韓国語における「ウリ」考察
個人的に思うのは、企業が製造した商品をカネ払って買ったのであれば、その製品がその製品として当然の能力を発揮するのは、少なくとも日本では当たり前です。その日本で、それをあえて特筆することに、一体どんな意味があるのでしょうか。
その韓国製の洗濯機が、日本製同等品の半額以下で消費電力も半分以下、しかも寿命は倍以上。もちろん核心技術から何から何まで純粋な韓国製で、常々使うたびにその性能の素晴らしさに感動を禁じ得ず、「韓国社会全体がそうだという証左」という記事を見て、「韓国社会はそうかもしれないけど、韓国人が作ってる製品はすげえ良いよ!」と言いたくてやむにやまれずコメントしたと仰るなら、まだ理解出来なくもありません。
しかしコメントにはそういうことは一切書かれておらず、行間にそういうニュアンスもあまり感じられず、何を主張したくて、あるいは何を伝えたくてコメントくださったのか、その意を汲むのに苦しんでおります。ですので、もし補足のコメントがございましたら、是非お願いしたいと思います。
さて、月見チャットでは時々言ってたことですが、ブログではあんまり言ってなかったと思うことがあったので、本日はそれをお題にしてみたいと思います。
韓国を語る際には欠かせないキーワードに、「ウリ」と「ナム」という言葉があります。弊ブログでもかつて記事にしたことがありますし、韓国人を観察するにしても、この「ウリ」「ナム」意識の存在を知って観察するのと、知らずに観察するのではその理解に大きな差が出てくると思います。
この「ウリ」という単語は、日本語では「我々」、あるいは「我ら」「私たち」と翻訳されます。しかし最近思うのは、韓国人が言う「ウリ」という言葉を「我々」などの一人称複数形と理解するのは、日本人の韓国に対する大きな誤解の元になっているのではないかということです。
日本語で「我々」、あるいは「我ら」「私たち」と言えば「私」を含む集団の意味で、「私」はたとえその集団のリーダーであったとしても、原則としては、あくまでその集団の中の一分子です。しかし韓国語で「ウリ」と言えば語義としては「私」「我」の複数形かもしれませんが、実際に使用する場合は「私そのもの(に付属する集団)」と理解した方がしっくり来ることが多いのです。
韓国人はこの「ウリ」という言葉が大変好きで、対義語である「ナム」の方はめったに見かけませんが、「ウリ」の方は様々な言葉にくっつけて使いたがります。
「我が国」の「ウリナラ」を始め、「我が家」の「ウリチプ」、「我が校」の「ウリハッキョ」、「韓国語」を「「我らの言葉」という意味の「ウリマル」と言う場合などの「ウリ」は、「我々」「我ら」などの日本語に翻訳しても特に違和感ありません。
ひとりっ子でない限り、父親を「ウリアボジ」、母親を「ウリオモニ」、両親を「ウリプモニム」と言うのも、特に不思議ではないでしょう。
ところが「ウリ」を「我々」という意味で理解している日本人が聞いたらぶっ飛ぶのが、「ウリナムピョン」「ウリアネ」です。「ナムピョン」「アネ」はそれぞれ「夫」「妻」に当たる朝鮮語です。
一夫一婦制の国の人間ならば、夫や妻を「私を含む集団」で共有するということは、少なくとも建前上はあり得ません。韓国人が「ウリナムピョン」「ウリアネ」と言うのを聞けば、韓国の婚姻形態はもしや一夫多妻あるいは一妻多夫もしくは多夫多妻制なのかと疑ってしまいますが、韓国も一夫一婦制です。
更に言えば、日韓チャットで韓国人が「ウリ北朝鮮(原語ではウリ北韓)」と言ったのも目にしたことがあります。この時はさすがに驚いて「ウリ北朝鮮と言うからには、あなたは北朝鮮人か?」と問い質したほどでした(もちろん韓国人でした)。
これらの使用例を見ると、韓国語の「ウリ」という言葉を、日本語の「我々」や「私たち」の意味で理解するのは、かなり無理が出てきます。そこで最近思うようになったのが、先述した「韓国語における「ウリ」とは、実はそう言っている人そのもののことではないか」ということです。
日本語で「我々」や「私たち」と言えば「集団に属する私」というニュアンスが強いのですが、韓国語の「ウリ」は日本語とは逆で、「私に属する集団」という意識で用いられているのではないでしょうか。
そう考えると、韓国人の「ウリ」の使用例はあまり違和感がなくなります。彼らの考える「ウリ」が何百万人、何千万人いたとしても、それらは全て自分自身に集約して属するものなのです。日本人の「私たち」や「我々」が「集団に属する私」とすると、韓国人の「ウリ」は「集団を取り込んだ私」とでも言いましょうか。何百万、何千万の「ウリ」であろうと、どこまでも「自分自身」が中心で先頭で頂上なのです。
