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諦と恨

抹香臭い話を持ち出して恐縮ですが、仏教に「諦」という概念があります。

日本語では「諦」は「あきら(める)」と読み、なんとなくネガティブで投げやりな意味に使われるのが一般的ですが、仏教における「諦」とは投げやりな意味ではありません。

「あきらめる」という言葉そのものの語源が「あきらかにみる」であると言われるように、「ものごとを正しく見聞きし、正しく理解し、正しく受け容れる」という意味が本来ならば適当かと思います。仮に、たとえネガティブで投げやり的意味で用いるにしても、自分自身や周囲の事態を客観視出来なければ、「あきらめる」ことは出来ません。

人はこの世に生まれ落ちるや否や、生老病死という苦を担わされ、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦と合わせて四苦八苦の人生を余儀なくされます。これは世界中の人々全てに等しく負わされる運命です。ならば、人は苦しむために生まれてきたのでしょうか。もしそうなら、人が生まれてくる意味とはいったい何なのでしょう。

何故「苦」が生じるのかを突き詰めると、実はその根本は自分自身だったりします。

この世に生まれ落ちて四苦八苦の一生を送るのは、別に人間に限ったことではありません。犬でも猫でも鳥でも魚でも、生きとし生けるもの全ての生命に、四苦八苦があり得ます。しかし通常、人間と亞人類以外の生き物は、自らに与えられた四苦八苦を「四苦八苦」だとは思っていないでしょう。

人間と亞人類だけは、智恵があるが故にこの四苦八苦をどうしても認識してしまいます。しかし人間は、智恵を以て「あきらかにみる」ことで、この四苦八苦から脱することが可能です。その道筋が仏教で言うところの「諦」ではないかと思います。

日本人は割と無意識にこの「諦」という概念を受け入れてる人が多いのですが、それと真反対の位置にあるのが、朝鮮における「恨」という概念でしょう。日本語では「うら(む)」ですが、朝鮮語では「ハン」と読みます。盲目的な妄執と拘泥、我欲と嫉妬などから生じるのが「恨」と言っても良いと思います。

「恨」の状態に陥れば、「諦」とは正反対に自分自身も周囲の事態も全く客観視出来ません。ただひたすら自分に与えられた望ましくない運命を呪い、それが改善されない現実を嘆き、その思いを自らの心の中に、腐臭を放つ泥のように溜め込み、そればかりを見つめては更に「恨」を募らせていくばかりです。

彼らはしばしば「恨」を解くと言います。しかしそれは、自分自身の考えや理解、即ち「智恵」によって解くのではありません。現実の方から、自分にとって都合の良いように変わることによってのみ、恨が解かれるのです。そういう都合の良い現実が都合良く自分に訪れなければ、また更にそれを「恨」として蓄積します。

「諦」という概念を持つ日本人に、「恨」という概念を持つ朝鮮人は理解し難いものがありますし、おそらくその逆もまた然りです。かと言って、我が日本人が「恨」という概念を持つようになれば良いとは微塵も思えません。何よりも、そんなものは日本人的美意識が受け入れません。

逆に朝鮮人が「諦」の概念を理解するようになればと思うこともないわけではないのですが、これは彼らの、種としての進化を待たない限り無理な注文というものでしょう。

となれば、やはり日本人は朝鮮人と関わり合いにならぬよう努めるか、あるいは関わり合いを持たざるを得ない場合は、それこそ「諦」の境地で望むしかないということになります。

ところで、散々抹香臭い話をしてきて何ですが、筆者は教養科目として仏教学概論を受講したことや、般若心経の解釈をレポートのテーマに選んだことはあります(専攻とはまったく関係のないテーマで、担当講師が楽をするために「こんなテーマ、誰も選択しないだろう」と思って設定したらしい)が、正式な仏教学を修めたことや、正式な仏道修行をしたことは一度もありません。

それどころか仏教徒を自称してはおりますが、日本の仏教のどの宗派にも属しておらず属するつもりもなく、要するにここで述べた仏教関連の御託は、あくまで私個人の独断による仏教解釈であることを、最後にお断りしておきます。



