作っても対応しきれない、意味がない』などという極論に繋がってしまうのではないかと思いました。
>辞書など作っても対応しきれないというのは正しい。ただし辞書に意味(意義)がないというのは違う。そして辞書に意味(意義)があるからといっても、現実に使われている用法よりも正しいとは言えない。
現実の用法が変われば辞書の内容も変わらざるを得ない。それなのに辞書に書いてあるからという理由で現実を否定するのでは本末転倒だ。
まずは、極論を以って相手の論を過ちと見做すのは適切ではないのではないかと問題提起させていただいたつもりでしたが、ご回答では楼主氏の論に対しての極論にのみ、お答えいただいた恰好のようです。ご自身の論に向けられた極論は否定しつつ、対立する意見には極論を当て嵌め批判するのは公平な態度とは呼べないのではないでしょうか。
その上で、仰るとおり、辞書に書かれてある内容は時代とともに移り変わります。どうして変わるのかといえば、世間のコンセンサスが高まり、新たな形式が認められた時と受け止めております。
私は、『だからといって、辞書にない用法、言葉を使うのが正しいというわけではない』という意見なのですが、氏は『だから辞書に書かれている用法、言葉に拘る必要はない』というお考えであるという認識でよろしいでしょうか。
しかし、辞書に記載されている(=それまでの主流であった)意味や使い方が、変更されるにはある程度以上、世間で新しい用法が通用するようになっている必要があるのではないかと思いますが、それが『世の多くの人々に通用する用法、言葉になった』という判断はどのように下せば良いのでしょう。
私はそれが【辞書の内容が変更された時】である、と思うのですが。よって、辞書の内容に沿った言葉の使い方をするべきであるという立場です。
辞書の内容もまた移り変わるもの。だからこそ、辞書に反映されてから新しい使い方を用いても悪いことはないと思うのですが。辞書に反映されるということは、それだけその新しい用法が定着しコンセンサスを獲得した一つの証左になると思いますので。
楼主氏が『辞書に載っていない言葉、使い方でも他人に通じる』と判断される際、その判断は何を以って下されているのでしょうか? 辞書以上の基準をご自身の中にお持ちとお見受けいたしたしますので、お答えいただければと思います。
>>面と向かって会話している状況ならば、まだその場で問い返すことも出来るかと思いますが、そうでない場合(例えば、文章など)はどのようにして『意図するところ』を汲み取ればよろしいのでしょうか?
>「米欄」という言葉を使った人がいて、我輩にはさっぱり意味が分からなかった(今いくつかオンライン辞書で調べてみたが載っていなかった)。さてここでどうやって『意図するところ』を汲み取ればよいのだろうか。実は一晩考えてようやくわかったのだが、それでも分からなかった場合、どうしたらよかったのだろうか。
私はこの楼主氏の経験談を読み、やはり辞書にない言葉、用法で書いてしまうと意図が伝わらない恐れがあるのだなと思いました。このような経験をなさった楼主氏が、それでも辞書に載っている語句、用法に拘る必要はないという結論に至った経緯が、逆にわかりかねます。
「どうしたらよかったのだろうか。」 とは正しく、私がお尋ねしたことで、質問を鸚鵡返しにされてもこちらが困ってしまいます。私は、『だからこそ、最初から辞書に載っている通りの意味、用法で言葉を使うように心がけるべき』と考えておりますので。
しかし氏は辞書になくとも意味が通じれば使って良いと仰るので、【それでも通じない場合】にどうすれば良いとお考えなのかとお尋ねいたしました。実際に辞書にない言葉を使われて意味がわからなかった時のことを仰りながら、調べても判らなかった、どうしよう、では回答になっておりません。
それとも、『他の人たちが辞書にない言葉を使っていて、それが罷り通るのだから辞書に拘る必要はない』というお考えなのでしょうか?