彼らが何かにつけウリウリ言う割に、彼らの集団に対する帰属意識が感じられないのは、彼らにとってウリとは自分に帰属するものであって、自分が帰属するものではないからでしょう。
更に韓国人が常に対外的な自分を「理想の韓国人」に擬するということと考え合わせると、彼らが気軽に吐き散らかす「ウリ」という言葉は、私たちが考える以上に韓国人考察において、示唆に富む言葉なのではないかと思う今日この頃でした。
コメント
チュチェの意味も
成る程。
金日成が「主体思想」を唱えたのは、そういう意味かも
知れませんな┐(´д`)┌ヤレヤレ
つまり、自分がお山の大将になって子分共を仕えさせる、
北に於ける独裁の実情が説明できますね。
主体思想が如何に利己主義思想なのかと( ´,_ゝ`)プッ
「君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの」
ウーム。
「君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの」、という昔の漫才師のネタがありますが、
このような気持ちを表しているのでしょうか。このような冗談が,実際に冗談ではない
という精神構造を朝鮮人は持っているようですね。
とにかく今日のブログ主の記事で,なぜ歴代大統領が後に逮捕され有罪となるのかが
分かるように思いました。つまり,一族郎党が、自分でえらくなったわけでのないのに、
ここで述べられているウリ意識で行動したためでしょう。ゆすりがあったかどうか
分かりませんが,一族郎党でたかりたおしたためなのでしょう。昔はヤンバンも大変
だったのでしょうね。
ただ,ウリ内でも、いとこに良いことがあった場合、あまり快く思わないようですね。
これは,ウリでも同列で良いことがあった時にはたかりにくいが、上列の人に良いこと
があった時には遠慮なくたかれることを表しているのでしょうか。
ウリ=うち?
日本語の「うち」とどのように違うのでしょうか??
・・・うちの物、うちの母、うちではこうこう云々、などなど。
(「うち」って「家」、「内」、まれに「中」と漢字で表しますが、訓読みなので大和言葉ですよね。)
某巨大掲示板からです。
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分解っていうと某板にいた「洗濯機」を思い出す。
彼(在日韓国人らしい)は
「日本メーカーの電化製品は質が悪い」
とかナントカのたまってたのだが
「おまえんちの洗濯機とか冷蔵庫だって日本のメーカーの部品が使われてるんじゃねーの?w」
ってな具合にスレの住人から煽られる。
「そんなわけないだろ!」
と意地になった彼は洗濯機の一部を分解したは良いものの元に戻せなくなってしまい、
「直らない・・・。お前たちのせいだぞ。
ちくしょう、また友達(ルームメイト)に殴られる・・・」
って凹んでた奴。
しかもバッチリ日本メーカーの部品が使われてた。
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読みながら、皆で腹をかかえて笑ったものです。
今回の話は難しいです。まだピンときていません。
「ウリナムピョン」を「私の夫」と訳して不自然さを感じないのですが。
朝鮮人と付き合う時はクールに
ウリに対する今回のブログ主の考察は,いくつかのこれまでの
朝鮮人の行動に対する疑問,というか違和感、に応えてくれる
もので、思わず ウーム と唸りました。この考察以前のブログ
主のウリに対する記事はむしろあまり私の心に響きませんでした。
尤も何人かの訪問者のコメントで、ウリ意識とは0,1の世界だ
との意見に対して結構なインパクトがあったようですが。
しかし私はブログ主の前の記事で,それではなぜウリ意識で,
同族の成功者にたかり,便乗して利益を得るという行動をするのか
が理解できませんでした。というのも日本人の感覚では,ウリで
あれば気が置けないとか,まあ良いことをしたウリ人に対しては
誇らしいと思うだけで、たかることなどはほとんどしないでしょう
。私のこの意見の一部は既にコメントで述べましたが、「ウリとは
たかることが出来るもの,ナムとはたかることが出来ないもの」
であると理解できたのです。これはウリ,ナムが0、1の世界
であると共に,それに対する重要な付加的概念であると思ったのです。
この朝鮮人のウリ意識は、面子の世界で生きている中国人には
通用しないが,ブログ主が言われている「我々」の概念を持つ