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コメント

私も、勿論仏教の考えを専門的・体系的に学んだわけではないのですが、そういう者でもぱっと思いつくものに、平家物語で語られている諸行無常・盛者必衰ってのがありますね。
元々のお釈迦さんも、何事であれ永遠に変化せぬものは無い、この仏法自体ですら、というようなことを仰ったそうですから、仏教の基本的な考えと思っても良いのかもしれません。

これと照らすと、朝鮮人が自分たち独特のものと思ってる「恨」、とくに盛者が倒れた(だがその現象の進行に対して自分は何も貢献していない)ことに対して「ウリの恨が勝ったニダ~」と、「恨」への確信を深めてきたのは滑稽ですねぇ。

単に仏教(の一面)では当たり前なことを殊更に自分たち独特のものと思っている。

まあ、そこだけで止まってしまって、お釈迦さんが説かれた「じゃあそういう憂い世の中から抜け出すにはどうすればいいか」(本文で書かれているのもそういうことですよね)の部分があっさり抜けてしまってる畸形ぶりは独特かもしれませんが。

やっぱこれは、李朝が仏教を排斥したせいでしょうかね?

2009/03/17-09:36 | URL | yoy #-[ Edit]

二人の囚人が鉄格子の窓から外を眺めた。
一人は泥を見た。一人は星を見た。
 (フレデリック・ラングブリッジ『不滅の詩』)

ってヤツですかね。

2009/03/17-12:53 | URL | camo #GpEwlVdw[ Edit]

恨の被害を被らない方法

彼等を対等に扱ったり 対等と思わせる言動がより彼等の恨を深めとばっちりを受けるように思えてなりません。李氏朝鮮や北朝鮮が停滞と退廃にまみれながらも支配を維持できたのは徹底した差別構造にあるのだと思います。いくら恨を溜め込んでも 到底それをぶつけ得る対象ではないと思わせることで体制を維持させてきたのです。白人は歴史的財産と見た目の違いからあるていどそれが可能です。日本(日本人)としてはこれから徹底して助けないことが肝要かと。少々遅きに失しますがこれが近代の日韓100年の交流史の教訓だとおもいます。

2009/03/17-16:53 | URL | chonchon #-[ Edit]

 朝鮮人には関わらない。これが鉄則です。
 どうしても関わらなきゃいけなくなった時、適当にあしらうのが正解です。
 どうも、奴等の精神的人間関係構造には上下関係しか無いようです。
 後々、面倒くさいので年上らしき朝鮮人と若造に対して分けて考えるべきです。
 よく街で見かける暴○団関係に対してまるで透明人間に接するが如く目を合わせません。朝鮮人に対しても同じです。
 まともに関わっては絶対危険です。
 生まれつき精神異常の業か 妬み、嫉み、恨み しか感情表現できない獣たちです。
 最後に、世紀の大間違い 朝鮮併合。w

2009/03/17-20:06 | URL | von #Zul6tiSw[ Edit]

連中と上手く付き合う方法は2つ、
徹底的に弾圧するか、まったく付き合わないか。

ああいう、近視眼的な物見しかできない連中は、
「分割して統治」すると上手く回ってくれます。
一番近い敵とケンカしてくれますからねw

2009/03/17-21:09 | URL | しわよせん #-[ Edit]

桜で又…

私も少し佛教に興味があって本を読んできましたが、やはり筆者が言われるように「諦」や「無常」という概念が日本人の根底にあるように思います。
その為、執着心を持つ事、流れに逆らう事は結果苦しみを生み出す事を知っているのですね。

又「山川草木悉有仏性」といって全てのものは善なるもの、という考えもあります。だから敵、味方問わず死んだら弔って、時には神社などに祀ったりする。
これが韓国人にはさっぱり理解出来ない。

朝鮮では仏教を李朝時代に徹底して迫害し、お坊さんを卑しい身分にしていながら、日本の仏像や古い社寺を観ては「我々の文化が盗まれている」などと言う。

そして桜の咲く時期に日本人が花見を楽しんでいれば、桜の起源を主張し、桜の散る花は、根気が無い、直ぐに諦める、散った後が汚いなどと、罵る。

本当に中華思想、朱子学はろくな思想ではない。
彼らの行動を見ていると毎度、我が儘を言う子供を見ているような気になります。

2009/03/17-22:17 | URL | アキラ #3v9IlUEY[ Edit]