盗人の真似とて盗みをすればまた盗人なりと申します。もし楼主氏が【巷間には辞書にない用法、使い回しが溢れているから】という理由で【辞書に準拠した『正しい』言葉の使い方を心がけよう】という意見に異を唱えていらっしゃるなら、それは非常に自堕落な論理であると愚考いたします。
管理人様。
既に新しい記事を上げられた状況で長々と書き込みをしてしまい、失礼をいたしました。
煮詰まる、の意味
donさん
>このような論理的に同値とは言い難い例を持ち出して相手を言い負かしたように勘違いする人がよくいますね。
>論理的思考が苦手な人が嵌りやすい失敗だと思いますよ。
『本来ブルーベリージュースを入れるために作られた瓶に花をさしてもこれでいいのだ』
に対してdonさんが挙げた例が
『我輩が思うに救急車をタクシー代わりにつかってもこれでいいのだ』
だった。
ところが我輩は上には賛成で下には反対だ。
さて、上の二つはdonさんが言うところの「論理的に同値」なのだろうか、そうでないのだろうか。
もし論理的に同値なら、我輩は一つに賛成で一つに反対なのだから、論理的に同値かどうかという視点はここでは役に立たないことになる。
もし論理的に同値でないなら、論理的に同値とは言い難い例を持ち出して相手を言い負かしたように勘違いした人はdonさんだということになる。
いずれにせよ、donさんは関係のない話をもちだしたということだ。
こんな末節には拘りたくないのだが、donさんが繰り返すので仕方なく書いておく。
こんなことよりも「現実に使われている用法を、辞書に書かれている用法を基準に判断する」ことの是非について書いてもらいたいのだ。
あら座さん
>しんり、しんり、しんりとかきましたが、これはあくまでもやまともじをたとえとしてあげたまでのこと。
あちらにはあちらのよみかたがありましょう、ただし、わたくしにはあちらのよみかたをしりませんので、たとえにあげなかったまでです。
これには心底驚いた。韓国語における漢字の読み方すら知らないで、韓国語について語っているとは。日本語の音読みを基準に韓国語は語れない。今思うと、日本語の訓読みである「はし」について書きだしたときには正気の沙汰ではないと思ったが、日本語に基づいて韓国語について語っていたのだとわかれば理解できる。ただ、日本語の訓読みというまったく関係のない事例をもちだしたにもかかわらず、誰もそれに突っ込まなかったということは、コメントをしている人たちも韓国語を知らずに韓国語について評論しているのか、と驚愕せざるを得ない。
実は似たような例が中国にもあった。「日本軍は中国に進出した」というような表記が日本の教科書にあると信じた人たちが、それを非難したのがそのケースだ。
彼らは「進出」という漢字に目を付け、中国語で「進」は「入る」、「出」は「出る」という意味なので、「進出」とはつまり「入って出て行った」という意味になり、日本軍がただ単に中国に入って出て行っただけだと嘘を書いている、と言い出した。
そもそも日本語の「進出」には「入って出ていく」なんて意味はないのだが、彼らは中国語を基準に判断したので、頓珍漢な非難をすることになったわけだ。
当時我輩は上のような人たちに対して、「馬鹿漢人」といった称号を贈ったものだ。
さて、「肉」という漢字は日本語で「にく」と読む。この漢字が発音とともに我が国に伝わったころは恐らく「nik」のような発音だったのだろう。日本語では音を開く習慣があるので、「niku」となった。ちなみに「nik」に近い発音を現代中国語の中から探すと、上海語が近い。上海人の知り合いがいたら「肉」を上海語で発音してもらえば分かる。
日本語から「肉」という漢字がなくなったとして、どれほど困るだろうか。同音語があまりなさそうなので、それほど困りそうもない。ここがポイントだ。
ただし、韓国語における漢字の読み方すら知らないあら座さんには何のことかわからないだろう。せめて韓国語を少し勉強してから韓国語について語ってほしい。
縄文人さん
>なぜなら文盲の人はこの日常使われない抽象語を理解できないから明確に理解できないのです。
どういうことか想像しにくかったので、「抽象語」で検索してみると、次のものが見つかった。
2007-05-27 ライティングの基本 - 具体的な単語で抽象語を修飾する
http://d.hatena.ne.jp/bathrobe/20070527/p1
>言葉には、具体的な単語から抽象度の高い単語まで、様々な抽象レベルの単語が存在します。ただし単語の抽象レベルを絶対的に定義することは難しいため、単語同士を比較して相対的に考えることになります。
つまり、単語は(程度の差はあるが)全てが抽象語だ、と言うことになる。よくよく考えてみると、なるほど「犬」という言葉にも抽象性がたっぷりつまっている。我輩は犬を飼っているのだが、ここで「楼主が飼っている犬」と書くと抽象性は薄まるものの、抽象性がなくなるわけではない。そして結論を言えば、文盲の人が「犬」という抽象語を明確に理解できないというのは信じがたい。
ただ、縄文人さんは「この日常使われない」という言葉で範囲を限定しているのだが、それは単に慣れの問題かと思われる。大地が平らで端まで行くと落っこちてしまうと信じられていた時代に、大地が丸いなどといわれても人々は明確に理解できなかったであろう。文盲であるか否かにかかわらず。
>fetiaさんの言う「イメージを重視する社会」とは、文盲の社会なんですよ。
そんなことを言ってるとは到底思えないが、これは御本人が答えてくれることを期待する。
女郎屋の主の事?さん
>イギリスには英語学校が数多くあり、その対象は外国人ではなく、当のイギリス人です。
>そこでは、英語の発音は勿論、文法、字形に至るまで徹底的に叩き込まれます。
>それまで、どんな使い方をしていようが、こうあるべき、という形に揃えられるのです。
>無論、それは辞書にある通りにです。(発音記号も含めて)
願望=実現という考え方は興味深いが、少なくとも今回は適用できない。「こうあるべき、という形に揃えられ」ているにもかかわらず、英語が変化することを止めることができない。だからこそ辞書は改訂を繰り返さなければならない。逆から言うと、イギリスの英語学校がその教育に成功しているならば、辞書は一度編集されたら改定する必要がないはずだ。
しわよせんさん
>辞書に載ってれば、「そんな用法は知らん」と言われたときに「大辞林に載ってる」と返せばすむ。
辞書によって書かれていることが違っていたらどうするのだろう。
>逆に、辞書に載ってない語句が通用することを誰が保障するんだ?