日本人には誤解の基で通用してしまうところが問題です。というのも
彼の人達は、いつも日本人に擦り寄り、ウリだと見なし、利益を
得ようとする(たかる)のだと思い至ったからです。
と言うことで,もし私の理解が正しいとすれば,朝鮮人と付き合う
時の心得として,ウリとはならず(xx面に落ちず),ナムで通すのが
一番良いのではないかと思います。でないと間違いなくたかられます。
今様?で言えば,クールに付き合うと言うことでしょうか。あちらの
良いことなどべんちゃらでも言わない方が良いように思います。もちろん
ナムで通すと彼らからの扱いは間違いなく悪くなると想いますが。
確かに昔よく聞きました、この言葉。
「ウリ」
もぅ~、やたら出てくる、出てくる。
韓国語ほとんど出来なかった時もこれだけは聞き取れましたね、「ウリ」。
あの時はただ単に、
「韓国人って、自意識過剰なヤツばっか」
って思ってました。
もっとも、「自意識過剰」ってのも彼らの特性の一つではあると思ってますが。
(私も未だにこの「ウリ概念」を正しく把握できませんね・・・・。ただ、韓国人から「ウリ」なんて言われたら、鳥肌もんであることは確かですが)
ウリ銀行なんてのまである始末です。
そして「ウリ」と「ナム」の境界も都合よくコロコロ変えるのが朝鮮人なんです。
物見櫓さま
>「ウリとはたかることが出来るもの,ナムとはたかることが出来ないもの」
なるほど、しかし。
親兄弟にもたかりたくない日本人の気質からは理解し難いです。
理解しようと思わないのが正しくて、理解できない相手とは断交したいのだけれど、隣の国であるばかりかマスコミや政治にまで浸食している。
ん・・・。日本にたかっているってことは彼らは日本を「ウリ」認識しているってことですか。堪忍してください。もう。
「ウリとナム」と「うちとよそ」。
韓国語の「ウリ」と日本語の「うち」は多分昔は同じ意味合いだったのでしょう。
「ナム」に相当する日本語を探せば「よそ」に近いかと思われます。
「うちのもの」「よそもん」と聞けば少しは理解出来るかなと(母のよく使う「よそはよそ、うちはうち」ね)。
しかし、その使い方はかなり乖離しているように感じられます。
日本語の「うち」は漠然とした「こちら側(内側)」の意識が込められてあり、「よそ」は内側に対する「外側」すなわち「こちら側」に含まれない存在として認識されますが、これは日本独特の「境界」の無意識的な感覚に則っているように私は思われます。
「境界」という用語がおかしいとかオーバーに感じる方がいらっしゃるなら、他人と話す時の距離感に置き換えれば理解しやすいかと思います。全く知らない人には50センチくらい離れて話すが、よく知っている人には30センチ以上近づいても拒否感は出ない。そんな感覚です。
「うち(内側)」と感じたら自分の無意識の「境界」の中に入ってきて構わないのですが、「よそ」と感じたら、絶対に「境界」の中に入れさせません。そんな感覚じゃないでしょうか。
韓国の「ウリ」は「境界」とは無縁で、こちら側と感じたらすべて「内側」、「我々」となり、「私=我々」と感じるのでしょう。
それが社会全体に現れ、日本人は同じ顔出し言葉も似ているからこちら側だろ、と一方的に解釈して仲間意識でもって「ウリ」扱いしてきますが、こちらが「全然違うよ全くのよその国だし民族も異なるし言葉も判らない」と距離を置いて拒否すると、びっくりするんでしょうね。
(今思いついたのですが、「ウリ」=「仲間意識」が近いなと私は感じています)
まだまだ言葉足らずで、もっとチャットなどで議論を重ねないと完全な理解まではなかなか到達出来ないでしょうね。
ブログ主様
時々拝見させていただいております。私は、仕事柄 日常的会話は可能ですが、「ウリ」に関しては絶対使わないようにしております。
*「ウリ」は民族的意味合いを深く持った単語であり、間違っても日本人が入っていく領域ではない。
*韓国語に堪能な日本人でも、頻繁に「ウリ」「ウリ」と言っている場合があるが、気味が悪い。相手の韓国人も内心では気味悪く思っているだろう。
「所属」を「所有」と誤解する韓国人が多いなとは感じていました。
特に「の」の使用については韓国人がやたらと拘ってくるので、なるべく別の言葉に置き換えるように気を付けていました。
反対に、韓国人が、明らかに所有してないものも自分が所有してると表現するのは、同じように言葉の問題だと思ってたのですが・・・・もしかして本気でそう思ってたのかもしれませんね。
>ホンロンさん
「私の夫」ではなく、「我々の夫」だと思います。
素晴らしいエントリーです。スマッシュヒットですね!