つまりは

なんと分かりやすい対韓階梯「諦韓」の解説(w

2009/03/18-06:16 | URL | いとのこ #-[ Edit]

臥薪嘗胆

臥薪嘗胆という言葉がありますが、
それほどにまでしないと忘恨するとも言える訳で
そんな中国と諦の日本の間にあるかの国だけ
恨の国なのか  不思議です。

2009/03/19-12:38 | URL | ホンロン #mQop/nM.[ Edit]

ちょっと関係ない話ですが。

昨日(18日)のWBCという世界野球大会で、日本に勝った韓国がまたしてもマウンドに国旗を立てたという騒ぎがありました。
私もネット(http://news4vip.livedoor.biz/archives/51266191.html)でその写真を知り、不快感を覚えたのですが、そのすぐあとの、韓国監督が「日本のレベルが上だが、それでもいつも勝てるわけでもない」というスレ(http://news4vip.livedoor.biz/archives/51266262.html)があり、日本の書き込みが「負けた」「敵ながらあっぱれなセリフ」と讃えるに及んで、
私も不思議とスーッと不快感が消えたんですね。
こういう気分的な余裕心が持てるのが日本人の宗教観のなせる技なのかな・・・?

なんか変な話で申し訳ないです。
でも不快感が消えたのは事実。お陰で、今日のキューバ戦は余裕の心で楽しく観戦出来ました。
つまり、「不快な思いをさせたあいつに一泡吹かせたいからもう一度戦って叩きのめしたい思いの一念でキューバを何としてても倒して勝たねばならぬ!」といった不愉快な考え(邪心・邪念とも言う)を持たなくて済んだからです。
「恨」とか「怨」という感情を持たない民族でよかったと強く思っております。

2009/03/20-01:06 | URL | あら座 #EBUSheBA[ Edit]

小さな世界と宗教・・・

こんにちは
年度を追いつつ、書かせて頂いています。

今回のお話、少し考えています。旧ソ連はマルクスの言に従って「宗教は麻薬だ!」と
弾圧しましたが、ソ連崩壊後の今日俗世の権力とロシア正教は一応和解しています。
かたや資本主義側では世俗主義を見えざる価値とし、信じる宗教は自由という建前でやってきましたが、世界中の人々がわりに自由に移動、移民できるためか(アメリカやEUなど)わかりあえない教義の人々の闘争がそこらじゅうで起こっています。
日本と韓国では、宗教上の対立というのは未だ表面化していませんが(統一教会問題はあります・・)月見櫓さんのご説明によると
かれらは存続する限り、いかなる理由でもいちゃもんのねたにするでしょうから、局面が変わればこの問題もしっかり対応する準備が必要ですね。

前置きがとっても長くなりましたが、諦と恨についてですが
日本人でも多くの人が現に恨とそっくりな気持ちのありようで苦しんでいます、かくいう私も長く「なんで自分だけが・・・」という思いで苦しみました。
そういう観点で数年彼らの行状をみていますが、ここで示されている「個人である私とあるべき私(=模範的韓国人)はちがう」というキーワードはこの恨を考える材料になるかもしれません。
今でも個人ベースでは、恨を上手にコントロールする方法を身につけたら個々には人間らしさを構築できる可能性があるのではないでしょうか。
しかし彼らの地域社会やファミリー、国家への同調圧力は我が日本の比ではないので
集団的恨(=村(むれ)としての)はカウンターパワーを彼ら自身が集団としてもてないととても現状変更できないかと思います。

この日本では、いまでもマスコミは同調圧力が高いといいますが、それでも50年前あるいは30年前と比較すれば「無縁死」なる言葉もでるほどいいか悪いかはべつにしても「ほったらかし」=人をかまわない、ようになりました。

こういう実例を持っている我々日本人がある種のカウンターパワー(恨に匹敵する別の価値原理、例えば修養など)を見せてやれば
パクるのが大好きな彼らは、それに食いつくのではないでしょうか。
なぜならその方が「生きていくのに楽だから」です。

2013/09/28-12:27 | URL | 東方の礼儀の歌 #S.VMqkBk[ Edit]

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月見櫓 韓国 日韓
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