「月見櫓」という言葉は辞書に載っているだろうか。この言葉が通用するかどうかは読み手にかかっている。管理人さんがどれほど言葉を尽くして意味を説明したとしても、分からない人にはやっぱり分からない。辞書に書いてあることも同じことだ。
しわよせんさんはある商品が必ず売れると信じ、社内プレゼンでその商品の開発を訴えることになったとする。プレゼンの途中でお偉いさんから××という言葉はどういう意味かと聞かれたときに、「大辞林に載ってる」と返しても済まないだろう(済むのは社長がプレゼンした時ぐらいか。ただし社長でも株主の前では済まない)。ここで「大辞林の定義によると云々」と返して、それでも分かってもらえなかったらどうするのだろうか。もちろん自分の言葉でそれを説明することになる。
喧々諤々の議論の後で、賛成と反対が拮抗し、結論が出せない状況に陥ったときに、社長が「どうやら煮詰まってしまったようだ」と発言したら、しわよせんさんは社長が言っている意味が分かっているにもかかわらず、「社長、その使い方は辞書に載っている使い方と違います」などと言い出すのだろうか。
きつねさん
>>我輩なら「韓国語」と呼ぶ。
>私なら朝鮮語と呼びますが、誰かが韓国語と呼んでも
>居心地が悪いなどとは感じませんし、ましてや相手を直そうとも思いません。
我輩が「韓国語」と呼ぶものを、きつねさんは「朝鮮語」と呼ぶ。言葉は違うがコミュニケーションがとれているのだから問題ない(指すものが全く同じであるはずはないが)。
↓は上の方にコメントした内容だ。
ところが「ハングル文字」というのが頻繁に登場する。我輩にとっては居心地の悪い言葉の一つだが、これが普通に使われ、また意味をも共用できるのだから、受け入れざるを得ない。自分から使うことはないが。
さて、「煮詰まる」という言葉は、16歳から39歳までの間では、7割ほどが「結論が出せない状態になる」という意味で使っている。40代ではおおよそ半分がこの意味で使っている。
ミーティングで、ある人が「煮詰まる」を「結論が出せない状態になる」という意味で使い、それを聞いた人たちも「結論が出せない状態になる」という意味として受け取った。ここで誰かが「辞書に載っている用法と違うから言い直せ」などと言い出して、何か積極的な意義があるのだろうか。そんな事を言う暇があるなら、さっさと打開方法を探るか、とりあえず一旦次の議題に移った方がよほどマシだ。
ののくさん
>そして改めて、言葉の変化と文字の変化とを同じものとして同列に扱っておられる理由、根拠をお尋ねいたします。
言葉というのが何を指すのか教えていただければ幸いだ。
>辞書の内容もまた移り変わるもの。だからこそ、辞書に反映されてから新しい使い方を用いても悪いことはないと思うのですが。辞書に反映されるということは、それだけその新しい用法が定着しコンセンサスを獲得した一つの証左になると思いますので。
なるほどそれも一つのやり方だ。ただ問題がある。辞書に反映された内容が、元々辞書に書かれていた意味と正反対の意味だったらどうするのだろう(煮詰まる、がその例)。辞書に両方の意味が載っても何の解決にもならない。辞書というのは新しい意味を加えるのには積極的だが、削除するのには消極的だ。
>楼主氏が『辞書に載っていない言葉、使い方でも他人に通じる』と判断される際、その判断は何を以って下されているのでしょうか? 辞書以上の基準をご自身の中にお持ちとお見受けいたしたしますので、お答えいただければと思います。
判断する基準は話し手にはない。それは受け手にある。辞書に載っていようがいまいが、相手に意図が伝わればそれで言葉は役割を果たしたことになる。
「月見櫓」の意味を管理人さんが説明したエントリーがあったと思うが、その説明を読んで意味がわかればそれでいい。辞書に載っているかどうかは関係ない(オンライン辞書でいくつかチェックしたが「月見櫓」はみつからなかった)。意味が分からなかったとしても、辞書に載っていないからでは全くない。さらに言えば辞書に載っていても、必ずしもその意図が伝わるわけではない。
>しかし氏は辞書になくとも意味が通じれば使って良いと仰るので、【それでも通じない場合】にどうすれば良いとお考えなのかとお尋ねいたしました。実際に辞書にない言葉を使われて意味がわからなかった時のことを仰りながら、調べても判らなかった、どうしよう、では回答になっておりません。
実は一晩考えてようやくわかったのだが、と書いてある通りで、実際には意味がわかったので問題なかった。わからなかったらコミュニケーションが取れなかったということだ。
別の例を考えよう。我輩はある言葉の意味が分からず、辞書で調べた。なるほどその言葉は辞書に載っていたが、説明を理解するに足る知識が我輩になかった。さて、ここでその言葉はコミュニケーションをとる上で、何の役に立ったのだろうか。
なぜかここには外国語にアレルギーがある人が多いので、プログラミング言語で例を挙げることにする。