僕はもっと単純、かつ昔からある見方【「ウリ=自分」であり、「仲間になってしまえば自分と他の人間との間の細胞膜が融け、境目がなくなってしまう」「私の<仲間>であるあなたはもはや<私>なのだから、あなたの机の上から金を持ち去っても良い。<自分>に対しては礼儀も必要なし」とはいえ、やはりいくら近しい血縁者であっても現実では心の裡(うち)までは分からぬもので、朝鮮儒教の観念で強引に補強した無理のある意識の在りようで、たとえば400年前の秀吉の行為を、まるでつい先日自分自身が受けた被害のように口から泡をふいて怒り狂う精神からも、彼らの<他者>感覚のなさをうかがうことができる云々】で済ませていました。
しかしそういう従来の見解ではうまく説明できなかったいくつかのことが、今回のfetia様の発見により一気に説明できるようになると思います!
[韓国語の「ウリ」は日本語とは逆で、「私に属する集団」という意識]
[ウリとは自分に帰属するものであって、自分が帰属するものではない]
──これ、朝鮮研究としてはお金を取れるレベルの考察ですよ。
今回のようなレベルの知見に触れたり、貴ブログに今まで書かれた膨大な考察のこと、そして中でも特に示唆に富んだいくつかのエントリーをふり返ると、僕などは「月見櫓が書籍化すればなあ」と今まで何度か夢想した光景がまたぞろ胸をよぎってしまいます。
でも今回のような考察は[ちくま学芸文庫]系レベルですし、そっち系からの出版を望むとなると、初学者には「表面的には非常に単純な差別」に見えてしまう多くのエントリーが使えなくなります。【日韓チャットを通して見た韓国(批判)】というキャッチーさと肩書きを前面に出せば『嫌韓流』の晋遊社のような会社が、在韓(当時)ブロガーだった中岡龍馬さん著の『韓国人につけるクスリ』のようにライトな・半ムック的な方向での売り出しを検討したりするかも知れませんが、『嫌韓流』以降 雨後の竹の子のように生まれ(そして早くも忘れ去られ)た浅い嫌韓本のようにしてしまうにはブログ月見櫓の考察には深く、我が国のこれからの外交方面を担う若いエリートにぜひ届いて欲しい部分がなおざりになってしまうことが懸念されます。
考えているうちにややこしくなってきました(いつもですが)。しかも著者のfetia様の思いガン無視&置いてきぼりで勝手な妄想話を広げてしまいすみませんでした(汗。
でも勝手ながら本当に時々思うんですよー。「こんなに沢山書いてるのに経済的な助けにならないのか。世にはクソみたいな本があふれているのに」「我が国のエリート層の中で、特に韓国・北朝鮮を相手に日本の国益を守る立場に立つ人には、"韓国に実際に長く住んだ人"の本だけでは絶対ダメだ。かの地に長くいると、いくつかの理由でどうしても韓国人を完全に突き放して見つめ純粋に国益を考えることが難しくなる。そこを補強するためにいわば和製ルース・ベネディクトが必要なんだ」と。
僕も浅学非才すぎる身の上ですが、僕が朝鮮に費やした時間が多少なりとも日本のためになればと、(仕事の都合上、最近 九段下駅を経由することが多くなったので)靖国の社に誓ったりすがったりしています。
ウリとワレとオレとweは似てますね、倭の言葉は漢字が輸入されても使用され続けた。
縄文は一夫一婦制では無いようです、女中心の時期もある。
朝鮮語とヤマトの言葉は近所だけに似ているところもあれば、かけ離れてるとも言える。
日本人らしさは時代によって作り替えられ、歴史的土着伝統も何度も排除されてますが、
神道からくる価値観は漢字文化には飲まれなかったのでは。中国語は断定的で序列的、英語にも馴染みやすい、日本語は自分をさす単語が複数あるが、神道からくる相手への敬意や、もてなす喜びから来てると思う。