仮に誰かがJAVAで何かのプログラムを書いたとする。もちろん全て規範に則って書かれている。ところが我輩はJAVAを知らないので我輩にとっては何の意味もなさない。ところが同じものがJAVAプログラマにとっては意味のあるプログラムとなる。しかし、これをコンパイルした後のバイナリを見て、内容を理解できる人間はほとんどいないだろう。ところがこのバイナリこそ、JAVA VMにとっては唯一理解できる言葉なのだ。そしてこのプログラムを書くために前もって製作されたUMLはJAVA VMには理解できないが、我輩には理解できる。
同じものなのに楼主にはわからないが、JAVAプログラマには分かる。同じものなのにJAVAプログラマに分からないことが、JAVA VMに分かる。同じものなのにJAVA VMには分からず、楼主には分かる。
どこかに行こうと誘われて、「うーん。どうしよう」などと曇った表情で言っていれば、日本人ならたいてい「行きたくないと言ってるんだな」と分かる。だが、同じことをアメリカ人にやっても、「行くのか行かないのかはっきりしない奴だ」と分かってもらえないだろう。同じことをやっているにもかかわらず、相手によって結果が違うのだ。
ここから分かることは何だろうか。言葉がコミュニケーションをとるための道具として役に立つのは、(話し手がどれだけ辞書の定義の通りに言葉を使っているかどうかには関係なく)受け手がそれを理解した時だということだ。辞書に載っていようがいまいが、そんなことは関係ない。
家族の中でだけ、あるいは親しい友人の間でだけ、あるいは社内でだけ通用する言葉をののくさんは使っていないだろうか。そのような言葉は辞書に載っていないはずだが、ちゃんとコミュニケーションがとれているわけだ。そのような言葉を使って相手にも意図が通じているときに、「その用法は辞書に載っていないから使わないで」などという必要はなかろう、ということだ。
【↑これはうんこだぞ!】
【踏んだ奴、エンガチョな】
クスクスw
【↓これは本場のインドカレーです】w
http://bio-diversity.hp.infoseek.co.jp/kiben.html
以下、コピペ
議論するにあたり、真っ当な意見と見せかけ、実は詭弁で論点をはぐらかす輩が多々おります。
皆様も以下の「詭弁の特徴15条」を覚え、そういう輩を排除しましょう。
☑ฺ 1:事実に対して仮定を持ち出す
☐ฺ 2:ごくまれな反例をとりあげる
☐ฺ 3:自分に有利な将来像を予想する
☐ฺ 4:主観で決め付ける
☐ฺ 5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる
☐ฺ 6:一見関係ありそうで関係ない話を始める
☐ฺ 7:陰謀であると力説する
☐ฺ 8:知能障害を起こす
☐ฺ 9:自分の見解を述べずに人格批判をする
☐ฺ 10:ありえない解決策を図る
☐ฺ 11:レッテル貼りをする
☐ฺ 12:決着した話を経緯を無視して蒸し返す
☐ฺ 13:勝利宣言をする
☐ฺ 14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
☐ฺ 15:新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
んじゃワシも
これには心底驚いた。グルーバルイルミネーション(以下GI)における光点の計算結果すら知らないで、ボリュームメトリックスについて語っているとは。GIの計算結果を基準にスプラインのポリゴン化は語れない。今思うと、光点の追跡による「レイ」について書きだしたときには正気の沙汰ではないと思ったが、ライトに基づいてGIについて語っていたのだとわかれば理解できる。ただ、GIの先読みというまったく関係のない事例をもちだしたにもかかわらず、誰もそれに突っ込まなかったということは、コメントをしている人たちもGIを知らずにGIについて評論しているのか、と驚愕せざるを得ない。
実は似たような例がコースティックスにもあった。「ラジオシティレンダリングにも計算結果のキャッシュは有効だ」というような表記が日本の仕様書にあると信じた人たちが、それを非難したのがそのケースだ。
彼らは「計算時間の短縮」という効果に目を付け、追跡結果で「バッファ」は「計算結果」、「キャッシュ」は「使いまわす」という意味なので、「バッファキャッシュ」とはつまり「計算を使いまわす」という意味になり、カメラがただ単にコースティックスを追って出て行っただけだと嘘を書いている、と言い出した。
勉強になります
なるほど。
イメージで会話する人は、ちゃんとコミュニケーションが取れたつもりになってるだけで、全く取れてないですね、わかります。
なんか楽しそうですね
ちときょくたんですが、
言葉を意味よりイメージ重視で運用する = 動物の鳴き声と同じ水準の情報伝達方法に近付く
てことで、動物化するってことでは?
あと、書体やらの下りでフォントと文字コードのことを連想したんだけど………どんなもんでしょ。
そうそう、それ。
junchanさん、
これです、これ。「詭弁の特徴15条」。
>「卵を産む犬がいる」ことを証明させようとするアレ…。
最後に書く。
後出しじゃんけんみたいで自分でも卑劣かつ卑怯かなと思うのだが、
面倒くさいので書かなかっただけなんだけれども、
大学時代に朝鮮語を習ってんだよね。2年間。
しかも北朝鮮のな。でももう30年以上昔なんで大方忘れてしまった。(諺文が読み書き出来るだけ。)
でもね、今はいろんな朝鮮語サイトが沢山あるからね、調べようと思えば調べられる。
ただ、やらない。
やったところで最初っから噛み合ってないんだから、そんな虚しくもバカバカしい労苦を犯す気はない。
そもそも皆が論じているのは始めっから「言語としての言葉の持つ意味」これだけだ。
差別と区別の意味の違いから始まって、辞書に載っている云々に続き、そこから話がおかしな方向へ行ってしまったが、それでも他の人は「言葉の意味」を中心に論じている。
辞書の話にしても、「言葉の意味を正しく知っているか否か」が前提としてまずあり、「正しく知っている上でどう使うべきか」で、辞書がひとつの例としてあげられているに過ぎない。ジュース瓶と花瓶の違いや使い分け云々ではない(私も乗られてしまったが・・・後悔反省謝罪)。
私にしても漢字の読み方など論じてない。同音異義語が多いと、自分の伝えたい意図が相手に正しく伝わらず、言葉の意味があちこち分散し話も通じにくくなり齟齬が生ずるだろうということだけだ。(漢字があった方が、自分の言いたい言葉が「相手に正しく」伝わる、に過ぎない。【正しい言葉】を使う、ではない!)
以上!
えんがちょ!!(呪い[まじない]言葉なり!!!)
最後にします
楼主氏に対して。
言葉というのが何を指すのか、というご質問ですが、
>言葉をその本来の意味より、言葉のイメージを優先して用いることについては、詩などの分野で行われる場合を除いて、原則として否定派です。
>言葉は、正しく用いなければ正しく考えることが出来ず、正しく伝えることも出来ず、正しく受け止めることも出来ません。もちろん、文章表現上の技法として、言葉の意味とは異なる使い方をあえてする場合もありますが、それと誤用や悪意のある言い換えとは、まったく性格が異なります。
という管理人様の記事に対して始まった今回の議論は、言語やものの言い方についてのものと受け止めておりましたし、他の方々のコメントもそのように読み取れましたので、楼主氏が文字までも含めた広義での『言葉』について論じてらっしゃるとは思いもしませんでした。以後、特に説明のない限り今回の論議で私が述べている『言葉』という語は、言語やものの言い方についてであると判断して下さって結構です。
(・・・が、この点についてはあら座様が非常に明快簡潔にご説明してくださっておりますので、私が拙い言を連ねるまでもないかもしれません。)
重ねて申し上げますが他の方々は言語やものの言い方について語っておられるように私には思えますので、そうではなく文字も含む『言葉』に対して理論を展開していらっしゃる楼主氏に、その理由と根拠をお尋ねした次第です。
>なるほどそれも一つのやり方だ。ただ問題がある。辞書に反映された内容が、元々辞書に書かれていた意味と正反対の意味だったらどうするのだろう(煮詰まる、がその例)。辞書に両方の意味が載っても何の解決にもならない。
正しい用法の判断基準として、辞書は不適切であると仰る楼主氏の言に対して述べさせていただいたまでで、辞書の内容にのみ固執するべきとは考えておりませんので、このような場合にはその場の流れや文脈等から判断すれば良いと考えております。
「正しい言葉」の判断材料として、辞書が相応しいか否かのお話だったかと思います。
(
>あることを正しいあるいは間違いだと判断するからには基準が必要だ。ここで間違いだとする基準はなんだろうか。下に引用した部分から見るに辞書を基準とされているようだが、いかがだろうか。
>>ましてや「辞書に載っていようがいまいが、相手に意図が伝わらなければ意味がない」「辞書も後追いしてくるだろう」などという詭弁は本末転倒も甚だしい。まず辞書に載っている意味で、相手に意図を伝えるのが本来ではありませんか。
>まず辞書という点がすでに本末転倒だ。)
>>しかし氏は辞書になくとも意味が通じれば使って良いと仰るので、【それでも通じない場合】にどうすれば良いとお考えなのかとお尋ねいたしました。実際に辞書にない言葉を使われて意味がわからなかった時のことを仰りながら、調べても判らなかった、どうしよう、では回答になっておりません。
>実は一晩考えてようやくわかったのだが、と書いてある通りで、実際には意味がわかったので問題なかった。わからなかったらコミュニケーションが取れなかったということだ。
今回も回答になっておりませんでした。「わからなかったらコミュニケーションが取れなかったということだ。」と仰る、正にその「考えても意味がわからない」事態が発生した時に、どうすれば良いとお考えなのか、をお尋ねしていたのです。
その後の例えも、氏の『辞書を正しさの基準にすることは不適切である』という論を説明する例えになっておりません。
他の方々への文章も拝見するに、どうも氏は例え話を持ち出されるとその解説に気を取られてそもそもの質問、意見への回答をお忘れになってしまわれるようにお見受けしますので、もし今後他の話題でお話させていただくことがあっても、私へのご回答に例示は不要です。述べさせていただいた質問に対する、氏のお考えをお聞かせいただきたかったので。
また、その他の問いに対するご回答をいただけなかったのは残念です。
>あら座様
明快、簡潔にお纏めいただき、傍で拝見しても非常にすっきりしました。
ありがとうございます。
言語を1ヶ国語も獲得していない者は哀れだ…
言語は思考、何度かこう表明しましたが言語を獲得していない者の思考もまた空疎であることが露呈されただけでも収穫ですね。
小学英語教育の危惧。
donさん、
まさしく、日本語の文章能力をきちんと習得出来て(習得して、ではない)いないと、英語を習う際に、自分の言いたいことが正しく翻訳出来ず、英語圏の人に伝わりませんね。
ののくさん、どう致しまして・・・。
こっちもこれでいいのかなと思いつつ、老化でボケが進んでしまったどうしようもない頭を絞って書きました。
お陰様で1週間分だけ若返ったような気が致します。(半分クソ楽しかったけれどね。)
【ロゴス(logos)】
彼らの不可能な論理的思考の代表↓
【暗殺はテロである】+【安重根は暗殺者である】=【安重根はテロリストである】
彼らは【言いたくない】のではなく、【考えられない】=【思考できない】のである。
【ロゴス】という概念を最初に持ち出したのはヘラクレイトスとされ、ストア派の哲学者によって哲学用語として広まり、のちにヨハネが【はじめにロゴスあり・・】と福音書にしるす。
【ミュトス】とは、【人が語ってきた言葉】【伝承】【神話】【物語】などと解釈される概念であるが、【ロゴス】はこれに対し【論理】【論証のための言葉】【真理】などの概念として現在でも存在している。
【ロゴス】【ミュトス】の概念の詳細は、哲学解説書を参照してほしい。
ここでいいたいことは、哲学と神学が分化されていない時代のような【ロゴスの神格化】ということではなく、その【必然性】についてである。【ミュトス】に対する【ロゴス】は、のちに【デマゴーグ】の出現をもたらし、それに乗じて金儲けをしたソフィストは、のちにソクラテスの出現によって【哲学者として】批判の対象とされた。ご存知のように、【ロゴス】の運用による雄弁な問答術・対話術=【弁証法】は、大衆の説得や騙しに使わず、専ら【無知の知】の自覚のために運用し、真理を探究する方向へ向かわせようとしたのがソクラテスである。斯様に哲学は【必然性】の道を一歩一歩歩いてきたのである。
さて、いい加減な【サルにもわかる哲学歴史解説】はここまでにして、本論に戻ろうw
ここで、考えて見たいことは、【漢字を捨てて音のイメージだけで語り合う人々】や【コンセンサスの得られた言葉の概念をまとめた辞書を基準にする必要が無いという阿呆】のことである。彼らのほとんどには、未だ【ミュトス】だけがあり、僅かに【ロゴス】の表層のみを悪用する詐欺師によって構成されている社会を思い描けないだろうか?彼らのほとんどには【人が語る言葉】しかなく【論証する言葉】は僅かに悪人だけが持ち、それを悪用している社会である。
つまり、【彼らはやはり思考できないのである】と表現するしかあるまい。
人類がこれらの哲学をはじめたのは、100年前、500年前の話じゃなく、紀元前のお話である。
【紀元前の人類の状態を体現している人々】【ソクラテス以前の人々】・・・これが【そこにある隣国の人々】あるいは【阿呆】が【必然的】に見做されるべくして見做される【必然性】なのである。
言葉は辞書に縛られない
junchanさん
うんこの話ばかりだったので遺憾ながら話についていけなかったのだが、ようやく話ができる要素を挙げてくれた。
junchanさんに当てはまるのは
☑ฺ 4:主観で決め付ける
☑ฺ 5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる
☑ฺ 9:自分の見解を述べずに人格批判をする
あたりだろうか。
ちなみに結論など出ていないのに自分と同じ意見が結論だと書いた管理人さんには
☑ฺ 13:勝利宣言をする
が当てはまりそうだ。
december9さん
なかなか興味深い例を挙げてくれた。
まず、december9さんが書いたことは我輩には全く分からなかった。もちろんdecember9さんほどの人が書いた内容なのだから、辞書的にも教科書的にも真っ当なことが書かれているのだろう。ここにコメントしている大部分の人たちの意見によれば、辞書に載っている用法を使えば意味が伝わるはずなのに、我輩には通じなかったのはなぜだろう。
次に
>ボリュームメトリックスについて語っているとは
とか
>光点の追跡による「レイ」について書きだした
などといわれても、そんなことを書いた人はいない。
最後に、仮に我輩が「グルーバルイルミネーション(以下GI)における光点の計算結果すら知らないで、ボリュームメトリックスについて語ってい」たら、我輩はアホだ。知りもしないことを知ったかぶりして書いたことになるのだから。
さて、日本語も知らないくせに日本語を中国語に基づいて解釈したり、韓国語における漢字の読み方も知らないくせに日本語の漢字の読み方をもって韓国語における漢字の使われ方に口を出す行為について、december9さんはどう感じるだろうか。
あら座さん
>そもそも皆が論じているのは始めっから「言語としての言葉の持つ意味」これだけだ。
その意味について、実際に使われている用法よりも辞書に載っている用法が「正しい」とすることがおかしいと言ってるだけだ。
>同音異義語が多いと、自分の伝えたい意図が相手に正しく伝わらず、言葉の意味があちこち分散し話も通じにくくなり齟齬が生ずるだろうということだけだ。
正にその「同音異義語が多いと」ということに対して説明してきたのだが、あら座さんのために、簡単に説明しておこう。
「真」、「心」、「新」の音読みを例に挙げる。
日本語では全ての発音が同じ(同音異義語が三つ)。
中国語では「心」と「新」の発音が同じ(同音異義語が二つ)。
韓国語では全ての発音が異なる(同音異義語が…ない)。
ということで「韓国語ではもともと音読みにしか使っていなかったし、発音も日本語より多いので、漢字を撤廃しても日本語よりは影響が小さい。」
donさん
☑ฺ 4:主観で決め付ける
☑ฺ 6:一見関係ありそうで関係ない話を始める
☑ฺ 9:自分の見解を述べずに人格批判をする
☑ฺ 11:レッテル貼りをする
さて、我輩のブログに「名無櫓」という名前でコメントしてくれた人がいる。この言葉は辞書には載っていないと思うが、我輩にはその意図が伝わった。「匿名」ということを間接的に表現したわけだ。しかし、月見櫓というブログのコメント欄を見たことがない人は、「名無櫓」が固有名詞だとしか思えないだろう。同じ言葉が読む人によって意味が異なるという分かりやすい例だ。
言葉というのは辞書などに規定されないところで自由に変化し続けている。「名無櫓」という言葉が定着するかどうか、もし定着するならどのような意味で定着するのか、などは辞書が決定することではなく、言葉を使う人々が決定する。辞書はそれを後ろから追いかけることしかできない。
レッテル貼り
junchanさんには
☑ฺ 11:レッテル貼りをする
という大切な役割があったのを書き忘れていたので補足しておく。
クックックック…。
「ダボハゼ」とはよく言ったものである。
【↑犬のうんこは飼い主が片付けましょう】
クスクスw
がんばってタイピングしてるようですから返事だけは返しておいてあげますかね。
相変わらずずれてます。
ゲラゲラゲラ
ゲラゲラゲラゲラ・・・
本物の「バカ」を初めて認識した。
ただただ哀れなり。
必死だ w
皆様のやり取りをずーっと見ていたのですが、彼は色々なところで朝鮮人を彷彿させるものがありますね。いつもこのブログを読んでいる皆さんなら、私がいちいち言わなくてもそれが何か見当つくことでしょう。
しかし、一体何が彼をここまで駆り立てるのでしょうか?
楼主~妄言の果て
衆人環視の中、深い深い穴をひたすら掘り続けてだな、溢れ出た泥水に首まで浸かりながら叫びたいのだよ。
「ハッハッハッハ、我輩ノ力ヲ思イ知ッタカ…ゴボゴボ…」
ぶはははw
まだ世間に伝わりにくい説明を繰り返していたのかwww
皆にボコられちゃって大変ですねwwww
コメントする場所
我輩のブログに「コメントに対してエントリーで返すのはアンフェアだ」というようなコメントを書いてくれた人がいる。
アンフェアかどうかは分からないが、少なくとも不親切であることは確かだ。なにしろコメントの流れを断ち切ってしまうので、あとから来た人には流れが読めない。
辞書を絶対のものだとする人たちには流れなど関係のないことかもしれないが。
楼主さんへ
なんか言っている事が、かみ合っていない気がします。
他の方へのレスも書かれていませんか?
>ここで誰かが「辞書に載っている用法と違うから言い直せ」などと言い出して、
>何か積極的な意義があるのだろうか。
>そんな事を言う暇があるなら、さっさと打開方法を探るか、
>とりあえず一旦次の議題に移った方がよほどマシだ。
その議論に関して進展は無いでしょうが、
少なくとも、以後他所で間違った使い方をして
恥をかいたりせずに済むようになるではありませんか?
他所で「議論が煮詰まって結論が出ずに難渋しました。」と言って
「君、それは言葉の使い方を間違っているよ。」と指摘された場合。
「いえ、「煮詰まる」という言葉は、16歳から39歳までの間では、
7割ほどが「結論が出せない状態になる」という意味で使っていて、
40代ではおおよそ半分がこの意味で使っているんですよ。」
と答えたら
相手は、「コイツは、間違えを素直に間違えと認められない馬鹿か。」
と思うか、
「馬鹿仲間が沢山いる事を自慢するなこの馬鹿。」
と思うのではないでしょうかね。
まぁ、一番ありそうなのは、
「ほうほう、それは大変でしたね。」とか適当な合いの手を打ちながら、
頭の中の相手に関するプロフィールに「言葉を知らないヤツ」
と書き加える事でしょうか。
ただのおばちゃんですが軽くツッコミを。
>せっかく素敵な道具が手の中にあるのに、我々はそれを手放しつつあるということだ。面倒だからたやすい方向に流れる、というのは言語に限らず、そこらじゅうで見られる現象だ。
これを容認しては現在のいわゆる「ゆとり」が増殖し、日本文化、文明が廃れていくことにはならないか?
あ、それには気がつかない?
わたしもあまり教養がある方ではありませんが、これを容認すると実につまらない国になってしまうことだけは分かります。
最近「あれあれ!」で会話を成立させてしまうことに危機感を持っている昭和の化石ですが、もっと日本語を読まなければ…っと思いますね。
>日本語から「肉」という漢字がなくなったとして、どれほど困るだろうか。同音語があまりなさそうなので、それほど困りそうもない。ここがポイントだ。
いや、困りますよ…漢字には読まなくても見る者にイマジネーションを与える芸術性があるんです。(それ以外にもありますが、言い方が思いつかなかったのでやめておきます。)
>名無櫓
匿名掲示板特有の表現で、匿名であることはネットユーザーならその意図が分かりそうなものです。
だれも固有名詞だとは思わないでしょう。
ところで、楼主様の文は読んでいると目眩がして来て、超疲れます(笑)
「超」なんてメールでは使っても普段は使いませんがね。
桜主てめえのコテハンはキルジャップだろうが、日本人になりすましてんじゃねえよ。
アイムザパニーズニダwwwwwww
むずかしいですが、、、
なんとなく、いわんとしている意味は、わかる気がいたします。
私の、イメージはこんな文章からわかる。みたいな(笑)
(^◇^)失礼いたしました✳︎